「断固とした曖昧」 ー 高階杞一詩集『雲の映る道』

「断固とした曖昧」 ー 高階杞一詩集『雲の映る道』(澪標)

 今更あらためて言うまでもなく、詩人とは、不安定さ、不確実さ、脆さの別の言い方ではないかと、長年思ってきました。詩人として、いくら真摯に月日を過ごしてきても、いつまでも積み重ねられるものがない。何十年の経験も、それまでの創作の工夫も、苦悩も、次の作品には何の役にもたたない。あたらしく原稿に向かう時には、そのたびに自分の位置を見失い、文体を見失い、詩の何たるかを見失ってゆく。いつまでたっても、中学生のときに詩を書き始めたときと、なんら変わりがない。どんな作品を書きたいのかもわからないし、どんなものが出 来上がるのかも予測がつかない。常に手ぶらで創作に立ち向かうことが、詩にあっては、当たり前のことのように思ってきました。
 しかし、物事はそれほどに単純ではありませんでした。どのような確信も、それを覆すものが出てくるものです。そのような考え方を裏切る存在として、わたしは谷川俊太郎を知りました。谷川さんの内実は、もちろん知る由もありませんが、読者として見ているときに、常に詩が、詩人から滔々と生み出されてゆくように感じられました。そして新しく書かれた詩には、前に書いた詩の経験がきちんと生かされ、綿密な計算や戦略のもとに、次の詩が選ばれているように感じられたものです。つまり、日本の詩は二種類に分かれるのだと、わたしはその頃思っていたのです。「谷川俊太郎が書いた詩」と、「谷川俊太郎以外の詩人が書いた詩」です。さらに恐れずにその特徴を言うならば、前者は「つまらなくない詩」であり、後者は「たいていつまらない詩」なのです。
 ところが、この分類さえ必ずしも正しくはないのだと、いつの頃からか感じられてきたのです。つまり、高階杞一が日本の詩の世界に現れたのです。高階さんは、谷川さんではないのに、「つまらなくない詩」を書くのです。わたしは詩を、子供の頃から延々と読み続けていますが、「詩はつまらないもの」というのが基本的な感じ方でした。それでもたまに、「つまらなくない」詩に出くわすことがあり、その「たまに」の驚きがあるから、詩を読み続けてきたようなところがあります。しかし、高階さんの詩は、日本の詩であるのにもかかわらず、「つまらなくない」のです。これは僕にとっては、おおいに驚きでした。
 どうして高階さんの詩は「つまらなくない」のだろう、というのが、ですから僕の一番の関心事でした。今回の新詩集『雲の映る道』を読むときにも、僕の姿勢はほかの詩人の詩集に向かうときとは違っていました。書かれている詩がすぐれているであろうことは、自明のことのように思われました。そんなことは読む前からわかっていました。僕にとって高階さんの詩を読むとは、詩を享受することではなく、どうしてこのような詩が書かれるのかを詮索することでした。もともと、「享受」することと「詮索」することは、詩を書くものが人の詩を読むときには、常に持っている二面性ではあります。しかし、高階さんの詩に僕が向かうときには、ほとんど、虫眼鏡をもって精査しているような読み方になってしまいます。つまりは、その謎の手がかりなりとも、つかまえたいと思うからなのです。
 一番気になっていたのが、その「おそるべき安定性」にあります。つまり、作品の質が、ひとつとしてあるレベルから落ちることがないのです。それはなぜだろうと考えました。つまり高階さんにとって詩は、ほかの多くの詩人のようには、改めて一から書き始めるものではないのではないのかと思うのです。高階さんにとって詩を書くとは、スタートラインに立って、号令の音を待っていることではなく、もうすでにずっと前から走り続けている単なる通過地点なのです。詩は、一篇一篇と分かれて題がつけられて印刷されていますが、ほんとうはすべて がたった一篇の詩なのではないのか。あるいは、高階さんの思考の流れそのままなのではないのか。詩を書くというよりも、高階さんの考えの中に取り込まれた事象は、高階さんの頭の中で、容易に、いつもの手際で料理され、それが皿に盛られて出てきているだけなのではないのか。そんな気がします。ただ、その皿の上に乗ったものが、常に日本の現代詩のレベルに達しており、「つまらなくない」というのが、依然として驚きであるわけです。多くの詩人にとっては、思考の流れに、ある事象がとりこまれても、それはそのまま作品になることはありません。それなりの装飾や工夫の後に、まれに作品になるだけなのです。
 
高階さんの詩のいくつかは、非日常を発端としています。たとえば「夢」から、詩は始められます。あるいは夢のように不条理な現実からはじめられます。あるいは、優しいものや動物の擬人化から始められます。高階さんの詩がすぐれているのは、その、「夢」のような発端を、その世界そのままに放置していることです。つまり、非日常を描きつつも、日常が根底に流れているというあたりまえの考え方にもどるのではなく、生きてゆくことまるごとを、その非日常の中に取り込んでしまっているわけです。ですから、詩のはじめのところで、読者を驚かすような世界をいきなり広げても、詩の結末は、ほとんどがその非日常的世界についての十分な説明がないままに、あいまいに終わってしまいます。「あいまい」と、簡単に言葉では言うものの、この「あいまい」は、中途半端なあいまいではなく、決然とした、あるいは断固とした「あいまい」であるわけです。
 電球は忘れ物をし、相撲取りはいきなりやってくるし、いつ自分が宮本武蔵になるかもしれず、武士はいくらでも歩いているし、魚には悲しみがあり、子供はたくわん石の下で遊び、金魚は枕をして眠り、茶碗は泣き騒ぎ、夕日は手のひらの上に乗ります。こんな世界に、日常をわざわざ対比する必要はないのです。ひたすらに「あいまい」に、すべてを受け止めるのが読者のとりうる姿勢であり、気がつけばそれはそのまま、生きることの意味をも、鋭く表しているのです。


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