なぜ高階杞一だけが高階杞一の詩を書けるのだろう ―『星夜 扉をあけて』

なぜ高階杞一だけが高階杞一の詩を書けるのだろう ―『星夜 扉をあけて』「澪標)

 今年の五月に僕は高階さんと対談をしました。一時間半ほど高階さんに質問をしたのですが、質問をしながら気持ちの中には「なぜ高階杞一だけが高階杞一の詩を書けるのだろう」という疑問がありました。その答えの一端でも知りたいと思ったのです。言い方を変えるならば、高階さんの詩は、一見だれにでも書けそうに見えるのに、最後まで読んでゆくとたやすく書けるものではないということが分かってくる妙な詩なのです。例えばこの詩集の巻頭の詩はこんなふうに始まります。

 青い空に/雲がひとつ/うかんでいます(「春の改札」より)

 どうです。ある意味すごい書き出しです。これほどすごくない書き出しの詩は珍しいという意味で、すごい詩です。でも僕はこの書き出しを読んでもさほど驚きませんでした。なぜならこれは高階杞一が書いたと知っているからです。このなにげない書き出しが読者をどんな面白さへ導いてくれるのだろうという期待感しかもちません。というのも、これまで幾度も高階さんの詩には(よい意味で)騙されてきたのです。こんなありふれた書き出しなので、なんだかどこにでもあるテーマの詩のようだと読み進めていくうちに、気がつけば「ああこの詩はいいな」と思ってしまう。なんだか催眠術にでもかかったかのようです。もしもこの書き出しが、見知らぬ人の詩だとしたら、さすがにぼくは「これはちょっと」と思ったかもしれません。

 では、ありふれた書き出しの詩が、どのように僕らの心をつかんでゆくのでしょうか。「春の改札」の続きを読んで、そのきっかけを探して見ましょう。スペースの関係で全文は引用できないので、ポイントだけを拾ってゆきます。一つ目のきっかけは三連目にあります。「こどもと犬が/立ちどまって見ています/こどもは雲を/犬は黄色い花を」というのが三連目の全文ですが、一見、ここもなにごともない詩行に見えます。でも、目をよく凝らしてみると、作者(高階さん)の視線がこどもと犬に同じ量だけ注がれていることに気付きます。思いをどちらかに傾けていない、というのはありそうでないのです。こどもがいてそのそばに犬がいる、というのではないのです。こどもと犬が均等にいるのです。そしてこどもは雲を、犬は花を見ているのです。ひとつの詩が目の高さをふたつ持てることに、ぼくは少なからず驚きました。

 さらに、感動へのもうひとつのきっかけは五連目にあります。「あちらへ行くには/どこで切符を買えばいいのでしょう」とあります。こどもと犬が見つめる先(あこがれの場所)へ行くためには切符売り場はどこでしょうかというのですが、ここも一見、それほど奇妙な展開ではありません。どこか空想の場所へ行くための乗物の切符という発想は、必ずしも珍しいものではありません。夢見心地な詩人なら大抵思いつきます。でも、この詩はどこか違うような気がします。たぶん「あちら」という言葉の言い方がそう感じさせているのだと思います。「あちら」といえば、僕はつい「あの世」を思い浮かべてしまうのです。だから、これは深読みかもしれませんが、この子どもと犬は別々のものを見ているけれども、その視線をずっと伸ばしてゆくと、もうこの世にいない一人の大切な人のことが見えているのです。
 たぶん、この詩を読んでも「あの世」を思い浮かべない人の方が多いと思います。それはそれで構わないのです。読者の数だけ詩の読み方はあっていいと僕は思います。ですが、この詩が浄土真宗本願寺派の新聞に載ったというあとがきを読んで、ぼくの感じ方もあながち見当外れではないのかもしれないと思ったのです。
 で、この詩の最終行は「遠い/改札の向こうでは/まだ眠っているものたちへ/目覚ましが/やさしく/鳴り続けています」となっています。この連には奇しくも高階さんの詩のふたつのキーワードが入っています。ひとつは「遠い」もうひとつは「やさしく」です。
 ところで「改札の向こう」に眠っている人とはだれでしょう。ここは様々に解釈できるように書かれています。詩はどんなふうに鑑賞してもいいのです。ただ、僕にはやはりこの人は亡くなっているように思えるのです。だって、死んでいるから「目覚ましが/やさしく/鳴り続けて」いてもまぶたをあけないのではないかと思われるからです。
 「春の改札」は高階さんの詩の特徴をとてもよく表している詩です。高階さんらしさとは(1)春ののどかさ(2)遠さ(3)易しさ(優しさ)の三つです。

 と、ここまで読んできて、ありふれた書き出しの詩がなぜ胸を打つ詩に変わってゆくのか、その仕組みは理解できたでしょうか。現象としては、言葉の意味の向こうに別の意味を潜ませていたり、向こう側の世界を思い浮かべる空想の鮮やかさだったりするわけですが、僕が分るのはそこまでです。なぜ高階杞一でない人がこのような詩を書けないのかという疑問には、いまだ答えられていません。というか、答えられないから詩は面白いのです。

 この詩集には九篇の詩が載っています。粒ぞろいです。特に好きなのは「星夜」「光の贈り物」「野の花」などですが、もちろんどの一篇も易しくて優しい詩です。そして気持ちよく読み終わったあとに、深く考えさせられます。また、全ページに描かれた絵の魅力にも引きつけられます。淡く彩色された絵はどのページも言葉をしっかり受け止めています。
 しつこいようですが、高階杞一だけがなぜ高階杞一の詩が書けるのだろう。依然不明です。

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