「会社帰りのこと」

「会社帰りのこと」

これもずいぶん昔の話です。

私の家で不幸があった時に、事情があって葬式には限られた人にしか来てもらいませんでした。私の勤め先にも、参列は直属の上司だけにしてくれとお願いしました。

ですから会社の同僚や先輩は、葬式の翌週に、会社帰りに、それぞれが私の家に立ち寄り、お線香をあげてくれました。毎夜たくさんの人が、小さなマンションの一室に来てくれました。驚くほどに多くの人が来てくれました。

Sさんもそのうちの一人でした。長身の、口数の少ない先輩でした。税務を担当していました。仕事場でも、それほど話をしたことのない人でしたが、わからないことを聞けば、忙しくても的確なアドバイスをくれる人でした。

「松下さん、線香をあげさせてください」と言って、Sさんが部屋にあがってきました。

それから仏壇の前にすわって、手を合わせて、でもなかなか線香をあげません。「松下さん、悪い、おれ、こういうのわからないんだ。どれをどうしたらいいのかな」

困ったように聞いてきました。それから私は簡単にすべきことを教えました。ほんとに簡単な動作でした。簡単な動作をゆっくりと丁寧にして、Sさんはほとんどなにも言わずに、帰って行きました。

数年後にSさんは、出張先のホテルで、持病の喘息の発作が起き、急に亡くなりました。そのお葬式の手伝いに、会社から何人かが行くことになり、私もお願いして手伝わせてもらいました。突然の死にも、奥さんはしっかりと対応をしていました。子供が四人いました。

今でもSさんが来てくれたあの夜のことを、私は思い出すのです。

「どれをどうしたらいいのかな」と言って、私の顔を見たSさんの声と表情を、たまに思い出すのです。

「松下の家に行って線香をあげてこよう」、と思ってくれたんだな、会社の帰りに寄ってくれたんだなと、そのありがたい思いを、想像するのです。

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