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対談「詩とは何か」 高階杞一 vs 松下育男

対談「詩とは何か」 高階杞一 vs 松下育男
      (2021 5 29「 Zoomによる詩の教室」)

松下 それでは第一部をはじめたいと思います。高階さん、こんにちは。
高階 はい、こんにちは。
松下 今日は高階さんとの対談ですが、僕は話し始めると長くなるので、でもみんな多分高階さんの話を聞きたいんだろうと思うので、僕はできるだけ言葉少なにやって行きたいと思うんですけど、高階さん、僕と一つ違いですよね。
高階 そうですね。
松下 僕は一九五〇年生まれ、高階さんは五一年ということで、ですから皆さん、今詩を投稿している方とか、かつて投稿された方は、自分と同じ世代の人の名前は印象に残っていると思うんですけども、それってたぶん生涯その人たちのことは忘れないものなんですよね。高階さんの名前も僕はだから二十代で投稿していた頃に、高階杞一っていう人がいるんだなっていうふうにおぼえていて、その時に意識して、ずっと意識し続けてきた。その時に最初に「石像」という詩を読んで、これ、若いころですよね。高階さん。
高階 そうですね。まだ二〇代前半でしょう。
松下 僕ね、これを投稿で読んだ。今回みんなに送った一二篇には入っていないんだけど、この「石像」っていう詩、今の詩とつながるものがあるんだけど、これがずっと頭の中に残っていて、なんかこう、空に突き抜けるような詩を書く人がいるんだなって、同世代でいるんだなって。投稿者ってお互いライバルでもあるわけで、同世代の仲間でもあるわけだけど、ずっと僕の中にちょっと特別な存在として思っていて、でもなかなか会う機会がなくてね。
高階 うん。
松下 初めて会ったのは。
高階 二〇年近く前かな、居酒屋で。
松下 五〇代ぐらい。
高階 五〇代の初めですね。神田の居酒屋。
松下 そうそう。高階さんは関西、兵庫の方にお住まいだから。文学賞の選者になっていて、その仕事の関係でたまに東京に出てくることがあって、その時に初めて会った。多分その時に廿楽さんとか岩佐さんも一緒にいたかな。
高階 そうですね。
松下 だから二〇代で僕は高階さんのことは知っているんだけども、だから詩もずっと読んで来てるんだけど一回も会わない。ええ五〇代まで。
高階 一度会うチャンスがあったんだけど、ぼくが上京したとき電話で「松下さん会いませんか」って言ったら、「お住まいはどこですか」って聞かれて、「イバラキ」って答えたんですね。そうしたら「すぐ会えますよ」と言って。
松下 うん。茨城県だと思ったんだよ。
高階 大阪府の茨木市。(笑)
松下 そうそうあった。あれね三〇代の頃ね。先年亡くなった岡田幸文さんが「詩学」をやっていた時に「詩学社」に僕その時ちょうどいたんだよね。なんでいたんだかわかんないけど。岡田さんと高階さんが電話をしていて、岡田さんが「松下さん、高階さんと会ったことある?」っていう。「ない」って言ったら、「じゃあ電話かわる」って言うんで、かわった。その時高階さんと初めて電話で話をして、そうそう、茨城だったら別に無理して会わなくてもいつでも会える、とか言ったら、あとで聞いたら茨木市だったっていう。(笑)失礼しました。だから五〇まで会えなかった。詩を書くもの同士って、みんなも同じだと思うんだけど、あんまり会わない。
高階 そう、五〇まで延びてしまったということですね。

(詩とは何か)

松下 そうそう。まあ今日はそんな話をしていても最後まで終わっちゃうんで、僕のfacebookにも書いたんだけど、いくつかお話をお伺いしたいなと思っています。三つのパートに分けてお話を伺う予定です。きちんとその順番になるかどうかっていうのはやってみなきゃわからないんだけど、あるいは最初の部分で時間がかかってしまったらそれでおしまいなんだけど、一つ目は「詩とは何か」っていう事について。ちょっと高階さんの意見を聞いて勉強させてもらおうかなと。詩の教室なんで、これが一つ目です。ちょっと堅苦しいテーマだけど、ざっくばらんに詩の話をしたいと思う。聞きたいと思っています。
 それでパート二は朗読を挟んで、朗読は高階さんシャイだから古金谷さんにお願いしようかと思っています。ひとつ詩を挟んでパート二へ。詩を書く人に向けて高階さんのアドバイスをもらおうかなと思っています。だからいろいろ質問を用意していますのでパート二は詩を書く人に向けてのアドバイスということですね。どこまで話してくれるかっていうのが高階さん次第ですけどね、あるいは自分のことってなかなかわからないっていうのはあるのかもしれない。それも正直に色々話してもらいたいなと僕は期待しています。
 パート三。これもパート二とパート三の間にもう一回朗読を挟んで、三つ目はさっきも話したけど高階杞一ってどうやって出来上がったのかというところね。 どんな人なのって、詩人として生きてきてどんな気持ちなの。詩とともに生きるって幸せなことなのかなとか、その辺についてもちょっと聞きたいなと思って。
 あとはそれ以外のことにちょっと話が飛べば、「ガーネット」とか「びーぐる」とか、詩集って、高階さんは「空とぶキリン社」っていう出版もやっているんで、皆さんの中には初めての詩集を出したいという人もこれからいるでしょうから、とても安くて優れた詩集を出しているところなんで、いくらくらいかかるのとか、どれくらいの時間かかるのとか、そういうことも、具体的な話も時間があったら聞きたいなと思っています。
 それから最後にこれ余興みたいなもんですけど、『空から帽子が降ってくる』。僕と高階さんの二人で書いた詩なんですけど、どっちがどこを書いたんだか分からなくなっているんで、今日は答え合わせをして終わりにしたいと思っています。
 それで、また僕はひとりでずっと話すことになっちゃうので、「詩とは何か」から始めましょう。これ、最初から話が硬いかなと思ったんだけど、『びーぐる』という雑誌、皆さんご存知だと思うんだけども、季刊誌ですよね、詩の雑誌。今、詩の雑誌って日本にそんなにない。僕が若い頃は結構あったんですよ。詩の商業誌って。ずいぶん少なくなっちゃったんで、ええ高階さんと細見さんと山田さんと四元さん、錚錚たる四人の詩人、評論家が持ち回りで季刊誌をやっている。ということは年一回高階さんに編集が回るってことですか。
高階 四人が交代で企画を立ててやっています。五〇号の「詩とは何か」という特集は僕の企画です。
松下 そうなんですね。で今回は、読んだ方もおられると思うけど、なかなか面白かった。僕もちょっと書かせてもらったんですけど、「詩とは何か」っていうことで、最初に高階さんが書いていて、読まれた方はだいたいわかっていると思うんですけど、なぜ今「詩とは何か」っていう特集なのか。その辺をちょっと、もう一回、書いていることと重複しちゃってもかまわないのでご説明願いたいと思います。
高階 詩集を送られてきたりして読むんだけども、これが詩なのかなって疑問に思うものが結構多いんです。特に散文詩なんかは、読んでるとなんかこう普通の散文と変わらないんじゃないかなというふうに思ったり。それとすごく難解な詩もそうですけども、何を書いているのかわからないような詩もあったりして。それでこういう機会に、「詩とは何か」ということを多くの人に投げかけて、詩の本質を問い直そうというのが企画趣旨です。
松下 ということは高階さんの気持ちとしては、詩の本質に戻りたいということですかね。詩の本質をわかりたいというその向こうに詩の本質に戻るべきだというふうに考えたからこの特集を組もうとしたということですかね。
高階 そういうことじゃないんですよ。
松下 ええ。
高階 なんというか、今回の号にアンケートをやっているんですけどね。その答えで驚くというか意外なのは、「詩とは何かなんて別にどうでもいいじゃないか」とか、「本人が詩といえばそれが詩だ」というような答えがあったんです。でも詩とは何かがわからなくてどうして詩が書けるんだろうというのがすごく疑問なんですよね。
松下 なるほどね。
高階 例えば家具職人がテーブルを作ってくださいと言われて、テーブルとはどんなものか分からなければテーブルを作れないですよね。それと同じように詩とは何かが分かっていなければ詩が作れないんじゃないかなと思うんですよね。僕は詩とは何かと聞かれたら、「発見と飛躍」と言ってるんですけどね。それが必ずしも正解だと断言しているわけじゃない。百人の詩人がいれば百通りの答えがあってもいいと思うんです。ただ、詩とは何かがわからずにどうして詩が書けるのかという疑問。わからないまま書いているから詩とは言えないものが詩として提示されたりするんじゃないかなと思ったりするんですよね。
松下 それってアンケートだけじゃなくてね、僕も論考を書いたんだけどそのタイトルがね(詩とは何かなんて)「どうでもいいじゃないかでは済まされない」っていうね。今高階さんが「どうでもいいじゃないか」って言う人がいるって言ったけど、僕も言っているんだ(笑)。でも僕はね、「では済まされない」って書いてあるんだけど。これってさ、何て言うかな、たぶんね、思っていることは同じであっても、なんか言い方によっては何とでもなるな、っていうようなところがあるような気がするんだよね。例えば今の高階さんの言葉に対して、椅子っていうものが分からないからこそその人が、「人が腰を落ち着けて座るものを作ってくれ」って言われた時に、自分の発想で作ると椅子っていうものを知らなくても、なんか独特な、リラックスできるものができるんじゃないか。それでもいいんじゃないっていう人もいるんじゃないかと思います。だからそれを詩に当てはめると、何も詩はこれだっていう風に定義しなくても、なんか言葉として心地よいものがあって、それが読めるんだったら誰にも迷惑かかってないんじゃないっていう意見に対してはどうですか。
高階 「人が腰を落ち着けて座るものを作ってくれ」と言われた段階で、相手には、「椅子というのはそういうもんだ」と伝わっているんですね。江戸時代にいきなり西洋人がやってきて、「チェア(椅子)を作ってくれ」と言われても、長屋の大工にはチンプンカプン。落語なら勘違いをして、チェアの代わりにお茶を出す、と言うようなオチが付きそうです。それと同じで、詩というのはこういうもんだという、つまり「詩とは何か」という根本的なことがわかっていなければ、やはり詩というものは作れないんじゃないかと思うんですよね。
松下 なるほどね。だから僕がさっき言ったのは、たぶん同じことを考えていてもなんというか最近の様子を見ていると、「モノは言い様」って言ったらなんだけど、コロナの問題にしたって、対韓国の問題にしたって、なんか言い方によってどっちサイドにもなるんだなっていうのが、これはどうも話がずれるから今はやめておきますが、高階さんが話していた中で、僕が重要だなと思ったのは、高階さんが「詩とは何か」っていうことを考えたときに二つのポイントをあげているんですよね。
 一つは詩が散文化しているっていうこと。それからもう一つは詩が難解でわけがわからないものがたくさん書かれている。これって詩とは何かと考えたときに、詩というものがあった時に、詩とそれ以外との境目にあるのが最初の高階さんの指摘にあった散文と詩との違いってなんなのっていう、詩と詩でないものの違いってなんなのっていうのが一つ目の違いなんだと思うんですよね。一つ目のポイントなんだと。
 で二つ目の「難解すぎる詩が多いんじゃないの」っていうのは、詩とそれ以外の違いについて言ってるんじゃなくて、詩の中で、詩の世界の中で、詩とははどうあるべきかっていうのがこの二つ目の問題としてある。だから高階さんは何気なく散文化してるんじゃないか、難解なものが多いんじゃないかっていう 二つのポイントをあげてるんだけど、これは詩にとってその外部との関係と内部でのあり方、その二つのポイントを抑えてるんだなって僕は理解したんですね。
 で、ひとつずつについてもう少し詳しく聞きたいなと思うんですけども、散文とどう違うのかっていう問題ね。僕はこの教室でも詩の相談室をやってるんだけども、定期的にこの質問を聞いてくる人がいて、散文と散文詩と改行詩の三つありますけど、詩と散文の違いって何ですかっていう質問がある。高階さんは「発見と飛躍」って言ってるのかな。それ以外に何か付け加えて言うようなことがありますか。
高階 散文というのはやっぱり論理的なものだと思うんですね。論理的に書かないと何を言ってるかわからなくなる。一方で詩というのは論理を超越したもの、論理を超えたものが詩だと僕は思ってるんですね。だから必ずしも詩の場合は論理的に書く必要はないし、むしろこの論理を超えたものが詩になっていくということだと思うので。
松下 なるほど。
高階 だから、難解なものがあってもいいんだけども、難解のための難解というのはどうかなと思うんですね。自分の書きたいものが、どうしても描きたいものが、そういうかなり論理を踏み外したものになったとしたら、それはそれでいいと思う。
松下 うんなるほど。あの、今の散文詩っていうのは、ちょっと脇に置いておきましょう。散文詩も詩の内だから。今考えたいのは散文と詩。詩っていう中には散文詩も入るという風に考えた時に、散文と詩の違いは論理的かどうかっていうことを高階さん言われたんだけど、何て言うか、あらゆる定義はひっくり返せるようなところもあって、でも散文って言っても、逆に飛躍をしないで、ある意味一歩一歩わざと論理的に書いて、それが詩の世界では却って際立つような効果を出す時もありますよね。ある意味で「散文的な書き方をした詩は詩の世界では目立つ」っていう変な話。カラーフィルムの中に一枚白黒のプリントがあると目立つようなところがあって、そういうところで入ってきた論理っていうのは、ある意味では論理を装った詩として考えればいいわけですかね。
高階 うん、どういうのかな、論理を装った詩というのがあるかと思うのだけども、それだけで終わっていたらそれはやっぱり単なる散文だと思えるし。装うということは、どこかに論理の破れ目を隠しているということになり、その破れ目がかすかにでも読み手に感じられるようになっていれば、それは詩として成り立っているように思えます。
松下 明確だよね。それはね、僕の場合はね、やっぱり人それぞれの感じ方がある。さっき高階さんが言っていた、こんな人がいるっていう中にちょっと僕もそういう気持ちもわかって、わかるんであって 確かに「発見と飛躍」をまさに詩だと思う。まさに僕にとって高階さんの詩の発見と飛躍は詩の喜びなんだけど、さらに「発見と飛躍」を否定したただののっぺりした文章も、場合によって詩に入るんじゃないのかなっていう気もするんですよ。まあ具体的な例を見ないでね、ただ話しててもしょうがないような気もするんだけど、もうちょっとノリシロみたいなものがあってもいいのかなっていう気がする。
高階 詩の領域を広げようとしている人もいる。それはまあそれぞれの考え方でいいとしても、広げていく過程で詩とは何かというのを押さえていないと、本当に詩とは何かがわからなくなってしまう。
松下 ただ垂れ流しになっちゃうっていうことですね。まあそれもわかります。もう一つのそれでは詩の中で詩はどうあるべきかという、さきほどのは詩と散文との違い、外部との違いなんだけど、じゃあ詩の中に入ったときに、詩はどうあるべきかって、これもね詩はどうあるべきかなんて誰かが決められるものなのかどうかっていうことが一つあるんだけど、じゃあ決められるもんじゃないんだから好き勝手してればいいじゃないのって、僕なんかちょっと思うんだけど、でも高階さんが明確に、これは僕と違っていて、さっきの散文についても明確に高階さん意見を持っているように、この難解な詩についても、高階さんやっぱり、どうしようもなく難解のための難解ってさっき言ってたけど、そういう詩っていうのは目に付きますかやっぱり今でも。
高階 ええ、若い世代の人に多いんじゃないですか。難解な詩の方が高尚だというような価値観に引きずられて、敢えて難しく書くというようなことをしている人も多いような気がしますね。僕はさっき言ったように、難解な詩は嫌いじゃないんです。結構好きだったりする。論理を踏み外した、意味は分からないけどなにか心に伝わってくる、そういうものもあるんですよね。そういうのは僕はいい詩だと思う。
松下 なるほどね。あと一つ僕が思うのは、そういう難解のための難解な詩が多いって言われてた、まあそうなのかなって僕も思うんだけど、一方で、なんか昔からそんなところあったなっていう気もしません?
高階 うんそれはありますね、昔から。
松下 ある一部分はそういうところがある。それでいま面白いなと思ったのは別に難解な詩が嫌いなわけじゃない、と言っていました。伝わってくるものがある詩は自分は好きだ。言い方を変えれば伝わってこないものはただ単なる難解のための難解。その境目の「伝わる」っていうのは何なんですか。
高階 それが難しいんですね。それこそ読んで感じるしかないと思うので、定義的に説明するのは難しいですね。
松下 僕も質問しながら、そんな質問されたら答えられないなと思いながら質問してたんだけど(笑)。でもそれってね、難しいんだけど結構重要なところがあって、例えば僕とか高階さんってもう五十年くらい詩を読んでいるから、なんか加減がわかってるっていうかさ、作品との距離感みたいなのをだいぶもう経験で分かっている。じゃあ詩を勉強しはじめている、始めたばかりの人とか投稿してる人なんかは、全く自分にはわけがわからないんだけど、いろんな人に評価されていて、みんな褒めているんだけど、自分には何も感じる物がない。ただわからないだけだっていう詩に出会っている時にね、今の質問って結構意味があるって思う。じゃそういう人はどうしたらいいんでしょうか。
高階 無視したらいいんじゃないですか(笑)。
松下 それしかないですかね。僕もそう思いますけどね(笑)。
高階 まだ書き始めの頃は、いろんなものを読んで、いろんなものを読んでいく内に、自分でこれがいい、これはわからないというのがわかってくるんじゃないですかね。よく講義なんかで言うのは、自転車の場合と一緒だと言うんです。自転車というのは、最初は恐くて乗れないですよね。でも、慣れてきて乗れるようになれば逆に楽しくなってくる。それと一緒だと思うんですね。最初のうちはよくわからない詩も、読み慣れて、読むコツがわかるようになれば読むのが楽しくなってくる。そうなるまでは多少の我慢がいると思います。
松下 あれはなんか不思議なもんでね、僕も若い頃はわからない、自分がこれは詩だと思って信じているものをやっぱり書いていると、自分とは全く違うタイプの詩があって、っていうかもうほとんどが自分とは全く違う詩のタイプの人たちで、そういう詩を読んでどこがいいのかわかんないっていう時ね、もうひたすら自分が悪いんだと思い込んでいたわけ。それでこれはみんながいいって言っているのに、なんで自分だけがわからないんだろうって思って、それで詩人の集まりなんかでね、分かったフリしたりするんだよね。苦しいから。だけど本当はコレどこがいいんだかわからないんだよなと思いながら暮していて、じゃあこんなものがわからないで自分は詩を書いていていいんだろうかって本当に悩んだことがあったけど、高階さんそういうことで悩んだ事ってありませんか。
高階 悩んで書けなかったことはないことはないけれども、松下さんと同じように、ほかの人が評価してるのに自分が分からない詩っていうのは、結構今までありましたね。でもそれで書けなくなるとか、悩むっていうのはほとんどなかったですね。
松下 そうなんだ。僕はね、気が楽になったのは、のちに僕もそんなに人と会ってないんだけど、いろんな詩人と会うようになるでしょう、そうするといろんな詩人とほかの詩人の話をしてると、結構僕よりもわかっていない人がいるっていうのがね、僕だけじゃないんだってわかって、ということはね、つまるところみんな分からない詩人がたくさんいるんだな、それが詩の世界なんだなっていうのがわかってきた、っていうところがある。これはある詩の教室で、ある先生と話してて、その人はAっていう人の詩が全く分からなかった、そのA氏もかなり著名な詩人です。でもどこがいいんだかわからない、だけどある時その先生が風邪引いちゃったんです。まだコロナが来る前だったからただの風邪です。風邪で高熱を発して、たまたま暇だからA氏の詩集を読んだら、なんか分かったような気がしたっていうわけです。だからそういうところからね、わかってくるものがあるんですね、っていうから、でも僕その話聞いてね、いやでもそういうものじゃないんじゃないかなっていう気もしたんだけど、だからその詩がわかるっていうのは本当になんかこうデリケートな問題なんだなってつくづく思いましたよ。
 えっとそんな感じですか。なんか付け加えることあります? その詩とは何かについて。特に無いですか。
高階 特にはないですね。

松下 「発見と飛躍」についてはもういいですか。まあ発見と飛躍ってまさにね、高階さんの詩を読んでいればまさに発見と飛躍ですよね。あとちょっとしつこいようですけど、同じような質問をもう一つさせてもらおうかなと思ってるんですけど、似たような質問ですけど、例えば一回読んで、これはむずかしいな、自分には分からないなっていう詩があるとしますね。それが、例えば高階さんが言っていた自転車に乗るためには練習して我慢しなければならないって言っていました。その詩が、我慢してまでもしばらくしてまた読む価値があるのか、あるいはこれは全く読む価値がない、つまらないだけの難解な詩なのかっていうのは、その判断をする場所ってあるんですか。
高階 判断する場所……。さっき高熱出たときに読んで分かるようになったという話を松下さんがしたけれども、ある時までは分からなかったけれども、自分の環境が変わったり、ほかの詩とか絵画とかに触れて、もう一度読み直すとすごくわかる、面白いなっていうこともありますよね。自分の気持とか環境の変化でよく思えるようになってくる場合もあるんじゃないかな。だから、分からないからあれはダメだと思うんじゃなくて、まあ分からなくてもある程度、特に初心者の内はいろんな作品に触れるのが僕はいいと思いますね。
松下 なるほどね。あとで高階さんの詩についてちょっと細かいことを色々お伺いしようかなと思っているんですけど、今まで話してもちょっとね、そんなに時間がなかったんで、細かいところまで話せなかったんだけど、やっぱり高階さんの考えとしては、詩とは何かというものが分かんなきゃおかしいんじゃないのっていうところで、詩と詩でない物との違いっていうのは常に意識して、あるいは自分がこれという発見があったり、その中でイメージの飛躍があったり、あるいは自分が驚いたり、人が驚いたりしたところに詩があるんじゃないかっていうような考え方っていうのは、明確に解ったような気がします。これ50号(『びーぐる』)というのは最新号なのかな?
高階 今はもうその次のが。
松下 ああ、その次が出ていたね。これ、まだでも買おうと思えば買えるんですかね。「詩とは何か」という特集で、なかなか充実していて、今の高階さんの話も出ているし、僕も書いてますし、いろんな人のアンケートも載っています。で、最後にこれの中にね、せっかくだから一つね、「詩とは何か」で高階さんからのアンケートの中の一つで 僕面白いなあと思ったのがあって、読んでみましょうか。

今朝ぼくは
いつもより早く
起きて
学校へ
行きました

八時前に
学校に着きました

 これは詩でしょうかっていう質問を高階さんがしていて、これすごく面白い。 この雑誌を読んでる人は知ってると思うけど、これは詩じゃないって高階さんが言ってるんだよね。で、これは詩じゃないけども、例えばこれを

今朝ぼくは
いつもより早く
起きて
ぼくに
会いました

二十年前の
ぼくに会いました

 っていう風に書きかえると詩になりますと書いている。確かにね。つまりこれ、さっき言っていた高階さんの、詩でないものが詩に変わる瞬間なんですよね。「学校へ行きました」はただ単に日記みたいなもんで。出来事そのまま。その「学校へ行きました」を、「ぼくに会いました」としたら、いや僕が僕に会うってなんなの、では僕ってなんなの?じゃあ生きるってなんなの?というところにどんどん考え方とか感じ方が深まっていくんだ。なるほど、たかだかこんなことなんだけども、「今朝ぼくはいつもより早く起きてぼくに会いました、二十年前の僕に会いました」更に時間も超越してしまうって、これ、たかだかそれだけの違いなんだけど、なんかね、高階さんの詩の発生する元みたいなものね、まあそんな単純じゃないんだけど、そういうのを感じるきっかけなわけ。そういう風に感じていけば、さっき詩じゃないものっていうのがあるよね、でも詩じゃないものをまず書いて、それをちょっと変えると詩になるっていうその仕組みみたいなのが見えたような気がしました。何かあります?これに対して。
高階 いやまあそんなとこですね。この例文は単に事実を書いただけの日記のようなもので詩とは言えないんだけど、少し変えることによって事実から離れ、イメージが広がっていく。それが詩に近づく一歩じゃないかなと思って、いろんなところでこれを見せているんですけどね。
松下 そうなんだ。それじゃ、最初の「詩とは何か」については、ちょっと一回ここで切って、朗読を古金谷さんにしてもらおうかと思うんだけども、どうします。最初、「雨」を読んでもらいましょうか。
高階 はい、お任せします。
松下 それじゃ最初に載っている「雨」を、古金谷さん読んでください。

雨    高階杞一

夜半から降りだした君の横で
ぼくは だまって
降り続けている君を
見ている

  ごめんなさい
  こんなに降って

と君はあやまるけれど
雨だから
しょうがない

どんなにいっぱいの悲しみが
君を降らせているのか

てのひらに受ける
君のひとつぶひとつぶに
今朝
六月のみどりが映って
美しい

松下 ありがとうございます。休憩はもうちょっと後にして、part2 「詩を書く人に向けて」の前に、ちょっとこの詩について僕が感じていることを話そうかなと思うんですけど、まさに、「今朝ぼくはいつもより早く起きて学校へ行きました。八時前に学校に着きました」っていう詩じゃないものは、ちょっと変えただけで詩になるっていう、その瞬間を見たんだけど、この詩もなんか、それに近いものを僕は感じるんですよね。もちろん素晴らしい詩なんだけど、詩っていうのは、ちょっと言い方が難しいんだけど、ありふれた発想のすぐそばに詩があるんだっていう感じが、この詩を読んで思ったんですよね。たとえば雨、もう今までいろんな人が詩に書いているけど、雨って言えば、普通詩を書き慣れてない人は、「雨は空の涙」っていうふうに連想するんですよね。これも本当に普通に。で、実は詩とは無関係の人生を送っていた僕の親父も、雨を見てそんなことを言っていた記憶があります。「雨は空の涙」って。「雨は空の涙」的な、そういう発想の、実は、その発想はつまらないんだよって言うんじゃなくて、その発想のすぐそばで高階さんって詩を書いてるんだなあっていうふうに僕は思ったんです。それってすごく勇気が要るし、驚くべきことなんですよね。あるいは非常に危険なことだ。崖っぷちを歩いているようなもの。地雷原を歩いているようで、この詩では、雨を擬人化して、話しかけています。そして、どんなにいっぱいの悲しみが君を降らせているのかって、雨に語っている。これって どっかこう「雨は空の涙」っていう発想とそれほどには距離がない。距離がないのに、読むと全く違うんですよね。これ、実際にありふれたもののすぐそばに胸に染み入ってくる詩があるんだ。詩って不思議だなって思うんです。 それって多分読み手のみんなが知っている、ありふれた、誰でもが考える叙情を高階さんが少しずらす。そのずらすところに感動するのかなって思うんです。例えば、歌を聴いている時、初めて聴く歌なのに感動する歌ってありますよね。で、その多くはその歌をはじめて聞くんだけど、どこかで聞いたことがあるっていう、なんかこう偽物の記憶のようなものが溢れ出てくるんだと思うんです。この詩も僕読んだ時に、初めて読むのにどこかで読んだ記憶があるような、そんな気持ちになる。すごく気持ちよくなる。だから書いて欲しいものを書いてくれたんだなあっていうのが、この詩のすばらしいところなんだな。誰でも書けそうな詩ほど書けない。ありふれているもののすぐそばに傑作があるっていう、この詩を読むとね、色んな事を学ばせてくれる。ちょっとまた話しすぎちゃった。失礼しました。

(詩を書く人に向けて)

 それではpart2「詩を書く人に向けて」。いくつか高階さんに質問して行きたいと思います。
 一つ目なんですけれども、どんなときに詩の発想って出てくるものなんでしょう。
高階 うーん、それも難しいですね。まあいろんな時と言えばいろんな時。
松下 いろんな時じゃ答えにならない(笑)。
高階 こう、必死で、うんうん唸っている時にヒントが湧いてきたりします。若い時はそうですね、詩が書けないときは、絵を見たり、歌を聴いたり、それから結構、科学書なんか読んでると、パッと詩がひらめいたりすることがありました。
松下 なるほど。
高階 まあ農学部出身なんで。
松下 そうですね、自然科学ですよね。
高階 ただ一つ言えるのは、そうした他のことをしていて発想が浮かぶというのは、詩が、詩を書こうとしている状態がずっと頭の片隅にあるからだと思うんですね。何もなしにしていても、浮かばないと思うけれども。
松下 なるほどね。つまりずっと頭の中に何か気にかかっていることがあったり、何か考えいてる事があって、それと詩との距離があった時に、ある時科学書を読んで、その一つの言葉がその発想と、その考えていることと、言葉の橋渡しになってくれるきっかけになるとか。
高階 そうですね。なんか、ほかのものを見たり読んだりしていると、そのスパークするというか、そういうことがあると思うんですね。その言葉に反応すると言うか。
松下 あーなるほど。
高階 だからちょっと目を他に移すということも大事なことかなと思いますね。
松下 それは確かに言えますね。
今、歌を聴いたりっていうことなんですけど、高階さんって作曲もするんですよね。
高階 若い時ですけど。二十代半ばくらいまで作詞作曲をやっていました。
松下 やっていたんですよね。その辺はちょっとまた後で時間があったら聞きたいなと思います。多分、僕と世代全く同じだから聴いている歌も似たようなところがあるのかなと思うんですけどね。発想は、ということはもともと何かあるって、これ僕の感じ方なんだけど、詩っていうのは何もないところから出てくるわけがなくって、やっぱり今日一日考えたこと、昨日気になっていたこと、昨日これいいなと思ったこと、これはなんか不思議だなと思ったことがあるんだって、僕は詩の教室でよく言ってるんですけど、だから、ただ空見て、まあそれも一つだけど、なんか落ちてこないかなって、その落ちる元っていうのは、自分が実際に息をして出会っている人であったり、ものであったり、出来事であったり、記憶であったり、そういうものからしかできないよって、言ってるんですけど、そういうものが詩になるきっかけっていうのが、多分今の高階さんの話であって、そのおおもとの書くべきものと、きっかけと、その二種類の、発想というのは、その二つがあって詩ができるのかなっていうような気がしましたね。

 じゃあその次の質問です。僕はあの詩の教室の生徒になったつもりで、詩が上達するためにはどんな勉強していったらいいんでしょうか。
高階 (笑)難しい質問だけど。
松下 だから聞いている。難しいから。
高階 これもいろんな講演とか講義でいつも話すんですけどね。さっきの発見と飛躍につながるんだけども、発見するために必要なことは何かというと、固定観念や常識を外すということ。そうしたら今まで見えなかったものが見えてきたりする。例えばいつも耳と目の例を出すんですけど、犬の鳴き声は何ですかと参加者に聞くと、わんわん、猫はと聞くと、にゃあにゃあ、ニワトリはと聞くと、コケコッコと答えるんですね。でもホントに犬がわんわんと鳴いているか、猫はにゃあにゃあと鳴いているか、ニワトリはコケコッコと鳴いているか、と言えば、全然違うと思いますね。犬が横で「わんわん」と言ったら逆にびっくりすると思うんですね。だから本当の鳴き声を聞くためには耳を澄ますしかない。固定観念を外すことによって初めて本当の鳴き声が聞こえてくる。そういうふうなことをいつも言っているんですね。それでもうちょっとよろしいですか。

松下 どうぞ
高階 いつもその例を出したときにもうひとつ面白い話をしているんです。ニワトリの鳴き声は今言ったように日本では「コケコッコ」ですね。NHKでだいぶん昔ですけど、世界のニワトリの鳴き声というのをやってたんです。面白かったのでそれを控えたんです。英語圏ではみんなもよく知っている「コックドゥードゥ」、中国はというと「ウーウーティー」って言うんです。イタリアは「パパガロー」、フィリピンは「チックタラオ」、ドイツは「キッキリリキー」。日本とはまったく違います。でも国によってニワトリの鳴き声が違うかというと、そんなことはない。人間の側がそんなふうに違った聞きなしをしているということなんですね。だから本当の鳴き声を知るためにはやっぱり自分の耳で、固定観念を外して聞き取るしかないということですね。
松下 それはすさまじく重要なところで、自分の耳で聴けっていうことは、自分の頭で考えろっていうことにも繋がっていて、確かに高階さんの詩を読んでいると、今回はね、みんなが簡単に手に入ると思ったんで「ハルキ文庫」の中から十二篇選んだんですよね。だけどその後にも素晴らしい詩集をいっぱい出していて、多分これベンジャミンなんか入ってないでしょ。
高階 入ってないですね。ベンジャミン(註・『夜とぼくとベンジャミン』)が出る前に「ハルキ文庫」が出ています。
松下 そうだよねベンジャミン入ってないか。
例えば なんでもいいよ、これ(「ハルキ文庫」)はほんの一部、高階さんのほんの一部。 これも素晴らしい詩がいっぱい入っているんだけど、例えばこの『夜とぼくとベンジャミン』っていう、これも素晴らしい詩集だと思ったのは、まさに今、高階さんが言っていた、自分の耳で聴いて、自分の頭で考える、固定観念を外せ、常識を超えろっていうのはね、僕、勤め人を四十三年間やっていたけど、勤め人も同じで、僕はコカ・コーラで働いていたんだけど、みんなが同じように考えて、同じセールス方法をやっていたってサントリーに勝てないよっていうこと。同じ箱を見てもその四角い箱をどういうふうに見るかって、あなたの見方でやれよっていう、よく会社は研修が好きだから、今高階さんが言ったように、似たようなこと、あなたの目で見る、あなたの頭で考え、今までの人たちが感じていたこと、考えていたことを、その外で考えるということが重要だなと思ったのは、もう『夜とぼくとベンジャミン』という詩集を読んでいるといろんなタイプの詩が載っていて、さっき古川さんが言っていた、時代劇みたいなのも載ってるし、僕が笑っちゃったのは、歌を題材にしている詩がある、「歌のアルバム」。これね、十一月、神田川ね、「あなたのやさしさがこわかった」っていうやつね、まあみんなちょっと読んでない人はわからないだろうけど、これとかね、一月の「雪が降る」の、これ素晴らしいと思う。というのは、今までの詩の面白さとは違う面白さを提示してくれている。ある意味で駄洒落なんだけども、駄洒落も詩の感動に結びつくんだっていうことを教えてくれる。僕、これを初めて読んだ時に声をあげて笑ったんだよね。こんなに面白い詩はないな。だから、一つ今の高階さんの、みんなが考えるような感じで考えない、例えば「現代詩手帖」の投稿欄を読んで、ああいう詩を書けば入選になるんだって考えるんじゃなくて、自分の詩を書いてあそこに載るんだっていうふうに考えないと、やっぱり自分の詩って出来上がらないんだと思うんですよね。だから詩の上達法は自分で考える、常識を外せっていう。じゃあどうやったら常識をはずせるのってことになると思うんだけども、根本のところでそれをね、軸を間違えなければ、自分らしく書いたものが幼稚に見えたとしても、その幼稚を突っ切ちゃう、突っ走るっていうのが一つかなっていうふうに思う。またちょっと話しすぎたけど、次の質問です。

 例えば一篇の詩を書こうとしますね、じゃあ明日が「ガーネット」の原稿締切日ですとなっていて、詩を作る時に、一番重要だと思って、これを守ろうと思っていることは何ですか。まあ今までも似たような質問になっちゃうかもしれないけど、 詩を作る時の気持ちで一番重要だと思っていること、もしくは、やってはいけないこと、どうでしょう。
高階 なんて言うかな、具体的なことはないんですよね。自分の中で分かるんですよね、これは詩になっているか、なっていないか、って。いくら書いても詩ができない時もあって、でも突然、できたと思う瞬間があるんですね。その感じをうまく言葉で説明できないけれど、たぶん詩の核のようなものがつかまえられたときにそう思うんじゃないかと思うんですね。一つまた例を出すと「象の鼻」。これは読んでもらえるんですか。もし読んでもらえるんなら、そのあとで今の話をした方がいいと思います。
松下 「象の鼻」ですね。では読んでもらいましょう。じゃあ古金谷さん、読んでいただけますか。

象の鼻    高階杞一

世界の端っこに
鼻のない象がいて

午後には
おばさんがきて

夜には
君が横にいて

ぼくは
長い長い夢を見る
広い砂漠を
あてどもなく歩いていく夢だ
象の鼻をひきずって
何故こんなものを借りたのか、と
考えながら


高階 この詩は『キリンの洗濯』の冒頭の詩ですけども、これは書き始めた時はもう少し長い詩だったんですね。いくら手を入れてもできたという感じがしない。それでまた手を入れて、詩がどんどん長くなっていく。それでも一向にできたという感じがしない。それで半年ぐらいかな、時々見直してはまた仕舞ってというのをくりかえし、半年くらい経った頃、ふっと頭に浮かんだことがあるんです。象の鼻というのは長いですね。象ってどんな動物ですかと聞かれたら、たいていの人が、鼻の長い動物と答えると思うんだけど、その長い鼻を庖丁かなにかで輪切りにしていくイメージが、あるときふっと頭に浮かんだんです。
松下 なるほど。
高階 そしたら金太郎飴みたいにどこも同じ切り口だなと思って、それでチョンチョンと切っていくと、顔のところまできて、ついに象の鼻がなくなってしまう。そのとき不意に最初の二行が浮かんだんです。「世界の端っこに/鼻のない象がいて」。このとき、詩ができた! と思ったんです。
松下 なるほどね。
高階 このあと最後まで十五分か二十分くらいで書けました。半年ぐらいかかっても書けなかった詩が、そのちょっとした発想で一気に書けたという、そういう詩ですね、これは。
松下 面白いね、それってだから僕がすごいなと思うのは、半年後に書けたっていう事もすごいんだけども、半年間書いていた時に、それで満足しないっていうところが凄いなと思ったの。多分この詩ほどじゃないけども、それなりの「象の鼻」の詩が何回かできているはずなんですよね。その時に納得しないっていうのが、まあ言葉で説明するのは難しいのかもしれないけど、なんなんですかね。言い方を変えると、書き上がった時の自分の詩って、大抵自分が書いたものだから満足したいと思うじゃない。これでいいやと思う。で、いやこれじゃダメだって思えるってすごく辛いことだし、仮に辛いことではなかったとしても、いやこれじゃダメだなって思える、何かやっぱりこれは言葉では説明できないですか。
高階 そうですね、この最初の二行が浮かんだ時に、これでもうできた、自分の言いたかったのはこれだという感じですね。言葉では説明できないけども、もうこれでこの詩は完結したと。そういう瞬間が、まあ僕だけじゃなくて詩を書いている人にはあるんじゃないかなと思うんです。松下さんだってないですか、そういう瞬間が。
松下 今日は僕が聞く立場だから。でもありますね、それね。ぼくはいま面白いなと思ったのは、例えばこの詩を読んでも、象の鼻を輪切りにするなんてどこにも書いてないでしょ。要は世界の端っこに鼻のない象がいて、その先を書いてるだけなんだけども、その手前で高階さんって、それ相応のイメージを切り捨てているっていうか、その過程を経た上でここにたどり着いているんですね。だからちょっと精神論みたいになって嫌なんだけど、ただ鼻のない象がいてって、ただふっと思い浮かべただけのものと、その奥に、それを思いつくまでの苦しみであったり、鼻のない象に託す思いみたいなものがやっぱりつまってるから、詩が水がいっぱい溜まっているような重い袋に感じるのかな。まあちょっとそれもなんかさっき言ったの、精神論みたいなんで嫌なんだけど、詩がよければいいっていうことも言えるんだけど、まあそれ半年もかけるってすごいなあと思う。

 それじゃあその次。もう結構な時間経ってるんだよね。これ、僕の詩の教室でも時々あるんだけど、詩の素材っていうのはもちろん何もないところから詩は生まれるし、むしろ無意識で書くものが詩だって、そういうものがよいものであって、ある出来事を書く詩っていうのは二次的なものだっていう考え方があるけど、僕は必ずしもそうは思わなくて、やっぱり出来上がったものがどれだけ胸をうつかっていうところが重要なんだろうと思うんですよね。あの一つちょっと聞きづらいんだけど、高階さんも『早くうち家へ帰りたい』で亡くなったお子さんの事を詩に書いていますね。ほかの詩集にも結構お子さんのことが出ていたりする。僕自身も家内を亡くしていますので、その事を詩に作ったりしています。詩の教室をやっていても、結構両親の病気のことであったり、亡くなった時、つまり人が生きている上で、身近な人が亡くなるっていうのはとても大きい出来事で、それを詩にしたいっていう気持ちっていうのは当然ありうることだと思うんですよね。高階さんにとって、あんまり大きくとられちゃうと答えづらいかもしれないけど、たとえばお子さんが亡くなったということを詩に書くっていう、その辺のなんというか、自然と書こうと思ったのか、なんか決意をして書こうと思ったのか。その辺のなにか話が聞けたらなと思います。
高階 『早く家へ帰りたい』については、旅をしていて、帰ってきたらこどもが亡くなっていた。
松下 はい、そう書いてありましたね。
高階 亡くなったのを知った時はすごいショックだったんだけども、そのあと、その夜から、なんかあふれてきたんですよね、言葉が。言葉が次々あふれるように出てきて、それをノートに連ねていった。だからこどもが死んだことを書こうと思った、というよりも溢れてきた。それが結果的に詩になったというそんな感じですね。それまでは詩というのは書くのが苦しくて、うんうん唸りながら、詩の形にしてゆくというのがまあ昔も今もそうなんだけども、あの時だけは言葉が溢れてきて、それが詩になったという感じですね。なんかこう胸に突き上げてくるものが多分あったんだと思うけれども。
松下 まあ、そのまま伝わってくるものがあるんだけど、そうするとその出来事があったその晩にもう言葉が出てきたんですか。
高階 そうですね。
松下 すごいな。僕の場合はもう全然詩にできなくて、十何年経ってからやっと詩が書けたっていう感じですね。だから教室でもよく言うんだけど、大きい出来事っていうのは、一度受け止めてからでないと言語化できないんじゃないのっていうふうに言ってきたんだけど、高階さんの話を聞くと、必ずしもそうとも言えないんだな。
高階 発表前にはもちろん推敲はしてますけどね、ちゃんとした詩になるように。
松下 なるほどね。もうだいぶ時間が経ってしまいました。まだ聞きたいことがいっぱいあるんだけど、最後のパートでまた聴こうかな。じゃあここまで詩を二つ読んでもらったけど、もう一つ。約束している「空から帽子が降ってくる」の答え合わせをしなきゃならないから、これ一回古金谷さんに全部読んでもらって。それからちょっと答え合わせして、時間が余っていたら高階さんのことをもうちょっとお伺いしようかなと思っています。それでどうでしょう。じゃあ一回、こんな詩ですよって読んでもらえますか。

(空から帽子が降ってくる)

空から帽子が降ってくる    高階杞一+松下育男

空から帽子が降ってくる
でかける用事があったのに
もう降り出してきたのかと
にわかに暗くなってきた空を
頬杖ついて見上げてた

空から帽子が降ってくる
山高帽やベレー帽
どこにこうば工場があるだろう
母も姉も恋人もそこの女工だったけど
ぼくはまだ一度も行ったことがない

空から帽子が降ってくる
だれのしわざ仕業か知らないけれど
小さな値札がついたまま
それはまるで切符のように
ひとつひとつに行き先が書かれてあって

空から帽子が降ってくる
どんな治世の王様だったか
水の言葉は禁じられ
ロバは困る
ご主人が狂ったように笑うので

空から帽子が降ってくる
帽子の国との戦争は
いつの季節に始まって
もう炭屋の息子まで野球帽をかぶってる
彼はセネタースのファンです

空から帽子が降ってくる
ちょこんとかぶったエッフェル塔
見ながら掃除機かけたくなって
何もかも
みんな吸い込みたくなって

帽子の山のまん中で
数限りある日々だもの
今夜のオカズは何にしよう
そうだ 思い出したよ でかける用事
夜が落ちてくる前に

帽子の山をかき分けて
町のはずれの郵便局へ
手紙を出しに行くんだった
はるか遠い宛先にも
帽子はそろそろ降るだろう

松下 ありがとうございます。で、この詩は高階さんと僕が、僕の記憶が正しければ初めて会った時に、じゃあ二人で詩を書いてみようかって、その時話が出たんですかね。
高階 そうですね。
松下 だから初めて会った日に、二人で詩を書こうかということになって、それでもともと共詩というものがあって、一つの詩を二人で書いてゆく。以前に高階さんが他の人とやっていた。木野まり子さんとやっていた。
高階 ちょっとこのパターンとは違うけど、まあ共詩というものをやってたんですね。
松下 それで松下さんやろうよってことで、もうどんなもんだかわかんないけど、高階さんから始めのところが送られてきてやったんですけど、まあいろんな勉強になりましたよね。「あそうか、高階さんってこんなところから言葉が出てくるのか」とか、詩って二人で書いたときの面白さ、つまらなさ。じゃあこれを一人で書いた時の面白さ、つまらなさ。やっぱりちょっと違うんだなーっていう。そういうことを考えただけでも僕は共詩って、今日参加されている方は、一度仲の良い人とやってみるといいと思います。その詩がどんなものになるかわからないけど、言葉を発するということ、言葉を待つということ、ある一篇の詩がどこまで面白くなって、どこまでつまらなくなるのかといろいろ考えさせてくれて面白い。高階さん、なにかあります?共詩について。答え合わせの前に。
高階 いやまあ、自分がこっちに持って行きたいのに、相手がいると違う方向へ持っていかれたりする。その辺はまあ苦しいけれども面白いところかなと思ったりしていましたね、書いているときは。
松下 今でも神尾さんとやっているんですよね。
高階 そうですね。
松下 「びーぐる」でやっています。
松下 それではちょっと答え合わせをやります。本来はね、僕は自分の詩をどんどん捨てちゃうんだけど、高階さんはちゃんと取っておくはずなんだけど、パソコンが壊れちゃったらしいんだよね。それでどっちがどこを書いたんだかわかんないっていうんで、かつてね、僕が聞かれたことがあって、僕はこうじゃないって送ったら、いやそうじゃないって高階さんが言うから、その時にそうじゃないって言われたんで僕は少し変えてきました。一番難しいのは「空から帽子が降ってくる」っていう行が何度も出てくるんだけど、それがどっちが何番目を書いたのかわからないんだよ(笑)。それじゃあやってみましょう。じゃあ最初は高階さんなんですね。自分が読んだ部分を次々に読んでいくようにしましょうか。
高階 そうしましょう。
松下 二人とも黙ってしまったら(相手が書いたと思っていたら)その時は話しあいましょう。
高階 それで、重なるところ(双方が自分が読んだと思っている)があったらそれはそれでいいと思います。それじゃ読んでいきます。

空から帽子が降ってくる

高階 空から帽子が降ってくる
松下 でかける用事があったのに
高階 もう降り出してきたのかと
高階 にわかに暗くなってきた空を
松下 頬杖ついて見上げてた

松下 空から帽子が降ってくる
松下 山高帽やベレー帽
松下 どこにこうば工場があるだろう
高階 母も姉も恋人もそこの女工だったけど
高階 ぼくはまだ一度も行ったことがない

?(松下/高階) 空から帽子が降ってくる
松下 だれのしわざ仕業か知らないけれど
松下 小さな値札がついたまま
高階 それはまるで切符のように
高階 ひとつひとつに行き先が書かれてあって

松下 空から帽子が降ってくる
松下 どんな治世の王様だったか
?(松下/高階) 水の言葉は禁じられ
高階 ロバは困る
高階 ご主人が狂ったように笑うので

松下 空から帽子が降ってくる
松下 帽子の国との戦争は
松下 いつの季節に始まって
高階 もう炭屋の息子まで野球帽をかぶってる
高階 彼はセネタースのファンです

松下 空から帽子が降ってくる
松下 ちょこんとかぶったエッフェル塔
松下 見ながら掃除機かけたくなって
高階 何もかも
高階 みんな吸い込みたくなって

?(松下/高階) 帽子の山のまん中で
松下 数限りある日々だもの
?(松下/高階) 今夜のオカズは何にしよう
高階 そうだ 思い出したよ でかける用事
高階 夜が落ちてくる前に

高階 帽子の山をかき分けて
高階 町のはずれの郵便局へ
?(松下/高階) 手紙を出しに行くんだった
松下 はるか遠い宛先にも
松下 帽子はそろそろ降るだろう


松下 ということでどちらが書いたのかだいぶ分かりましたけどね、「?」は二人ともが自分が書いたと記憶していて、結局不明なので、あとちょっとでした。あのお粗末様でした。だいたい70点ぐらいということで。それじゃあみなさんどうですか。当たっている人は。佐野さんどうでした?だいたい当たっていました?
佐野 どういう事ですか。
松下 事前に予想している人がいるなら佐野さんくらいしかしないだろうなと思うんだけど。
佐野 私、連ごとに書く人が変わるんだと思ってたんで。
松下 あそうなんだ。
佐野 あの、連ごとであれかなと思って、例えば「ロバは困る」のところとかは高階さんだろうなと思ったから。
松下 そうだね、ロバとかキリンは高階さんだね。
佐野 そういうふうに読んで、連ごとだと思っていたんで全然見当はずれでした。
松下 ということで大体わかったんだけどね。ちょっとわからなかったところがありましたね。

(詩を書くきっかけ)

松下 えっとそれじゃあ最後にpart 3の質問をして、今日いろいろね、貴重な話を聞かせてもらってすごく嬉しかったです。それでちょっと高階さんご自身の、まあいろんな本にね、高階さんの経歴が書いてあって、いろいろエッセイでも書かれているんで読めばわかるんだけど、詩との出会いっていうのは小学校ですか、なんか書いていましたね、詩の大会があって先生に連れられて行ったとか、あれが最初ですか。
高階 小学校五年生か六年生の時に文芸部に入っていて、担任でその文芸部の顧問でもあった先生が詩が好きだったんですね。それでその先生に連れられて大阪の梅田あたりで開かれていた詩の会に何度か行ったりしてました。(註・この詩の会は、神戸在住の詩人竹中郁さんが児童詩育成運動の一環で行っていたもの)
松下 そうなんだ。
高階 でも、僕が詩を書くきっかけというのは全然違うんで。それは、これもエッセイに書いたり言ったりしているけども、大学生の時に好きな女の子がいて、その子に振り向いてもらうために詩を書き始めたという、そういう不純な動機から。
松下 不純な動機だね(笑)。それって、じゃあ大学生までは書いてなかった?
高階 全然書いてないですね。小学校の時に、先生に書けと言われて書いたりはしていたけど。
松下 その間というのは何かそういう、さっき文芸部に入ってたって言ってたけど、詩以外のものっていうのも書いてなかったんですか。
高階 漫画家になりたいって思っていたんで。
松下 そうなの。
高階 高校生くらいまで(マンガを)描いていて、高校に入ってからは松下さんもよく知ってるだろうけど、ちょうどフォークソングとかが流行って、シンガーソングライターが出てきた。ぼくも真似してバンドを組んだりして、その時に見様見まねで作詞作曲を始めました。
松下 なるほど。
高階 詩に関しては作詞の方が先なんですね。
松下 あそうなんだ。今でも学校の校歌を頼まれたりして作詞やってますよね。オペラなんかも書いているのかな。
高階 いやいや、それは全然。僕の詩にいろんな作曲家が曲をつけてくれたりはしてますけどね。
松下 なるほどね。なんで詩だったんですか。例えばその女性の気を引くために、なんで詩だったんですか。
高階 その女性が詩を書いていたんです。
松下 そうなんだ。
高階 それまで詩なんて全く分からなかったんだけど、自分も同じように詩を書けばと思って(笑)。
松下 そんなこと(笑)。じゃあ、その女性が詩ではない他の事をやってたらそっちへ行っていたかもしれない。
高階 そうですね、童話書いていたら童話を書いていたかもしれないし(笑)。
松下 しょうがないもんだね。そこから、なんで今まで詩を書くようになったっていうのは、何か転機があったんですか?
高階 転機というか、詩を書き始めたら、結構これは面白いぞということで、のめり込んでいった。
松下 自分には書けるんじゃないかって。
高階 書けるんじゃないかというよりも、面白いなと思ったんですね。それでのめりこんでいったような感じですね。
松下 そのころに読んでいた詩人っていうのはどういう人がいたんですか。
高階 最初はやっぱり三好達治ですね。
松下 ああエッセイに書いていますね、「いし甃のうへ」でしたっけ。では、後に三好達治賞をとったっていうのは考え深いものがありましたね。その不純な理由で書き始めたにしろ、それで自分が面白いなと思って書いたにしろ、そこから途中で詩をやめちゃった時とか、蒸発した時とかってないんですか。
高階 それはないですね、松下さんと違って(笑)。
松下 なんで続けられるんですか。
高階 面白かったから、というしかないかな。
松下 僕一つすごいなと思うのが、僕はね自分の書いた詩をすぐつまんないなーと思っちゃうんだよね。だから高階さんってすごいなあと思うのは、次から次へ、面白いものができるっていうのは、なんか素手で詩と向かい合っていると言ったら変なんだけど、例えばなんか詩を作る方式みたいなもの、哲学みたいなもの、方法論みたいなもの、書き方みたいなものをきちっと決めて、そこに言葉を毎回入れ替えるっていう詩人のタイプだったら、ある程度量産出来ると思うわけ。だけど、高階さんも一時期を見るとちょっとした傾向があるんだけど、それでもやっぱり全体を見ると、この五十年だか、一回一回鎧を付けずに、初心者に戻って詩と向き合って。何書こうかなと、それこそ常識を外して、今回はこういう詩を書こうかなって一回一回すべて裸で立ち向かって、それでここまで来られるっていうのさ、どうして?
高階 どうしてと言われても困るけれども、僕は割と型(スタイル)で書くタイプなんで、ある程度、例えば『キリンの洗濯』だったら動物の詩をそういう型で書いていって、でもたくさん書いているとやっぱり自分で飽きてくるというか、つまらなくなってくる。それでまた次の型を模索する。そんなくりかえしで続けられてきたのかなと思いますけどね。
松下 その自分の作った型っていうのはさ、普通の人だったら、これはちょっと自分では面白いと思っているけど、読む人にとっては退屈だろうな、っていうものが普通の人はあるんだよね。高階さんの場合は、なんかそのへんの自分が面白いと思うものと読む人が面白いものとの誤差があまりないような気がするんだよね。それは高階さん、どうして?と聞いても答えはわかんないかな。
高階 それは自分ではわからないです。
松下 例えばさっき「象の鼻」を半年間書き直したって言っていたけれども、ひとつの詩に、というのはその発想が自分にとって確実に自分の詩になるんだっていう、手が届かないから書き直しているんだっていうのがあると思うんだけど、場合によっては、書いたけどこれはものにならないなっていうものってないんですか。
高階 いやそれはたくさんあります。今日も松下さんは、「谷川俊太郎と高階杞一は人間じゃない」みたいなことを書いていたけど。
松下 ああ、SNSに書いた、書いた。
高階 どうしようもない詩はたくさんあるけれど、詩集にするときはそういうのはボツにしているんで、一見、どうしようもない作品が少なく見えるだけのことかな。
松下 でもそれって当たり前だよね。いやちょっとホッとしたのが、つまんない詩をひとつも書かないのかなと思ったんだよ(笑)。
高階 ゴミ箱が山になるほど書いている(笑)。
松下 だけど重要なのはつまんない詩を書かないことじゃなくて、後でこれはつまんないんだって自分でわかるってことなんだよね。
高階 そうですね。自分でそれがわからないと。
松下 僕は、はっきり言って、わかるわからないじゃなくて、そういうことにあんまり興味ないのね、そういうところね。基本的にね、だから僕はものを書くのは好きなんだけど、それがいい詩か悪い詩か後で判断するのはめんどくさいから、ただひたすら書いては捨て、書いては捨て、してきた。それってどこかで逃げているのかもしれないね。だから僕は多分自分の詩はあまりきちんと読めていないのかもしれない。まあいいや、自分のことは。
高階 今朝の松下さんのツイッターにあったけど、「谷川俊太郎と高階杞一は人間じゃない、つまんない詩を書かない」という。それで思ったんだけど、詩人には二通りあると思うんですね。天才型と努力型。で、近代詩で言えば中原中也なんかは天才型。三好達治なんかは努力型。天才型の人は何を書いても詩になるというところがあって、努力型の人はうんうんと唸りながらなんとか詩をものにする。そういうことで言えば、僕と松下さんを見れば、松下さんは天才型。
松下 いやいやそんなことはないでしょ。
高階 何を書いても詩になるんです。だから自分で今言ったように、書いたものがあんまり気にならない。
松下 ぼくは自分の書いた詩でつまらないのがどれだかがわかんないんだよね。
高階 わからないのは、何を書いても詩になっているから。
松下 なんかね、ここで二人で褒めあっててもしょうがないんだけど。
高階 褒めあっているわけじゃないけど。
松下 それさあ高階さん間違っているよ。天才型って高階さんのことだよね。でもやめようか、こういうことを二人で話すって。あの今度二人で飲んだ時に交わすべき話題だよね。あんたが天才とかって二人で言っているってさ(笑)。
高階 いや、天才ではなく、天才型。
松下 天才型ね。天才じゃないのね。天才だったらこんなに苦労してないよ。悩みばっかりだよ。悩んでばっかりだよホントに。僕の悩みについては、あのいいですか、僕の悩みについて話すつもりはないんだけど、あと例えばちょっと具体的な話になるんだけども、もし話せたら言ってください。
 僕のところにもいつか詩集を出そうかと思ってる人が結構いるんです。教室やっているからね。で、確かに詩集を出しても決して問題ない素晴らしい詩を書いている人たちなので、そういう人たちが初めて詩集を出すといった時にもちろんいろんなところがあるんだけども、高階さんのところ、「空とぶキリン社」って、初めて書いて、例えば高階のさんに詩を送って、詩集って出してもらえるものなんですか。僕が聞きたいのは、高階さんのところで選別してるんですか。これはもうちょっと待った方がいいんじゃないのとか。
高階 それはある程度しますね。
松下 誰でも出せるわけじゃない。
高階 まず詩集にする価値があるかどうか。もうちょっと待って出した方がいいんじゃないですか、というような。
松下 それはでも凄く大切な事だなと思ったんですよね。やっぱり送られてきている詩なんか見ると、やっぱりこれはもうちょっと待った方がいいのになっていうのもね、あのいろんな出版社の詩集を見るとあるから。だいたい今、初めての人って何冊ぐらい刷るもんなんですか。みんな自分のお金で出すでしょうけど。
高階 だいたい三百から五百の間くらいが多いですね。
松下 それって僕の初めての詩集『榊さんの猫』も三百部だったですね。
高階 ぼくも三百ぐらいですね、最初。
松下 『肴』もまず三百くらいだったんじゃないかな。だいたいその辺で変わらないもんなんですね今でも。
高階 それくらいで送るのに十分な部数ですね。
松下 三百部で費用はいくらいですか。まあ装丁によるでしょうけど。
高階 まあピンキリですけどね、五十万から六十万円くらいですかね。
松下 そんなもんで出来るんだ。結構安いですよね。わかりました。ありがとうございます。では、もし高階さんのところで詩集を出したいという方があれば一回ちょっと見てもらうっていうことも可能かなって思います。よい出版社だと思います。あとちょっとまた話が高階さんに戻るんですけど、多分高階さんは来年七十歳かな。ずっと詩人として生きてきて、最初は不純な動機であったにしろ(笑)、ずっと詩を書いてきて幸せだったでしょうか。
高階 いやそれは分からないですね、自分では。
松下 それでは、今若い人とか、若くなくてもいいや詩を書き始めている人たちに、詩を書いているとこういういいことがあるよっていうことがあったら教えてください。
高階 いろんな人と出会える。それがいいことと言えば言えるかな。ぼくもいろんな人とめぐりあえたから。松下さんもその内の一人だけれども。
松下 僕もそう思います。
高階 詩を書くことによっていろんな交友、新たな交流が生まれるのはいいことだなと。
松下 それも一つだね。なるほどね。高階さんの方から、詩を書く人たちに向けて何か言葉があれば。もうたくさん聞いたからいいかもしれないけど、何かあと宣伝を最後にしますけど。
高階 まあ、詩を読んでくださいって言うことですね。読むことによって、自分に合う人とか、自分の詩を転換させる詩人にめぐりあえたりすることがあるしれないし。最初のうちはいろんな作品を読むのがいいんじゃないかな。
松下 なるほど。
高階 それとちょっと、松下さん、聞いてもいいですか。今回、松下さんが十二篇のぼくの詩を選んでますね。
松下 はい。
高階 音楽ならいわゆるベスト盤とかいうのがあるんだけども、ぼくの目から見てもこれがベスト盤だとは……。
松下 偏っている?
高階 どういう基準で選んだのか、その辺を最後に聞ければ。
松下 基準というのは、一つはね、だから「ハルキ文庫」からまず選ぶって決めたんです。だからさっき言ったように、「ハルキ文庫」の外に結構いろんな、さっき高階さんが言ったように、パターンを変えて色んな面白い詩がいっぱいあるんだけど、キリがないし。もう一こと言わせてもらうと、高階さんの詩ってどれ読んでも面白いんだよね。だから言い方を変えるとね、ベスト十二を選ぶのが、すごく選びづらい詩人なの。人によっては、生涯でこの時期のこの詩だけはいいんだけどあとはその名声で一生ずっとつまんない詩を書き続けているって人もいる。誰とは言わないけど。そういう人もいるわけ。そういう人の場合はこの十二篇とはっきり言えるんだけど、高階さんの場合はね、読んだ詩がみんな面白いんだよ。だからもう、これはある所で決めつけちゃって、「ハルキ文庫」の中で、その日その時に僕がピンと来た詩のページを折り目を付けていった。そうしたら三十くらい選んじゃったから、その中から少しずつ削っていったら最後これになったということ。それだけ。だから特別な基準なんかない。だからある意味これが偏っているって高階さんがいちゃもんつけるんだったら。
高階 いや、いちゃもんはつけてない(笑)。
松下 それはそれで結構。僕の感性が偏ってるってことで、それのどこが悪いのっていうことですよ。これが好きなんで、これが好きなんだよっていう意思表明。
高階 いいとか悪いとかでなしにね?
松下 ないない。もし基準があるんだとしたら、気持ちに深く入ってきた、この十二篇はね。何段階かの気持ちの入り方の一番深い所まで入ってきた。
高階 例えば「だぶだぶの夏」ね。
松下 いいね、この詩ね。
高階 自分で書いておいて、どんな詩だったかなと思うくらい忘れていた作品だったので、これなんか意外でしたね。
松下 自分が書いた詩を忘れるってことで。僕なんかみんな忘れているよ(笑)。これいいよね。僕ね、個人的に坂に弱いんだ。動物と坂に弱い。何を基準にしてって言われてさ、白状するけど動物と子供と坂に弱いんだよね。だからさ、坂の関係の詩が二つ入っているでしょ。「だぶだぶの夏」と「てこの原理」。なんかね、自分が傾くっていうのを書かれるとね、ころっと行っちゃうんだよね。だから僕は今は詩の選者はやっていないけど、もしいつかどこかでやるとしたら、坂の詩を書くと松下はころっといくよって覚えておいてもいいかもしれない(笑)。自分が傾いたり、どこかが傾いて自分がズルズル落ち込んで行くっていう詩ね、好きなの。 
高階 だいたいわかりました。
松下 わかりましたか。そんなところです。えっともう時間になっちゃった。最後にね、宣伝になっちゃうけど、『せいや星夜 扉をあけて』。これ仏教雑誌に書いた?
高階 西本願寺の新聞ですね。
松下 浄土真宗ですね。うちも浄土真宗です。そこに書いた詩が九篇あるんだけど、確かに仏教の新聞に書いたのかなとも思えるし、そうでないとも思えるし、みんなこういうふうに綺麗な絵が描いてあって、素晴らしい詩集です。これが最新刊ですね。あの1500円プラス税です。これお買い得です。あの全篇色付きの詩集で、言葉も選りすぐって、これについては僕、書評を頼まれているんでね、この詩の教室が終わったら書評に取り掛かろうと思ってますけども、あのバシッとしたものを書きますね。この詩集が欲しいと思った人で、高階さんのところの連絡先がわからなかったら、僕のところにメールしてください。高階さんの方に連絡しますから。
高階 アマゾンとかでも買えるので。
松下 高階さんに頼めばサインしてくれるのかな。
高階 「とぶりんネット」だったらね。
松下 「とぶりんネット」だったらサインしてくれます。何か一言あります?
高階 絵がすごくすばらしい。
松下 うん、みんなきれいだね。淡い色の。
高階 是非、購読いただければありがたいです。
松下 ということで、まだいっぱい聞きたいことがあって、いっぱい質問を用意したんだよね。前にね、池井昌樹と対談した時に、「お前さんは準備しすぎだ」とか言われたので、今日はあまり準備しないようにしようかと思ったんだけど。もう一回会う時にはまた別の質問をしたいと思っています。あの楽しい時間でした。高階さんありがとうございます。
高階 ありがとうございます。

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