「同時代の詩を読む」(31)-(35) 山城明子、立石俊英、黒田明伽、立石俊英、横山勇気

「同時代の詩を読む」(31)-(35) 山城明子、立石俊英、黒田明伽、立石俊英、横山勇気


(31)

「蜥蜴」            山城明子

テーブルに紙の箱が置いてある
覗くと蜥蜴が一匹横たわっている
蜥蜴は目を閉じている
胸が微かに上下しているので、生きているのがわかる
ルーズリーフに姉の字で走り書きがある
蜥蜴は悲しいと死にます、と書いてある
姉はいつものように出かけてしまっている
なぜここに蜥蜴を置いていったのか、わからない

今日は楽しみにしていたライブの日
初めてチケットを取った
早目に出かける予定だった
ルーズリーフには書いてなかったけれど
蜥蜴の世話をわたしがしなくてはいけないようだ
ライブの時間に間に合うように出かける
頭のなかで予定を変える

家のなかが整頓されているのが落ち着く
それで家事をしている
それが好きなのではない
大家族のなかで家事をするのが
なんとなくわたしの役割になっている

家族はそれぞれ忙しい
食事の時間もバラバラだ
食事を作るのはわたしだから
わたしが家族を繋げていると思っている

家族は予定を言わないから
今日のライブ行きを言ってはいない
小さな蜥蜴の世話で
楽しみにしていたことを変更しなくてはいけない

窓から急に大風が入ってきた
箱には何も入っていない

* 

「蜥蜴」についての感想 松下育男

一連目の「蜥蜴は悲しいと死にます」のところで驚きました。この言葉の真意はわかりません。わからないけどぐさりときました。このようなことが書かれ、いったんそれを読んでしまったら、読み手はいやでも思いを巡らしてしまいます。
自分はどうだろう。悲しくたって簡単に死にはしない。いやそうだろうか、悲しくてもすぐには死ななくても、精神が死んでしまうようになることはあります。長年の悲しみが慢性病のようにしみてきて、そのまま死に至ることもあるかもしれません。いえそれほど単純ではないはずです。悲しみがむしろ、その後の人生を強靭にしてくれることもあるのではないか。気がついたらこの詩とはずいぶん隔たったところまで、考え事は進んでしまいました。

この詩の優れているのは、「蜥蜴は悲しいと死にます」のところだけではなく、ひとつひとつの文章がしっかりと書かれているところにあります。無駄に言葉を飾ったり、折り曲げたり、していません。着実な文章がしっかりと作者から吐き出されて、詩に並んでいます。それが読んでいて心地よく感じられます。
蜥蜴、家族、自分の、生き方や役割が、淡々と語られています。書かれていることはすべて道理にかなっていることなのに、総体としてどこか不条理な世界と感じられるのはなぜなのでしょう。効果を狙ってこのように書いたのではなく、ただ普通に書いていたらこの詩にたどり着いたのだと思います。つまり、現実そのものが不条理だと感じるのです。
読んでいると、なんだか家族がみんな蜥蜴の顔をしているように錯覚をしてしまいます。読むほうで勝手に蜥蜴家族の物語を作りたくなってきます。読んでいてその作品をもっと伸ばして考えてしまうのは、すぐれた作品の特徴です。

ところで、最後に蜥蜴がいなくなってしまったのはどうしてでしょう。この風は何を意味しているのでしょう。というよりも、最後の連で重要なのは「箱には何も入っていない」のところです。この箱は言うまでもなく、「わたし」のことでもあるのだと思います。
 

 (32)
 
「空転」     立石俊英
 
「軌道の上を走る車に乗る者に人生はわからない」
という言葉に唆され、同級生はみな犯罪者になった。
 
がらんどうになった教室の窓の外では
かつて私の同級生だったものを
ギュッ とひとまとめにした
巨大な肉団子みたいな円盤が
不敵な笑みを浮かべて
ゆるやかに旋回しており
校庭で遊んでいる児童たちから
石を投げられている
 
“Look, Wheel in the Sky!!”
“Wheel in the Sky!!”
 
子どもたち、どうかやめておくれ
あれは私の同級生なんだ
信じてもらえないかもしれないけど
とても聡明な学生たちだったんだ
 
私はどうしようもない落ちこぼれだったから
ぜんぜん相手にしてもらえなかったけど
いつも君たちがうらやましくて
いつか君たちのように優秀な人間になれたら
私も家族や先生を喜ばせることができるんじゃないかって
信じていたから
あきらめずに勉強を続けてこられたし
君たちより何年も時間がかかったけど
学校だって卒業できた
これでやっと私も
君たちみたいに
誰かの役に立てるんじゃないかって
(それがどれほどうれしかったか)
 
石をぶつけられて
あちこちへこんだ
円盤状の同級生たちは
歯をむき出し
猛烈にスピンを始めるが
自らの意思で地上に降りることはできず
したがって
なにひとつ
児童たちに危害をくわえることができない
宙に浮かんで
なすすべもなく
石をぶつけられ続けている
(あんなに大きくて
あんなにおそろしい姿をしているのに
子どもひとり怖がらせることもできないとは)
 
まことにくやしいことばかりだ
私はいったい何のために
この教室で一人
孤独で無力で陰惨な日々を送っていたのか
あの同級生たちの家族がいま
どんな思いをしているか
いったいいつになったら私は
許せないものを許さずに済むようになるのか
いっこうにわからないのだ
 
日が陰り
石投げに飽きた児童たちは校庭を去り
痛々しい姿になった同級生たちは
午後の風に力なく吹かれて
すこしずつ遠ざかっていく
窓から身を乗り出した私を目にした同級生が
驚愕したような表情で何かを叫んだ
(君たちの目には、私はどう見えているのですか)
知らぬ間に得体の知れぬ力が
この身に宿ったような心地がして
総毛立つ私が必死に耳を澄ませても
彼らの叫びは飛散して届かず
不穏な空だけが私に残された
 

 
「空転」についての感想    松下育男
 
立石さんはこの欄に2回目の登場です。これまでもずっと力のこもった詩を書いていましたが、一年くらい前から、書いているものの焦点がぴたっと合ってきて、そうしたら読者の心にぐっと入り込むようになりました。最近もっとも興味深い詩を書いている人の一人だと、ぼくは思っています。
 
それにしても、このスケールの大きな想像力はどこから来るものなのだろう。このところの立石さんの書く詩を読むたびに、ぼくは少なからず驚いてしまう。
 
この詩にも書き出しのところから目をみはってしまった。いったい「かつて私の同級生だったものを/ギュッ とひとまとめにした/巨大な肉団子みたいな円盤」とはなんという想像だろう。とんでもないことを考えるものだ。さらに、そのとんでもない想像が、詩の中で妙に実感を伴ってしまうからすごい。
 
その空中の肉団子に向けて児童が石を投げる、というのもとても奇妙な図柄だ。
 
書いてあることは自分の学生時代の劣等感と、要領良く人生を生きていく人に対する複雑な思い、であるのだろう。
 
その思いがどうのこうのというよりも、読み終われば今まで見たことのない肉団子が読む人の頭の空に浮かび、気がつけば読者は自分の劣等感に向き合ってもいる。
 
「いったいいつになったら私は/許せないものを許さずに済むようになるのか」のところを、どのように受け止めるべきか。
 
また、この詩の「子どもたち」は何を象徴しているのか。作者の分身でもあるのか。あるいはもっと別次元の存在なのか。
 
繰り返し読んでは、その意味を自分の人生の中にも探ってしまう。何度でも読み返したくなるよい詩だ。
 

(33)
 
「反論」    黒田明伽
 
ひとまわり以上の歳の差が
途方もなく深く広い溝に思えた
あの頃のふたり
「何年たってもこの差は変わらないんだよ」
ずっと長く生きた あなたの言う事だから
それが正しいのかと 口をつぐむしかなかった
 
何と言えばよかったのだろう
めぐりきて
あの頃のわたしの気持ちに
ぴったりな言葉を見つけました
「溝があるなら わたしが橋を渡します」
 
白髪を染め
針穴がかすむ
折り返しをとうに過ぎたわたしには
瞬きをする間に
ひとまわりが流れていきます
わたしはもう そちら側ですよ
 
「一生言われるなぁ」
慈しみ深くやわらかい微笑みが
隣にある
 
*
 
「反論」についての感想 松下育男

年の差のある二人が結婚をしたという、よくあることを詩にしています。「ひとまわり以上の歳の差」というのですから、まあそこそこ違うかなという感じです。
 
この詩でおかしいのは「何年たってもこの差は変わらないんだよ」という当たり前の言葉に「それが正しいのかと 口をつぐむしかなかった」と反応するところです。というのも、当たり前のことを当たり前に感じない心が詩につながってゆくからなのです。
 
さらにその納得の理由が「ずっと長く生きた あなたの言う事だから」というのだから、さらにおかしく感じられます。いかに「あなた」を愛し信頼しているかが、この奇妙な理由の中に感じられます。だって、誰がなんと言おうとも、何年経っても歳の差は変りようがないのですから。
 
もしかしたらこの差とは、年齢の差そのもののことではなく、もっと精神的なことを指しているのかもしれませんが、それはともかく。
 
で、作者はその歳の差のことをずっと考えていて、やっと見つけた答えが「溝があるなら わたしが橋を渡します」とのこと。なんだそんなことかと思う一方で、この言葉の温かみや重さをしっかり感じてしまって、ぐっときてしまうから詩というのは不思議なものです。
 
三連目、結局年の差は縮まらないまま月日は経ったようです。「瞬きをする間に/ひとまわりが流れていきます」のところもよくできています。この「ひとまわり」は「ひとまわり以上の歳の差」の「ひとまわり」ですから十年以上ということです。ここ、好きです。
 
「わたしはもう そちら側ですよ」というのは、言うまでもなく二人がともに老齢になったということです。それまでの、一人は年寄りで、もう一人はそうでないという状況から、二人一緒の状態になったということです。読んでいて、なぜかほっとするからこれも不思議です。
 
最後の連の「一生言われるなぁ」は、年上の夫の言葉だと解釈したのですが正しいのかどうかわかりません。詩のタイトルの「反論」を、妻から嬉しくも「一生言われるなぁ」と言ったのだと思ったのですが。
 
とにもかくにも「慈しみ深くやわらかい微笑み」に満ちた、さりげなく書かれたよい詩です。
 

(34)
 
「半身(上)」   立石俊英
 
その便の乗客が私ひとりだけだとわかって、私は運転手さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 
「私の予約さえなければ、今ごろ運転手さんは家に帰ってテレビを観ながらご家族と一緒に夕飯を食べられたでしょうに、誠に申し訳ないかぎりです」
「いえ、いえ、お気になさることはありません。バスというのは、乗客がいなくともダイヤ通りに走る必要があるのです」
「バスの運行が乗客の有無とは無関係に行われるのだとしても、運転手さんや運転手さんのご家族が人である以上、そこには人の意思というものが介在してくるはずです。たとえ人の意思とは無関係に何かが実行されるのだとしても、人の意思は尊重されるべきだという考え方もありますが」
「興味深いご意見ですが、あいにく私は運転手です。少なくとも、ここではそういうことになっています。お客さんをダイヤ通りに目的地まで届けるのが仕事です。発車します」
 
日本海沿岸のこの地域では、およそ一年の半分が曇天だという。車窓の外には濃いねずみ色の霧が立ちこめており、いまが昼なのか夜なのか、バスがどの方角に向かって走っているのか、出発してすぐにわからなくなった。
 
「むかし、ここの海岸が蜃気楼の名所としてテレビに取り上げられたことがありましてね。流行りもの好きな人たちがカメラ片手に、そりゃあもうぞろぞろと。なにかオーロラのような、この世のものとは思えない幻想的な光景を期待していたのでしょうな。ところが実際には、ひとりで自分の顔写真を撮り続ける未婚のおばさんとか、大声で同じ話を繰り返す髪のうすくなったおじさんとか、そういうつまらないものしか見えなかったらしく、文句をこぼしながら帰っていきました。それからは訪れる人もめっきり減ってしまって、ご覧のありさまです」
 
バスは時折、思い出したように停車した
そのたびに
ぷしゅ とドアが開く音とともに
湿度をたっぷり含んだ、ぬるく重たい空気が
ぬっ と入り口から頭をのぞかせて
平たい腹をウミウシのようにくねらせながら
巧みに通路を這ってゆき
最後尾の座席から順に詰めて
行儀よく座っていく
運転手さんはそれを指差し確認し
開いた時と同じ
ぷしゅ と音を立てて
ドアが閉まって
バスは再び走り出す
私は運転手さんのすぐ近くに座り
その一部始終をぼんやりとながめていた
 
「蜃気楼というのは、ゆめまぼろしではないんです。蜃気楼として現れるのは鏡像、つまり、どこだかわからないが、どこかには確かに実在しているもの。わずかな角度の違いから、私たちの視力では捉えることのできないもの。それが、光の屈折加減や湿度などの条件が偶然そろうことで、私たちの目にうっかり映りこんでしまう、こういう具合ですな」
 
窓側の席に座った
背の高いウミウシの
透き通った肩がゆれている
その肩越しの窓ガラスには
ひとりの勤め人が
会社の小さなデスクに
冷凍食品を詰めた
わびしい弁当を広げ
背中を丸めて
黙々とおかずを頬張っている映像が
何度も再生されている
 
「近ごろ息子が空想ばかりしておるのです。手足がたくさん生えたヘンテコな魚の絵を何枚も描いていたかと思えば、今度は私と家内に向かって、異国の教会のステンドグラス職人の爺さんの修行時代の苦労話を語り始めたり。そういう、わけのわからんことを妙にリアルに語るんですな。想像力ばかりたくましくなってしまって、いやはや困ったものです」
「あら、ご心配ですか? 空想のなかの登場人物たちを、実在しないからといって信じる価値がない、とするのは、いささか厳しすぎやしないかと、私なんかは思うのですが」
「いえ、いえ。私が心配しているのは、実在しないものを信じていることではなくてですね。そのう、何といいますか、実在しているものを信じていないように見えることに対してなのです。例えば、私と家内がふたりして息子の肩を抱いているのに、その眼のどこにも私たちの姿が映っていないことがあるのです。私たちは息子の目の前にいるはずなのに、この子には私たちが見えていないのではないか。私たちがこうしてここにいることを、信じてもらえていないのではないか。そう思うと、たまらなく悲しくなってきましてね。この子の魂はいま、どこをさまよっているのか。あるいは、ほんとうは私や家内のほうがどこか遠いところにいて、それを呼び戻そうと息子は必死に私たちの肩を揺さぶっているかもしれないのに、私たちがそれに気づいていないのか。いったい、私たちはこの子のどこにいるのか。もしかすると、この子はもう、私たちの想像のなかにしかいないのではないか。なんだか、だんだん自信がなくなってしまって、それがすこしおそろしいのです」
 
何個目のバス停を通過したのか
もうわからなくなったころ
ドアの開く音とともに
ふわっ と潮の香りが
車内にひときわつよく漂ってきた
透明な乗客たちは歓声をあげて
喜びに全身をぷるぷると震わせながら
浮足立ちつつも互いに譲り合い
いそいそと出口から降りていった
すっかり涼しくなった車内は
私と運転手さんのふたりだけになった
 
「次です。お忘れ物のないように。特に傘。傘を忘れる方が非常に多い」
「ありがとうございます。はい、この手に確かに折り畳み傘を持っております」
「それは安心。しばらく急な下り坂が続きます。どうぞシートベルトを」
 
運転手さんの言った通り
バスはしだいに加速しながら下降を続け、やがて
ずん という縦揺れとともに着地した
 
「到着しました。雨晴海岸です」
 
私の差し出した乗車賃は
運転手さんの白手袋をすり抜けて
ここには存在しないバスの
車内精算機に吸い込まれていった
からからからららら と
硬貨を計数する無機質な音が
ひとしきり車内に響いた後
間延びしたブザーが鳴って
出口のドアが開いた
もう誰も乗ってこなかった
 
「見てください、この腕時計を。これは私の父がくれたものです。確かに運転手さんは、ダイヤ通りに私を目的地まで届けてくれました。たとえ音も光も届かない深海の底であろうと、この腕時計がいつも正確な時刻を教えてくれます。私はもう、どこに向かっているのかを心配する必要がなくなったのです。だって、どこを出発してきたのかを、私はいつでも思い出せるのですから……」
「私がお伝えできるのは、ここが終点ではない、ということだけです」
「そうですとも、ここが終点であるものですか」
「私たちはなんとしても家に帰って、テレビを観ながら家族と一緒に夕飯を食べるのです。海岸は左手です。お気をつけて」
 

 
「半身(上)」についての感想 松下育男
 
立石さんは「過車」「空転」に続いて、この欄の三回目の登場です。
 
この詩も詩の通信教室に送られてきた詩なので、ぼくは先入観を持たずに、どんな感想を言おうかと思いながら読み始めましたが、途中から自分の立場を忘れて読みふけってしまいました。今回も力作です。
 
詩は、蜃気楼の見える場所をバスに乗って通るところから始ります。最初の方は理屈がちょっとくどいかなと思いながら読んでいましたが、知らぬまにその理屈にまんまと取り込まれてしまいました。
 
最後まで惹きつけられて読みましたが、特にいいなと思ったのは、
1 途中でウミウシ(のような空気)がたくさんバスに乗り込んでくるところ、
2それから蜃気楼で、とんでもないもの(勤め人が弁当を頬張っているところ)がとんでもない場所(バスの窓ガラス)に見えてしまうところ、
3 さらに自分の子どもには自分たち両親の姿が見えていないのではないかとおそろしく疑うところでした。
どこも素晴らしいし、考えさせられます。よくぞこまで想像力を伸ばすことができるものだと、ただただ驚いています。
 
最後に、目的地である終点が見えなくなるところもなかなかよくできているなと思います。私たちの帰るべき場所はホントにどこかにあるのだろうかと、しばらく考えてしまいます。
 
とにかく読みでのある詩です。
 
作者の立石さんは、数年前に詩の教室に参加しましたが、当初から密度の濃い独特な世界の詩を書いていました。ここに来て、読者をつかむ手のひらの大きさが定まった感じがします。ここにひとりの素敵な詩人がいる、とぼくは素直に思います。

 
(35)
 
「あつまり」     横山勇気
 
大人は集まってください
とグラウンドの中央にいる人からの声
大人と呼ばれることに慣れた面々が
手招きされる方に向かって歩いていく
小さな輪となった大人たち
子ども達のクラブ活動の進め方や
遠征の説明があって
目的地までの電車の使用について話し合う
ひとしきり電車を悪者にしたところで
作り笑いの汗がでた
大人がたくさん集まると
言いたいことや聞くことよりも
口にださないことの方が増えてくる
言葉を口にだすと
いつもうそをついてる気がして
でも口にするべきうそとかもある
それが喉元から
でるかでないかしないうちに
あつまりは終わった
グラウンドは
土日の工場に囲まれている
館内放送から流れるのは
会話の片方だけ
 
*
 
「あつまり」についての感想    松下育男
 
 
優れた詩を書くためには、遠くまで旅して極意を学んでくる必要はありません。あるいは、特別な体験を積んで帰ってくる必要もありません。普通に暮らして、普通のことをしっかり考えて書いていればよいのです。詩は手元に転がっています。書くためのすべてはここに無限にあります。
 
今日の詩は、先日のZoom 教室に提出された詩です。おとなしい内容とひそやかな長さ、でも、とてもよい詩だと思います。
 
だれにでもある日の、なんでもない体験なのに、その日のことを深く考えて書いています。どの一言も、上っ面でものを言っていないし、作者の実感がしっかり言葉にされています。読みながら、なるほどそうだよなと頷いてしまいました。
 
たぶん子供たちのクラブ活動のことでしょう。どこかへ遠征で行くことについての父兄への説明会が、学校であった時の様子を書いたものだと思います。この辺を読んでいると、そんなことが自分の人生にもあったなと、懐かしく思います。親になって佇む校庭の風景なんかが思い出されてきます。
 
ぼくがこの詩のどこに頷いたかというと、まず「大人と呼ばれることに慣れた面々が」のところです。うまいなと思います。こういうふうに言うことができるのかと思いました。また「ひとしきり電車を悪者にしたところで」の一行もうまい。具体的に何が話されたのかが書いていないのに、なぜかその時の会話が聞こえてきそうな気がするからすごい。
 
さらに「大人がたくさん集まると/言いたいことや聞くことよりも/口にださないことの方が増えてくる」。ここがたぶんこの詩のハイライトであるようです。確かにそうだよなと思います。
 
それとともに、人の中で指名されたわけでもないのに、わざわざ自分の意志で自分の考えを言うときの「いうべき」かどうかの決断のレベルについても、同時に考えてしまいます。生きているとたまに出くわす戸惑いです。ちょっとした戸惑いですが、人生って、そんな小さな戸惑いの集積でもあると思えるのです。
 
言葉を発することについてよく考えられた詩です。と同時に、いっときいっときについて、生きていることの実感をもっとよく味わえよと教えてくれているような詩です。

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