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仰げば尊し

恩師が亡くなって3年が過ぎた。あの夜、大学で卒論の指導を受けた先生の名前が旧ツイッターのタイムラインにたまたま流れてきた。真偽のほどは分からない。各紙の新聞記事検索を当たったが出てこない。日をあらためて神保町の大きな書店に行く。学会誌の動静に何か情報がないかと考えた。勘は当たった。小さな記事だったが、先生の逝去を確かに伝えていた。先生は私たち夫婦の仲人でもあった。大学卒業後勤めた新聞社が西日本にあり妻も当地の出身だったから、結婚式は都内ではなく、先生には宿をお取りしお越しいただいた。

大学時代、先生との距離は決して近くはなかった。院進するわけでなく地方紙に就職が内定していたこともあって卒論の準備は遅れていたし、そもそも先生には近寄りがたい雰囲気があった。それが卒業に当たり、先生はゼミを代表する論文に私の「鎌倉末期における悪党行動」を選んでくれた。先生はその理由を私にこそっと耳打ちしてくれた。「君のは一気に読んだ。いや読まされたんだ。中味はスカスカだったけどね」とお茶目に笑った。400字詰め原稿用紙100枚余。その場で小躍りしたいくらい、こんなにうれしい出来事はなかったように思う。論理の厚みなんかはどうでもいい、ただいい角度で上機嫌に進む展開を先生は分かってくれたのだと思うと、うれしかった。

「中味はスカスカ」と言った先生の顔を思い起こし、居ても立ってもいられなかった。帰宅して先生から来た年賀状を探しご自宅に電話したが通じない。手紙を先生の奥さま宛てに書いたが、数日後宛先不明で戻ってきた。その年、先生から高齢により年賀状を控えるという葉書をもらっていた。元気そうなお顔がそこにはあった。学生の時の会話を思い出せと、冷静になって自分に命じてみる。確かお子さんがいたはずだが、ご家族の動向までは分からない。翌日、会社の昼休みに先生の訃報を掲載した発行元の出版社を訪れた。編集部は幸い会社の近くにあり、そこに行けば誰か知っている人がいるかもしれない。だが、細い望みの糸も先生にはつながらなかった。完全に手詰まりだった。コロナ禍であることが恨めしかった。

こんなとき、前職の経験が生きる。第三者に聞け。先生の住んでいたマンションをネットで調べた。管理棟があるということは管理人がいるだろう。直通電話の番号が見つかった。ここでダメならあきらめるしかない。何度か電話を掛けた。先生の部屋のある棟の担当者を捕まえる必要があったのだ。ただ先生にお線香を手向けたい、その許しをご家族に乞いたいむねを伝えた。担当者も迷っていた。当然、個人情報管理の原則から外部には教えられないのだ。不義理をしたくないという私の一方通行の思いだ。頭の片隅では思い上がっていないかとのブレーキもかかる。先生の奥さまは高齢者施設に入っていて、部屋の空気の入れ替えに月に1回、娘さんが見えると管理人は教えてくれた。「娘さんに言づけてほしい。教え子がお悔みのお手紙と香典を送らせてほしいと言っていると。先生のお好きな甘いものをお供えしてほしい」

後日、管理人から連絡があり、娘さんから長男の息子さんの住所を教えていただき、手紙を送ることができた。先生には初めて編集した新聞紙面、取材して書いた第1号の記事も送った。先生からは退官の際に出版された著書も出産のお祝いもいただいた。父を早くに亡くし、親代わりだと私の妹を天ぷら屋に連れて行ってくれたこともあった。

「この論文も読んでいないのか」。学生時代に何度か浴びせられた一喝で、以後、私は先生の前では直立不動だった。でも、足利尊氏の花押を刺しゅうしたネクタイを締めた先生に、「自分は史料屋だ」と言い生涯、古文書に向き合ってきた先生にずっと憧れてきた。

このSDGs+最終号を先生に捧げます。

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