「同時代の詩を読む」(26)-(30) 樋口和博、おおたにあかり、深月、柳坪幸佳、十谷あとり

「同時代の詩を読む」(26)-(30) 樋口和博、おおたにあかり、深月、柳坪幸佳、十谷あとり

(26)

「(夫婦の)かたち」       樋口和博

妻が、ベッドでさかさまに寝るようになったのはいつからだろう。
僕の横には妻の二本の足が横たわっている。
僕の足元では妻の頭が 寝息を立てている。
寝る時くらい(夫婦だから)少し距離をおいた方がいいのか、
寝る時くらい(夫婦だから)距離を縮めた方がいいのか、
どれが今どきの(夫婦の(夜の))形なのか、
うちは 世間のことなど気にしない家風だったか、
眠り始めのまどろみや 明け方の薄闇の中で、思い出せない。

手漕ぎのボートの上なら
前にも後ろにも進めない
ただ、いきなり取っ組みあいの喧嘩にならないのはいい
かもしれない
互いのいびきも少し遠くから聞こえてくるし
夏は 互いの鼻息もかからないから 暑苦しくない

自分の時間を侵されながら仕事に身を投じる妻と
自分の時間をすこしずつ膨らまし続け いまや
会社に月の半分しか行かなくなった僕
(でも家で仕事はしているんだけどな)
なのに 妻には友達百人 僕には四人(この間一人死んじゃったな)

二十八歳だったかに妻(となる娘)と出会うまで
僕の人生の中には さ迷う強い意志と 途方もない諦め
二人を引き寄せないきっかけになりえたたくさんの物語があったのに
こうして 毎夜 夫婦でさかさまになって
1枚の掛け布団を引っ張り合っている  で、何でさかさまなんだ
なんか詩じゃないな これ
でも天井から見れば 詩だな



「(夫婦の)かたち」についての感想 松下育男

面白い詩です。奥さんと逆向きに寝ている、とそれだけのことを書いているのですが、その図を想像すると妙におかしいし、そこから出てくる考え事もなかなか面白い。「面白い、面白い」では詩の評にならないのはわかっていても、やっぱり面白い。

それにしても、なぜ奥さんと逆向きになって寝るのだろうと、ぼくはまず一行目を読んで思いました。子どもだったらふざけてそうすることもあるかもしれませんが、これは夫婦です。大人です。

詩の中にも書いてありますが、亭主のいびきがうるさいのなら、逆向きになってもそれほど音は変わらないだろうと思います。また、二人の仲が悪くなったのなら、逆向きに寝るなんて中途半端なことはせずに、別の部屋に移るのではないかと思うのです。だから、逆向きに寝るのはなぜだろうという興味が、この詩をさらに読ませます。

この詩で感心するのは、書くという行為に無理がないことです。詩を作ろうと言うよりも、常日ごろ感じていることをそのまま書こうとしていることです。もしかしたらそう見えるだけで、作者は苦心してこのような書き方にたどり着いたのかもしれません。でも、そうであるならなおさら、この自然な書き方はすごいなと思います。

詩を書きました、といういかにも「詩」らしい詩もいいのですが、この詩のように敷居を低くして無防備に書かれると、読む方も同じように無防備になって心ゆくまで詩を楽しめるわけです。なるほど、そうだよなという気持ちで読めるわけです。

逆さまに寝ているところから、詩の後半は奥さんと自分の生き方の対比を書いています。ここもなるほど気が利いていて、深くうなずけます。人の人生にちょっと切なくもなり、いとおしくもなります。

作者の心情がよく「わかる」詩になっています。考えてみると、ここまで作者の心情がわかってしまう詩はめったにないし、「なるほどな」という感想も、一種の「感動」と言ってもいいのだとぼくは思います。

 
(27)

「カンショウザイ」    おおたにあかり

ぷちぷちプチんぷちちぷちん

「お届け物 」が
傷つかないように
過剰なほど 
丁寧に巻かれてあった
緩衝材を剥がして
潰している

ぷちちぷちっぷち
指先をくすぐる
柔らかい破裂と衝撃
ぷすんっプチぶちぶち

わたしの毎日みたいに
つぶされてつぶれていく

感傷などひとつもない
と言い切りたくて
けれど言う必要もない
誰も興味など無くて

平日の午後2時半過ぎ
日当たりの良くない
キッチンは
皆が思っているより
薄暗くって

ぷちんぱちんぱちん
火が爆ぜる音を
入り混じらせ

緩衝材をつぶしている

わたしこそが
緩衝材
一つの感傷すらない

過剰なほどの

* 

「カンショウザイ」についての感想 松下育男

面白い詩です。力がいいあんばいに抜けています。

この詩が成功しているのは、緩衝材をつぶすことだけを書いていることによるのだと思います。ここからさらに、さまざまなことを書きたくなるのが普通ですが、ひたすらプチプチつぶしているところがおかしくもあり、リアリティーもあります。

ひたすら一つのことをしているわけですが、途中で考え事もしています。その考え事もおかしい。「わたしの毎日みたいに/つぶされてつぶれていく」。なんと大ざっぱな比喩かと思いますが、そのおおらかさがなかなかいい。

また「キッチンは/皆が思っているより/薄暗くって」と書いてありますが、だれが人の家の台所の明るさなんか気にするだろうと思えば、ここもおかしくなります。

最後の方で「わたしこそが/緩衝材/一つの感傷すらない」とあり、そうか「緩衝」と「感傷」のだじゃれだったのかとわかり、この力の抜け方も心地よく感じます。

それにしても、あのプチプチとつぶせるモノの名はなんと言うのだろう。だれもが知っているあのつぶした時の感触。その気持ちの良さがそのまま、この詩に満ちています。

日曜日の午後に読むにはちょうどよい詩です。

 
(28)

「陽に溶かす」      深月

穴を掘っていた。
母は穴を掘っていた。
二月の土は固く凍り、掘りつづけた穴は丸く、黒々と口を開けていた。

(ああごしてえ、ごしてえなあ。
 年を取ると身体がしんどくてなあ。
 ずくもなくなるし家の中も外もささらほうさらでせえ)

台所では味噌汁が湯気を立て、氷の張った桶から出された漬物は青々とし、
正しく冬であった。冬以外の何者も訪れる事はできなかった。
私たちのあの庭には。

そして私たちは穴を掘り、埋めたのだ。
一つの季節と一つの太陽と、一つの忘れてはならない記憶を。

埋められたものたちは春になっても芽吹くことは無く、
芽吹かせぬための穴であったのだから当然ではあるが、
せめてもと手向けた花すらもすぐに飲み込まれていった。
穴は凍り付いたまま、季節は巡る事を忘れ、いつであるのかも判然としない。

いつのまにか母は穴の上に立ち、自らを溶かし始めている。
陽を浴びた身体は形を無くし、溶けた端から凍ってゆく。
ああそのようにして帰っていくのだ同じ場所へと。

(あわてる事なんてねえじ。いつかは巡るんだでさ。
 俺もおめえも、おんなじせえ)

手向ける花は無いが、せめて水だけでも注いでやろうと思う。
いつか忘れられた頃には、溶ける事もあるだろう。
誰も来ないあの場所で、穴の上に芽吹くのだ。



「陽に溶かす」について    松下育男

この詩は昨日の「詩の教室」に提出されたものです。

この詩を読んで思ったのは、「思いを込めた行為」を書くことは、それだけで詩に深い意味をもたらすものなのだな、ということでした。ぼくの中に深く入ってきたのは一行目の「穴を掘っていた」という行為です。ここを読んだだけで、ぼくはすでにこの詩にとらわれていました。

もちろん一行目だけではなく、どこもすごく迫力があるというか、引き込まれる詩です。驚くほどうまい詩だなと思います。

この穴は普通に考えれば植物を植えるための穴であり、さらにすべての生き物の墓穴なのかなと思われるわけですが、それだけではないものをも含んでいる感じがします。普通の穴ではない、もっと多くのものを飲み込むことのできる穴。命だけでなく別のものをも同時に飲み込む穴。この世の墓穴、という感じです。

詩の最初に「穴を掘っていた。/母は穴を掘っていた。」と畳みかけるように激しい動作が出てくるのもすごいし、三連目の「正しく冬であった。」というのもなかなか書けない鋭い一行です。

四行目がこの詩の中心のようなところで「そして私たちは穴を掘り、埋めたのだ。/一つの季節と一つの太陽と、一つの忘れてはならない記憶を。」ということで、この「記憶」とは何なのかは詳しくは書いてありません。何か、奥深くに埋めてしまいたいものがあった、ということでしょう。

その穴に、六連目「いつのまにか母は穴の上に立ち、自らを溶かし始めている。」というのもすごい行です。立ったまま葬られるというのは、どこか植物を連想させます。お母さんが植物になって、お母さんの顔が植物にお面のようについていて土に植わっている、そんなイメージを思い浮かべます。だれもがこの穴に入ることになるというのであれば、まさに命の果てを象徴しているようです。

そうであるのなら「一つの忘れてはならない記憶」とは、もしかしたら人の生涯まるごと一つ分を言っているのかもしれません。

どの言葉も作者の思惑通りに小さく震えています。

ちなみに2連目の方言はぼくもわからなくて調べたのですが、長野あたりで使われていて、「ごしてえ」は「疲れた、だるい」、「ずくがない」は「やる気を出す気がない」、「ささらほうさら」は「ひっちゃかめっちゃか、ふんだりけったり、てんやわんや」という意味のようです。それでも、意味がわからずに読んでもなんとなくそんな感じがするから不思議です。

ともかく、この詩を読んでからぼくの頭の中では「穴を掘っていた。/母は穴を掘っていた。」の二行が繰り返し響いていて、その様子がずっと見えているのです。詩を読むとはそういうことなのでしょう。

 
(29)

「朝を出力するために」    柳坪 幸佳

朝を出力するために
コンビニに行く
マルチコピー機に向かって立つと
ガラス窓の向こうでは
光が少し呼吸をゆるめて
お辞儀してくる
わたしもちいさく頭を下げる
今日ならば
ここから何が取り出せるかと
聞きたいのだが
異国から来た学生たちは
忙しそうに、本日のレジをたたいているから
(あなたたちの詩をわたしは知りたい)
そうつぶやいて
ちいさな硬貨をいちまい転がす
そうすると、ひきかえに
/いらっしゃいませ、
/ありがとうございます
声に押されて、するすると朝が伸び出し
整えられたこの店内に
青空としてひろがってゆく
/ありがとうございます、いってらっしゃい
あざやかなまでの成層圏
今ならば
ドアの向こうで
水たまりの
浅瀬を少し跳べるだろうか
手のなかにまるめて握った
まっさらな
朝に向かって歩き出すため



「朝を出力するために」について 松下育男

ところで、せっかく詩を読むのなら読んで気分のよくなる詩を読みたいと思います。もちろんたまには心の奥底で膝を抱えてうつむいているような詩もよいけれど、普段ははきれいな詩を読んでいたいと思うものです。

今日の詩は、なんといってもさわやかです。さわやかな詩って、ありそうでなかなかないのです。

題名の「朝を出力するために」というところからしてさわやかです。言葉の組み合わせがそう感じさせてくれます。「朝」と「出力」と「するために」の三つの言葉の組み合わせのつなぎ目から、適度に冷たい風が吹いてくるようです。

詩の内容も、まさに「朝を出力する」ための新鮮な動きが描かれており、気持ちよく読める詩になっています。

「マルチコピー機に向かって立つと/ガラス窓の向こうでは/光が少し呼吸をゆるめて/お辞儀してくる/わたしもちいさく頭を下げる」

この辺は具体的な動作で、とてもかわいらしい感じもして、魅力的な表現になっています。「光がお辞儀してくる」ってどんなふうだろうとその姿を想像してしまいます。かなりまぶしいお辞儀なのでしょう。

「するすると朝が伸び出し/整えられたこの店内に/青空としてひろがってゆく」

ここも広がりの感じられるよい箇所で、そのあとの「成層圏」へつながって、広がりはさらに膨らんでゆきます。「するすると朝が伸び出し」。なんだか人が朝起きてすぐに伸ばしてしまう背筋のようです。朝にも背筋があるようです。

最後の「まっさらな/朝に向かって歩き出すため」も、前向きな動きと姿勢がしっかり書かれています。本当は前向きになれない朝だってたくさんありますが、それでもなんとか微かな前向きを見つけだして、それに支えられてともかくも起き上がる。けなげな自分を思いました。

読んで気持ちのよい詩です。今日の感想は「さわやかさ」のことばかり言っていますが。さわやかな時には余計なことを言わずに、黙ってもう一度この詩を読みましょう。

 
(30)
 
「指」   十谷あとり
 
  二月、銀行から父名義の負債が残っているとの通知が届き、
  父がなくなっていたことを知った。いずれこのような別れ
  になろうかとは思っていたが、この世におさらばしたこと
  を借金を使って知らせてこようとは。父らしいと言うべき
  か、父とわたしにふさわしいと言うべきか。
 
銀行から届いた手紙と役所でもらった書類を持って家庭裁判所に行く
ビルの入口で手指の消毒とボディチェックを受ける
記入例を見ながら相続放棄の申述書を書いていたとき
放棄の理由の一例に
・かかわりあいをもちたくない
というのがあって
その文字列が見えないこぶしのように飛んできてわたしのひ弱さをぶちのめした
かかわりあいをもちたくないって
そんなふうに言うてもええんや そうか
記載台に 穴の開いたチューブマンみたいにもたれかかって
指に力をこめて父の名前を書いた
よく晴れた午後 家族とかかわりあいをもちたくない人のひとりとなって
谷四(たによん)の駅まで戻るさを
母がなくなったとき 焼き場の係員に促されて
炉のスイッチを押したことを思い出した
この指で
 

 
「指」についての感想   松下育男
 
読み始めたら素通りできず、考えさせられてしまう詩です。どこまで本当のことを書いているのかどうかはわかりませんが、とてもリアリティーを感じます。無駄な行がありません。言葉がしっかりとその意味を携えて使われています。
 
実際の原稿は、最初の連は小さな文字サイズで書かれていて、この詩の前書きのようになっています。前書きのある詩はめったにありませんが、この部分は、たしかにこの詩を読むためには必要ですし、詩へのしっかりした通路を作っています。
 
「かかわりあいをもちたくないって/そんなふうに言うてもええんや」のところを読んで、読み手は一瞬立ち止まります。作者の心持ちが読み手にどくどく入ってきます。何気ない言い方ですが、この気持ち、とてもよくわかります。作り物ではないホンモノの感覚です。
 
「指に力をこめて父の名前を書いた」という行も、なんでもない単純な文章ですが、読むほうも力が入ってしまいます。そういえば生きていて、自分の名前はいやになるほど書いてきましたが、父親の名前を書く機会なんてめったにありません。めったにないのに、あれば必ず何らかの感情が伴っている時です。
「母がなくなったとき 焼き場の係員に促されて/炉のスイッチを押したことを思い出した/この指で」のところも、ここまではお父さんにまつわる話のみだったので、ここでお母さんのことが出てくることによって詩が厚みを増してきます。同じ指の行為なのに、これほどに遠い場所にあることの感慨や、二人の親を対比する心がくっきりと見えてきます。
 
自分の心理を見事に言葉に移しかえている詩です。詩に語られていないお父さんとの関係性や、その横で佇んでいたお母さんの様子まで、知らない人のことなのに、なぜか見えてきてしまう気持ちになるから不思議なものです。

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