「孤独」のたてる音 ― 小池昌代詩集『地上を渡る声』

「孤独」のたてる音    
   ― 小池昌代詩集『地上を渡る声』

 いつのころからか、小池昌代の書くものに間違いはないのだという思いを持って、新作のページを開くようになりました。それはおそらく、これまでに書かれてきた詩作品の、細部にわたる輝きだけによるものではありません。むしろ、詩作品と平行して書かれてきたエッセイや小説を読むことによって、その書かれたものが、偶然によって生まれた傑作ではなく、発想の元のところからすぐれたものになるべく決められていたのだということがわかったからなのです。つまり、小池昌代の思考の流れそのものが、詩作品としての鑑賞に堪えうるのです。
 この詩集においても、わたしは、小池昌代の詩を読むのではなく、じかに、小池昌代を読みました。そのような言い方は他の作品にも当てはめることはできますが、今回の詩集『地上を渡る声』は、まさにそのような読み方にふさわしいものであると思いました。

 自身を遠くに追いやるまなざし。意味から引き剥がされてゆく言葉。耳鳴りを内に響かせることの静けさ。内と外との接点の湿り気。自分を見失うおそろしい瞬間。呼吸する空間。同じところへ「もどる」ことの行為の違和感。「孤独」のたてる音。
語られていることは多岐にわたり、その都度、読者はその場所に見事に連れ去られます。巻頭の詩に、「ビスケットをたたけばポケットがひとつ…。もひとつたたけばポケットがふたつ」とあるように、さまざまな空間へつながったポケットの内容を、ひとことでまとめることは容易ではありません。ただ、多くの箇所に見られる「死」という文字が、この詩集のあり場所と、向かう先を暗示しているだろうことは、想像できます。
 「詩を書く」とは、つまるところ「死」の意味を言い当てる行為です。小池昌代は、これまでにも鮮やかな「生」の裏側をのぞくようにして、「死」を描いてきました。そしてこの『地上を渡る声』では、単に「生」の裏に張り付いているものとしての「死」ではなく、なまのままの「死」をじかに手づかみにし始めたのだと思われるのです。
 日本の現代詩の中では、際立った才能をもったこの詩人が、詩の、本来の目的へまっすぐに向かい始めたことを、わたしたちは、息を詰めて見つめ続ける必要があるだろうと思います。    
感情を殺して、物静かに語られているこの文体が、その奥に、作者の涙ながらの絶叫を隠しているように思えてなりません。それは、「生きる」ということへの絶叫であり、それゆえこれを読む「いきもの」であるわたしたちも、どきどきしながら小池昌代のポケットを、通過するしかないのです。

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