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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(4)


 近江屋恒例の「すき焼きの日」が行われた翌朝、大番頭の佐助はいつものように、奉公人全員を店の土間に集めた。一段高い勘定場から訓話か小言か判然としない話をしたあと、昨夜、ついに現れなかった駒蔵に目を留めて言った。
「お前、なんで昨日来んかったんや、すきやきの日やのに」
 佐助は、駒蔵が来なかったのは、どうせ丁稚頭の兵六が仕組んだせいに違いないとはわかっていたが、駒蔵の表情にいつもと何の変わりもないのを訝って、尋ねたのだ。
 年少の丁稚たちの間でくすくす笑いが漏れる。駒蔵は飄々ひょうひょうとした風情のまま、佐助をぼんやりと見つめていた。そして、一瞬の間を置いて、目も口も鼻の穴まで全開させ、まるでこの世の災難をすべて一気に被ったかのような顔になって、大声を上げ、頭を抱えた。
「しもたー、忘れとったー」
 そのあまりの驚きっぷりに、きれいに整列していた丁稚たちの何人かは列を乱した。のけぞって倒れそうになったやからもいた。なかでも丁稚頭の兵六が最も動揺し、思わず口走った。
「お前、ほんまなんか?」
 駒蔵は肩を落とし、兵六のほうを向いて大きくため息をついてみせた。
「ほんまです。いや、昨日ははよ帰ってさっさと寝とったんですが、なんや夜中、一緒に寝とる奴らの屁がえらい臭うて、なんでやろと思とったんですが……。そや、すき焼きの日や。ほんま、しもたことしましたわ。阿呆やわー」
 幼い丁稚たちから笑い声がまた漏れた。それを叱る年長者たちの声も半分笑っていた。駒蔵はそんななか、顔も体勢も整え、佐助の目を今度はしっかりと見て言った。
「次ん時までぎょうさん働いて、今回の分の肉、取り返しますわ。ほんで次は、みんながもっともっとぎょうさん肉食えるよう、気張って働かせてもらいます」
 そう言って駒蔵は腰をかがめ、頭を深く下げた。
 おおー、という感嘆の声があがり、奉公人たちの間に伝染していった。佐助は彼らを見下ろし、春に神崎屋から連れてきた“ぼん”が、わずか三か月で確たる輝きを放っているのを見た。兵六の“してやられた”という悔しげな表情も、小さい子らのどことなく嬉しげな様子も見届けた。
「よっしゃ。ええ心がけや。ほな、お前らも次の節季に向けて、気張りや」
「へえ」
 全員のよく揃った声が、朝の空気の中、店の奥まで響き渡った。次の当主となる駒蔵を、誰もが認めたというしるしのようでもあった。

 そのことがあって以来、店の中で、駒蔵を見る目が変わってきた。丁稚ならば誰もがやってきた便所掃除と台所番が駒蔵からは免除されたが、誰も文句を言うものはいなかった。秋になると、外商いにも駒蔵は呼ばれるようになった。
 近江屋の家紋の入った半纏はんてんを羽織り、一反風呂敷に商品を包んで背負って、手代のあとから得意先を回るのである。川を南に渡って、神崎屋のある堺筋の方まで足を伸ばすこともあったが、生家に顔を出すことはなかった。禁じられていたわけでもないが、神崎屋、近江屋双方にとって、そうすることが妥当であろうと、駒蔵は理解していた。
 内向きの用に比べて、やはり外回りは楽しかった。丁稚の分際で、あれこれ口を出すことなどはないが、手代と客が喋っているのを聞くだけでもためになった。季節の挨拶に始まって世間話が延々と続き、なかなか商いの話に辿り着かなかったりするのも(世間話で終わってしまうこともあった)、最初は与太話と思って苛々しながら聞いていたのが、大事に思えるようになった。商人あきんどはこんな会話の中から、おそらく相手が何を必要としているのかを探るのだ。そう考えると、それが何かを想像するのが楽しくなった。
 大坂の町は、幼い時分に父親に連れて行ってもらったときとは別の印象を駒蔵に与えた。ただ、ぶらぶら歩くのと、俺は商いをしておるのや、これでも商人の端くれや、と思って歩くのでは景色も違って見えるものだった。
 ところで駒蔵が跡を継ぐことになる当主の徳兵衛は、おとなしい、穏やかな人で、佐助を信頼しているのであろうが店先に来て直接、差配をすることもなかったし、直接駒蔵と話をすることもほとんどなかった。それが、二度目の節季が終わる頃から、時折、夜、駒蔵を寝所に呼び寄せて、按摩をさせるようになった。そんなとき徳兵衛は「なんか話せや」と言うので、
「外回りしとりますと、いとはんに綺麗なべべ・・着せて連れ歩くようなだんさんに会いますが、そういうだんさんは、ぽんと大きいもんを買うてくれるような人や思いますから、日頃からいとはんのほうに気ぃつこうとくべきや思います」
 などと話すと、徳兵衛は相好を崩して喜び、どんどんそんな話を聞きたがった。
 徳兵衛の妻、駒蔵の母親に当たる人の名は、何の縁か、とみ、と言った。年より老けて見え、病弱で子供の産めない身体でもあったから、初対面ではその人を母と呼ぶのにためらいのあった駒蔵にとって、実母の登み子と同じ名であったことは幸運だった。生みの母がもう母ではない、という現実を受け入れられない年ではすでになかったから、駒蔵は、とみを登み子の面影に重ね、事実、二番目の母を死の瞬間まで尊重し、いたわり、面倒を見ることになる。

 明治七(1874)年五月、近江屋のある老松町から十町ばかりのところに官鉄の駅ができ、神戸行き路線が開通した。もともと堂島にできるはずが、街なかに「火の車」が走るやなんて危ない、かなわん、と地元の猛反対を受け、大きな墓地もあるような辺鄙な場所だった梅田に計画変更された。駅名は正しくは「大阪停車場」であったが、誰もそんな名では呼ばず、「梅田ステーション」、いや、そうも呼ばず、「ステンショ」と呼んだ。その年、十七歳になった駒蔵は、せがまれて幼い丁稚たちをよくステンショに連れて行った。煉瓦造りのモダンで堂々とした建物は、新しい時代の香りがした。
(つづく・次回の掲載は12月1日の予定です)

*参考資料:本渡章「続 大阪古地図むかし案内」(創元社刊)
*実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。


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