「同時代の詩を読む」(51)-(55) 芝原靖、嘉陽安之、清中愛子、中西邦春、長谷川哲士

(51)

自転車に乗ってこようかと思うんだ  芝原靖

まだしばらく降らないだろうから
ちょっと自転車に乗ってこようかと思うんだ

雲も多いし
蒸すような空気だけれど
自転車に乗れば
風を作って気持ちいい

このあたりも
いずれ雨
すべてが覆われる

だから今のうちに
自転車で走りたいんだ

雨の中でも
風の記憶で息がつけるだろうから
晴れた日の記憶が
ぼくを生かしてくれるだろうから

だから
ちょっと自転車に乗ってこようかと思うんだ



「自転車に乗ってこようかと思うんだ」についての感想

この詩を読んで、ぼくは一編の詩が担うものの大きさ、ということを考えました。そんなにたくさんのものを担わせなくても、詩はじゅうぶんに成立するのです。そしてどこか、懐かしさも感じました。

詩を読み始めた頃に、つまり詩に初々しく出会った頃に、「この詩はいいな」と感じたのは、思い出せば、とてもシンプルな詩が多かったような気がします。

あれから現代詩もだんだん複雑化して、言葉をねじ曲げ、引き延ばし、裏返し、担うものを大きくしようとするものがたくさん見えてくるようになりました。それはそれで、言うに言われぬ感覚に届かせてくれるよさはありますし、そうならざるをえなかった事情もわからないではありません。

でも、たまにはそうではなく、一つの詩が、たったひとつのわかりやすい感覚を書いた詩も、読みたいと思ってしまうのです。

この詩はよい詩です。とくに人を驚かすようなことを書こうとするのではなく、自分の心持ちを起点にして、大切な感じ方をしっかりと文字にしようとしています。詩を書く人の多くが忘れている、まっすぐな感じ方を詩に仕上げています。

この詩からは、一篇の詩が目の前にあることのすがすがしさや、詩を読むことができることの喜びを感じることができます。詩というもののつつましやかな姿を思い出させてくれます。

言葉遣いも無理がありません。風、雨、自転車、すべての言葉がその意味と、意味の奥にしまわれている密やかさをしっかりと提示しています。

いえ、そんな面倒な言い方をしなくても、自転車に乗って走った時に感じる風の爽快感を、詩を読んで受け取ることのなんとすばらしいことかと思うわけです。

「晴れた日の記憶が/ぼくを生かしてくれるだろうから」。ここを読んだ時にちょっと泣きそうにもなるのは、僕だけではないと思います。

(52)

荷物          嘉陽安之

寂しい
なんて感情は
現代詩のシャツが
よく似合う
若者の持つ感情

人を愛し
結婚し
子どもが生まれて
僕は寂しいという言葉を
忘れていたが

あるとき
僕の心の住所に届いたのは
寂しい という
とんでもなく重たい荷物
取り扱い注意って貼ってある

梅雨の休日
部屋で一人
僕の心に芽生えたある問題について
雨と話していたところだった

全く現代詩のシャツが似合わない
年になっても
寂しい という荷物が届けられる

ちゃんちゃんこを着る年に
なってもなお
人は
ますます重たくなった
寂しい を
衰えた両手で
誰にも知られないように
受け取る



「荷物」についての感想

ところで、詩は元気な時にできるでしょうか、あるいは元気のない時にできるでしょうか。もちろん人によって違うでしょうし、元気のないその理由によっても違うのでしょう。ですからこれはぼくの個人的な感じ方ですが、どちらかというと心の弱っている時の方が言葉のするどい詩ができ上がるように思います。

さて、本日の詩はとてもわかりやすくできています。よくできた詩であると思います。自分の感じたことを、無理に背伸びをせずに、その範囲の中で丁寧に書き表そうとしています。「寂しい」というありふれた感情をよくぞここまで詩にできたなと思います。

この詩には、寂しいという思いは若い頃のもので、結婚して子供を持ったら似合わない、とありますが、現実にはもちろんそんなことはないわけです。それはだれでも知っているわけです。どんな年齢になってもさびしいことはさびしい。いつだってさびしい。

それでも、だれでもが知っていることでも、そうではないのではないかと小さな声で自分の思いを書いてしまっても、詩は許してくれます。そして書かれてしまえば、ああそんな感じ方もあるかなと、読む人は思ってしまうものです。

この詩では、忘れていた寂しさが郵送で送られてきた、とあります。そうか、寂しさはe-mailではなく郵送で、切手を貼って送られてくるのだなと、なんだか納得してしまいます。

この詩の作者は歳を重ねて、ひさしぶりにさびしさを受け取って、だからかけがえのないこの現代詩ができたのかなと推測します。たぶん寂しくて、自信がなくて、元気もない時に、この詩はできたのかなとも。

(53)

葉緑体かあちゃん     清中愛子

あるとき体が緑色になって
いろんな欲望消え去って
太陽の光浴びてるだけで
自分で養分を作れるようになったなら
役立たずでも
無職でも
ボロ雑巾のようにくたびれた主婦でも
誰にも迷惑かけずにイキイキ生きていける

この世の全ての悩みは
空腹からきていると
今月の少女漫画雑誌に書いてあった
そんなら
人類がみんな
光合成できる身体能力か
それに値する科学的方法で
それぞれおのおのが
自分で自分の腹の中を
自然とまかなうことができたなら

こんなにやたらと働かなくても
貧乏だ金持ちだと騒がなくても
努力だ目標だ達成だと気張らなくても
ほんとうに穏やかな心で
生きていける
とおもうのはあまりに呑気か


水に流されるままに流されて
行きついたところに付着して
また流されるなら流されて
他を犯そうという邪心もない

植物プランクトンは
そんなふうにあるがままに透明で明るくて
太陽の光だけ浴びている

わたしが光合成できる母ちゃんなら最強で
更に世に珍しくみどり色の皮膚をしていて
観音様みたいにほほえんで
怒ったりわめいたり憎んだり
右往左往した挙句に
明日を悲観することもなく
雨ニモマケズ風ニモマケズ
ただ太陽を静かに浴びている
そんな母ちゃんに
わたしはなりたい



「葉緑体かあちゃん」についての感想

この詩は昨日の「Zoomによる詩の教室」で出会えた詩です。

で、本日は日曜日。日曜日の午後に読むにふさわしい詩です。

この詩、面白く読みました。笑いました。詩を読んで微笑むことが出来たり、ちょっと笑い声を出せたりって、すごく好きです。

ほんとによくできた詩であると思います。一連目の「太陽の光浴びてるだけで/自分で養分を作れるようになったら」という、ありえない前提だけでとても惹きつけられました。

確かに自分で養分を作れるのなら、貧乏だってぜんぜん恐くありません、引きこもりだって好きなだけできます、いやな思いをして行っている会社は、即、辞めることができます。この詩を読みながら、そんな夢をちょっと見て、ちょっと笑って、それから現実に戻って、ちょっとつらくもなりました。

この詩で驚きなのは、葉緑体で生きていける身体を持つという前提の面白さを、最後まで維持できている筆力です。最初の発想が秀でている詩は、おうおうにしてその発想に頼りすぎて、その後の展開が退屈になってしまいがちなのですが、この詩は最後までもれなく面白いと感じました。

なかなかここまで読者を惹きつけることはできません。

ぼくは三連目が特に好きです「貧乏だ金持ちだと騒がなくても/努力だ目標だ達成だと気張らなくても」。よい言葉です。繰り返し読んでいると、ちょっと泣けてもきます。

人の生き方のあるべき姿を夢見て書かれた、とても健全でとても素敵な詩だと思います。ああ、今日みたいな日差しを浴びるだけで、自分で養分を作れたらな。

(54)

赤い実    中西邦春

タウン情報誌の編集部に勤めていた頃、あるバンドのボーカリストにインタビューをしたことがある。彼の作る詞は評価が高く、歌詞集も発行されていた。僕もいくつか好きな歌があった。

話題が彼のバンドの新曲に移った時だ。テレビドラマの主題歌を作ることになり「初めて詞で悩んだ」のだと彼は言った。

思わず「…ということは、これまで作詞で悩んだことはないということですか?」と尋ねると、彼はまっすぐな目で「はい」と即答して、こう続けた。

「僕にとって、詞はなんと言うか…、木が実をつけるのと同じで、時が来れば自然と実るものなんです」

話しを続けつつ、僕は彼の書いた詞をいくつか思い返していた。そのすべてを、彼は何の苦労もなく作り上げたと言うのだ。一体、本当にそんなことがあるのだろうか? 優れた表現者もそうでない者も、才能の大小にかかわらず、それぞれに等しく苦しみつつ何かを生み出しているのではないのか。そう思いはしたが、それ以上は聞かなかった。

翌日、彼のバンドのライブを観に行った。マイクを握りしめた彼は、物静かな前日の印象とはうってかわって、歌詞のひとつひとつをこちらに全力で叩きつけるように、歌うというより吠えていた。

帰りの車のなかで、昨日の彼の言葉を心の中で反芻していると、脳裏にある光景が浮かんできた。

緑の野に、たくさんの木が並んでいる。それぞれの木には赤い実がたくさんなっている。地面のあちこちにも、たくさんの実が転がっている。そして、あの彼がカゴを手に、忙しく実を拾い集めている。カゴの中は、赤い実であふれんばかりだ。

そして、その後でもうひとつ、浮かんできた光景があった。

荒れた野にやせた木が一本。その木は、小さな赤い実をたったひとつだけつけている。その下には男がひとり。空っぽのカゴを抱え、待ちわびるようにいつまでもそれを見上げている。たったひとつの赤い実をいつまでも。



「赤い実」についての感想

この詩を読んでドキリとした人は多いと思います。ぼくもそうでした。詩を書いていて、輝かしい作品を次々に生み出す人を見て、うらやましく思い、自分には、あの人のような特別な才能はないのではないかと悩む人は多いと思います。というか、だれしもそのような悩みを持ったことがあるのではないかと思います。

この詩は、苦労なく詩が書ける人とくらべて、荒れ野の痩せた木のように乏しい才能の人(自分を含めて)の心細さを描いています。

とはいうものの、この詩に出てくるバンドの彼だって、それまで全く創作に悩んだことがないとは思われず、人に語ることには多少大げさなところがあるのではないかと思うのです。また、乏しい才能に悩んでいる多くの人だって、果実が実る時の喜びは、途方もなく大きなものであって、寂しいばかりではなかったはずです。

さらに考えるなら、ではたくさん実の成る木がすぐれ、たったひとつの実を大切に抱えている木が貧しいと、単純に言えるのかどうかについても、考えるべきことはあると思います。個人の心に帰れば、結局のところ同じなのではないかと、ぼくは思うのです。

ともあれ、詩を書くことの悲しみと喜びを、あるいは人に対する羨みやあこがれを、様々に考えさせてくれる、なんとも心に引っかかる、よい詩です。

最後に、この詩の中でぼくが一番好きな箇所を引用します。「優れた表現者もそうでない者も、才能の大小にかかわらず、それぞれに等しく苦しみつつ何かを生み出しているのではないのか。」

おやすみなさい。

(55)

陽当たりの良い部屋    長谷川哲士

陽が昇り 顔洗い 飯を喰らう
髪が抜ける 記憶も抜けていく
水道の元栓 壊れ 水ぽたり
抜ける するする するするするの合唱が 
どこからでしょうか 聞こえ
別の世界へ 旅立とう として
朝から 麦酒の栓を こんこんしてから
開けて 呑む そして 絶望者のまね
何となくまた寝る 職を休む 間抜け者
時は滑り もう 西陽が俺を呼んでいる



「陽当たりの良い部屋」についての感想

まさに実感の詩と言えます。

ぼくもまだ勤め人だった頃は、日によっては「絶望者」のような時もありましたが、小心者だったのでなかなか「職を休む」ことはできませんでした。

けれど、通勤をしながらも頭の中はこの長谷川さんの詩の通りにしたいと思うことは幾度もありました。

「麦酒の栓を こんこんしてから 開けて 呑む」の「こんこんしてから」の表現は、特に珍しいものではありませんが、ここでこうして使われると、とてもうまいなと感じます。目に見えるようです。

それから「別の世界へ 旅立とう として」と、なんだかきれいなことを書いていますが、要は現実から逃げているだけであり、でもこの気持ち、よくわかります。

そしてずる休みをしてしまった日が暮れてゆく時には実に情けない気持ちになってゆきます。ずる休みをしなかった時よりも、翌日は会社に行きづらくなるものです。

ただそのような「こういう気持ち、嫌だな」という思いが、自分のだらしなさを見つめさせ、時に自分はこんなふうになってしまうのだなと、反省とあきらめの中間のような気持ちになって、自分のことをより深く理解するようになるのだと思います。

そしてその理解がおそらく詩を作る時に役立っているのです。

自分は意思の強い、何事もまっとうする人間だと思っている人は詩なんか書こうと思いません。

おそらくぼくも長谷川さんもそうなのかなとこの詩を読んで勝手に思っていました。

これだけの短さで、実感のこもった詩になっています。「西陽が俺を呼んでいる」。なるほど。


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