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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(13)


 千鶴に子ができたと告げられた時、これは面倒なことになった、などという気持ちは微塵も湧いては来ず、駒蔵は美津の時以上と言ってもいいほどの喜びに満たされた。美津は駒蔵よりも先に知っていて、「へ。おめでとうさんでござります」と、満面に笑みを浮かべて心からの祝福を表した。
 美津自身も、内心ほっとしていたのである。まさか最初の子を産む順番まで譲ってくれたわけではないだろうが、千鶴は年が一つ上の美津をいつも立て、たまたま駒蔵の戸籍上の妻になった美津に、気兼ねを感じさせることなく接してくれていた。そればかりか、人前では美津を「御寮人ごりょんさん」とまで呼んでくれる。御寮人さんであるには違いないが、自分にはこんな振る舞いはできないと美津は感服する。いつもは親しげに美津を「おみっつぁん」と呼ぶ千鶴は、まるで近所に住んでいる幼馴染のようなのに。
 生まれてみれば今度もまた男の子だった。駒蔵にとっては三人目というので、謙三けんぞうと名付けた。その時点で駒蔵は、子供たちの母親である二人を前にして、謙三を「廣谷」の籍に入れるつもりやと言った。それとともに千鶴への「支援」も申し出るつもりだった。以前、佐助の提案した「妾」という存在に、千鶴はなるんかなあ結局、と少々苦い思いであった。
(駒蔵が正しく認識していたかどうかはさておき、明治初期までは戸籍上も「妾」が公認されていた。明治十五(1882)年一月の新制刑法以降、妾としての入籍はできなくなり、民法で重婚が禁止されるのは明治三十一(1898)年である。)
 美津が大きく首を縦に振って賛同を表し、千鶴を嬉しそうに見た。千鶴はしかし、駒蔵にも美津にも目を合わさずにしばらくの間、誰も座っていない畳の一点を見つめていた。駒蔵が「あかんのんか」と口にするのとほぼ同時に、千鶴は畳に手をつき、深々と頭を下げた。
「有り難いお申し出だす。けど、堪忍だす。わてには商売がおます。幸い男の子を授からしてもらいました。この子に京縫を継いでもらわなあきまへんのや」
 駒蔵がはっとして前かがみになっていた体を起こし、美津もつられて姿勢を正した。千鶴は、頭が畳につきそうなままの姿勢で続けた。
「わがままついでに、言わしておくんなはれ。次に男の子が生まれたら、だんさんの言わはるように、廣谷の籍に入れておくれやす。お頼もうします。次はもうない、言わはるんだしたら、すっぱりここで、身引きます」
 茶屋の女将の凛とした姿がそこにはあった。駒蔵は、簡素に結い上げた千鶴の黒髪に目を奪われるまま、一瞬言葉を失った。その間隙に滑り込んできたのは、日頃口数の少ない美津だった。
「お千鶴さん、身引くやなんてあきまへん。お千鶴さんはだんさんに無くてはならへんお人だす。いいえ、わてにとってもだす」
 美津はすでに目の縁に涙を浮かべていた。千鶴にそう言っておいて、今度は駒蔵に潤んだ目を向けた。もう涙声になっていた。
「だんさん。お千鶴さんの言わはる通りにしておくなはれ。頼んます」
 誰が誰を一番大切に思っているのか、駒蔵にはわからなくなった。好きおうとんのは、この二人の女子おなごかいな、という気さえして、自分は退けもののような、おかしな気分になってきた。見ると、千鶴は頭を下げたまま顔を傾げ、美津と目配せをしているかのようだ。
 なんでわしが、あんたらに焼き餅やかなあかんねん。そんな言葉が思わず出そうになったが、慌てて飲み込んだ。
「はいはい、わかったわかった。あんたらの言わはる通りや。謙三は、笹部を継いだらええ。それがよろし」
 そう言っておいて駒蔵は、千鶴に改めて月々の支援を申し出た。するとまたしても抵抗にあった。
「何言わはりますのや。子どもくらい自分で育てますがな。だんさんは大事なお客さんでもあるんだっせ。これからも京縫に達者で通うてくれまへんと」
 千鶴はようやく頭を上げ、今度は少々色をなして答えた。伊達に女ひとりでお茶屋を取り仕切る女将ではなかったことを、駒蔵は忘れていた。ほんの少しでも「妾」という存在に当てはめた自分を恥ずかしく思った。その思いは駒蔵を、「この女を一生離したらあかん」という気にさせた。
 こうして、千鶴の生んだ男の子は「笹部謙三」となった。そしてそれ以降、男の子ができたら庶子として廣谷の籍に入れるという約束が、その場にいた三人の間で交わされた。
 
 母親になってからも千鶴は、お茶屋「京縫」の女将としてますます店を繁盛させた。そのことは、我が子を一人で育てる千鶴に養育費を支払わない決まりの悪さから、駒蔵を救っていた。お茶屋通いも勝手に「支援」と言い換えてしまえばいいわけだったから、所帯を持ってからも駒蔵のそれは相変わらず続いた。一方、母となった二人の女は、さらにその距離を縮めていった。家が近いこともあって、しょっちゅう会っては、母として妻としての悩みを相談しあった。お互いの子供たちも、駒蔵を父親に持つ息子として二つの家を行き来した。


 美津が双子を産んだのは、謙三の誕生から三年後、明治二十七(1894)年、秋のことである。
 八月一日に日本は清に宣戦布告して戦争を始め、最初の戦いに勝利していた。謙三に「三」の字をつけたのを忘れたわけでもなかったが、駒蔵は双子を三郎、四郎と名付けた。しかし当時、双子は畜生腹と忌み嫌われ、四郎は生まれてすぐ養子に出された。
 翌年四月、日本が多額の賠償金を手にして日清戦争が終わると、ふた月後の六月に先代の近江屋徳兵衛が、八月には妻のとみが追うようにこの世を去る。
 そんな頃、駒蔵は松江から来た男と出会う。
(つづく・次回の掲載は4月15日の予定です)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。




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