見出し画像

アニメ版『僕の心のヤバイやつ』批評④ー恥ずかしいって、何?ー

1.はじめに 

 僕の書く記事なんか誰も読まないと思っていたら、意外と読んでくれる人がチラホラいることに驚いた。

 暇人が多いんだな、きっと。

 という感じに、照れ隠ししてみるけど、ホントありがたいと思ってるよ。見てくれる誰かがいるって、励みになるんだなぁ。

 でも、誰かが見てくれてるとか、誰かが評価してくれるとか、そういうのに振り回されちゃ、終わりだと思うんだよね。

 だって、いつも誰かが見てくれるとは限らないし、評価してくれるとは限らないからね。そうじゃなくなった時が怖い。

 なら、おらはおらでひとりいぐも。

 さて、今回も『僕の心のヤバイやつ』を批評していくよ。

 前回の振り返り。

 二つのパワポの再掲。

 まず、謝らせて欲しいのは、公認型とかいうのを、適当にでっち上げたことだ。言葉の割り振りと配置を間違えていた。それを、修正したい。

 心中型と公認型の配置を入れ替えた。対幻想と共同幻想の交差がマイナス価であるか、プラス価であるかを横軸にしていたが、これを、象徴界と想像界に書き換えた。

 以前まで、「引け目」に重きを置きながら考えていた。これは、浸蝕型と公認型と対応関係がある。

 相手と自分が釣り合っていない。そのことに引け目を感じる。それは、具体的な第三者がいなくても、感じることだろうね。

 そこに、具体的な第三者が来ると、それが、はっきり感じられたり、もはやその第三者に突きつけられたりするのね。

 これが、「引け目」の試練=危機だ。

 これで、二人の仲がぎくしゃくすることもあるだろう。片方が片方に引け目を感じて、誤解が誤解を生み、二人の関係がパーになると。

 でも、「引け目」を失くそうと努力するとか、「引け目」を生じさせる「格」をノックアウトするとか、対策はできるわけで。

 そういう努力が、二人の恋をより燃え上がらせたりするわけね。

 「引け目」を失くそうとするのが、公認型だ。そして、釣り合いがとれているという意味が獲得された時、公認される。

 浸蝕型は、この「引け目」を誘発し、釣り合いがとれているかどうかをチェックする機能がある。そして、二人を別れさせる圧力にもなる。

 「引け目」のノックアウトは心中型のなせる業で、これは、真反対の型だ。反発する関係にあるのは言わずもがな。

 第九話「僕は山田が嫌い」では、市川京太郎(以下、京太郎)が「引け目」から、すっぱいぶどうの論理に陥っていた。

 そして、京太郎は山田杏奈(以下、杏奈)を遠ざけた。

 だが、杏奈が「格」の世界をノックアウト。京太郎を対幻想に引き戻し、京太郎に間違いを気づかせ、二人はより愛を深める。

 さて、「恥ずかしい」は心中型と証人型の試練=危機のように思う。それだけではないと思うんだけど、それが、代表しているというか。

 改めて、交差型の意味を特定しておこうと思う。

 心中型は「格」をノックアウトし、対幻想の対幻想たる根源、二人だけの世界を作り出す。時に、死を以て、永遠の愛を成就する。

 証人型は、二人の対幻想の本気度を試す。これは、「格」は関係なく、どこまでも二人の関係を問題にする。

 今回は「恥ずかしい」問題を、ヒロインの杏奈を中心に考えて行きたい。

 注目する人物を替えて、視点や立場を替えてみるのは、批評にとって、不可欠なやり方だ。

 物語の多視点性や重層性を考えたければね。

 「引け目」に重きを置き過ぎたのは、僕が京太郎目線で考えていたからだ。京太郎から離れて、他の人に注目して、考えるのも大切。

 それを、教訓にした所、新たな発見があった。一対(一)と一対多の恋愛の形が見つかった。図の1×2の恋愛の組み合わせだ。

 僕は作者に謝りたい。僕の批評能力が低いせいで、見過ごしてしまっていたことを。作者はやっぱり神だったわけよ。

 マジ出会ってくれて、ありがとう。

 それは、関根萌子がナンパイ(南条ハルヤ)に寄せる想いに見ることができる。ここが、ポイントだったんだなぁと気づかされる。

 さて、これが終わる頃には、謎の項を一つ上塗りすることになる。僕の思索過程を残すために、ミスや間違いは保存しておくよ。

 今回の批評目標は、「恥ずかしい」の試練=危機を開設して、公認型と証人型を深堀することと、1×2の様相を少しでも明らかにすることだ。

 では、早速、行ってみよう。

2.恥ずかしいって、何?

 「恥ずかしい」か。初心で可愛い京太郎と杏奈のカップルを見ていると、この「恥ずかしい」が結構出てくる。

 いやぁ、年甲斐もなく、見てるこっちが「恥ずかしい」っていうか。

 どんな感情にも機能がある。効果的な機能があるから、進化的に発達し、受け継がれてきている。まず、恋愛の「恥ずかしい」の分類をしたい。

①好きな人の前で格好がついていない感じがして、恥ずかしい

②好きな人に好意が伝わりそうで、恥ずかしい

③相手から好意を向けられている気がして、恥ずかしい

④好きな人への好意や誰かとの関係を知られるのが、恥ずかしい

 恋愛の「引け目」の方の分類もしておこう。

①好きな人と比べて自分が劣っている気がして、気後れする

②相手に見下されている気がして、嫌だ

③自分といる相手の「格」が下がる気がして、気後れする

③好きな人との「格」の違いを指摘されて、嫌だ

 結構、適当に分類してるから、後で、修正入るかもだけど、一応。

 第六話「僕は溶かした」より。

 いつもの図書室。京太郎と杏奈は向かい合って、座っている。杏奈はいつも通りお菓子を食べている。京太郎は本を読んでいる。

 そんな時、図書室の本棚の影から司書の先生が現れる。図書室、というより、学校は基本、お菓子持ち込み禁止になっている。

 それを使って、今作は数回に渡って、これを、作劇上の装置として利用している。作者、恐るべし技巧。僕もあやかりたい。

 京太郎は杏奈を守るため、杏奈のお菓子の箱を本で隠し、お菓子を持っている杏奈の手を、自分の手で掴んで覆って、司書の先生から隠す。

 司書の先生が咳ばらいをしつつ、出て行く。

 その後、京太郎が手を放すと、杏奈は京太郎を睨み付けていた。そして、手の中でチョコが溶けたので、バッと手を隠す。

 この時の杏奈に働いているのは、①と③だろうか?

 京太郎が自分を守るために、手を伸ばし、ギュッと握ってきた。何?何?何?何?心臓に悪いんですけど?なんでこんなことしたの?(③)

 そして、手のチョコが体温で溶けてしまった。あ、チョコ溶けてる。手がチョコでべちゃついている所、見られなくない。(①)

 まずは、こんな感じ。

 第十二話「僕は僕を知って欲しい」より。

 京太郎の部屋にて。杏奈が京太郎から小学校の卒業アルバムを奪い、京太郎のベッドに座る。

 杏奈が卒業アルバムの写真に、見切れてはいるが、京太郎が映っているものを、京太郎に教える。

 その後、杏奈は写真に京太郎の姿を見つけ出そうと思って、見つけたわけじゃないと口にする。(②)

 同じく第十二話。

 神社にて。京太郎は家族と神社に初詣に行く。それを済ませた後、神社で杏奈と合流することにしていた。

 だが、杏奈が早く来ていて、ダブルブッキングした。

 そこで、杏奈はしゃんとしていた。好きな人の家族の前で、しっかりしようという意志が感じられる。

 これ、「恥ずかしい」とは直接関係ないけど、関係あるから、紹介しておいた。証人型と心中型を考える上で大事だからね。

 第八話「僕は夢を見た」も見てみよう。

 京太郎が面談後、京太郎ママと話しているシーン。うっかり口をついて、京太郎は杏奈が綺麗な子だと認める発言をする。

 すぐ後ろには、二人に話しかけようとしていた杏奈がいて、杏奈はそれを聴き、とても恥ずかしがりながら、帰る。(③)

 他のシーン。杏奈が二日連続で、お見舞いに来ていたシーンだ。京太郎ママから京太郎の様子を聴いて、ホッとする。

 それを、京太郎ママに見られて、恥ずかしがる。(④)

 チョコのシーンの③が自信ないけど、これくらいに…。自信ないなら、書くなって、思うだろう?でも、僕にはこれに覚えが…。うっ、頭が…。

 「恥ずかしい」の機能を考えてみたい。

 まず、好きな相手への期待がある。好きになって欲しい。私のことを良く思って欲しい。でも、好きになってもらえるかどうか、不安だ。

 「恥ずかしい」。この時、ブレーキを踏んでいる。今の自分ではだめかもしれない。好かれないかもしれない。だから、ブレーキ。

 アプローチしていく。でも、相手に気持ちが伝わるのは恥ずかしい。だって、受け入れてくれるかどうか分からないから。ここでも、ブレーキ。

 相手は自分のこと、好きてくれているかもしれない。いや、そうじゃないかもしれない。確信が持てない。だから、ブレーキ。

 あの人が好きなことがバレて、否定されたら、どうしよう。茶化されたり、冷やかされたら、どうしよう。恥ずかしい。ブレーキ、ブレーキ。

 あるいは、誰かとの関係を茶化された、冷やかされた。恥ずかしい。この場から、立ち去りたい、消えてしまいたい…。

 誰かを好きな気持ちは繊細な所がある。弱くて、儚い所がある。迷いのないそれを持っている人もいるが、そういう人ばかりではない。

 ちょっとしたことで、傷ついたり、嬉しくなったり、悲しくなる。コントロールが効きにくく、あるいは、恐ろしい。

 白日の下に曝してしまいたいけど、もう思い切って、飛び込みたいけど、それは、怖いし、ブレーキを何度も踏んで、緊急回避だって。

 「恥ずかしい」はいっぱい、いっぱいになった気持ちを、心に留める機能がある。防衛的な機能が強いのだと思う。

 好意がバレて、悲しい気持ちと絡まったりする。それは、しばしば悲惨な体験だ。だが、それだけではないことも確かだ。

 「恥ずかしい」は嬉しさと混じり合うこともある。

 というか、多くの人は、この「嬉し、恥ずかし」の恋が大好物だろう?僕だって、その一人だ。

 好きな人と良いことがあった時、この「嬉し、恥ずかし」状態になる。もうね、これ、中毒になってる人もいるんじゃないかな?

 「恥ずかしい」そのものは防衛的な機能が強いと思うけど、それが、心が飛ぶかのような嬉しさと絡むと、禁断の感覚をもたらしてくれる。

 さて、「恥ずかしい」の試練=危機は、結局、「マジなの?」ってことに尽きる。それを、周りの人に茶化されると、泣いちゃうよね。

 この「マジなの?」は、前回の話でも扱ったように、証人が出てくると、気持ちが固まったりするんだよね。証人型の第三者って、大事ね。

 でさ、杏奈が京太郎の家族、これは、証人型の第三者になるけどさ、杏奈はしゃんとしていたよね。感じがいいかどうかって、大事だから。

 これ、面白いよね。

 杏奈はさ、もうさ、結構、覚悟決めてきてるんだよね。第八話と第十二話の杏奈とでは、そこのレベルが違うっつーかよ。

 これ、何だと思う?

 これさ、対幻想の深まりを表してるんだよ。京太郎と杏奈の二人がさ、愛を確かなものにする中で、杏奈には一定の確信があるんだ。

 京太郎が自分に好意を持ってくれている。好きでいてくれているんじゃないかって。だから、杏奈は恥ずかしがるでもなく、しゃんとするんだ。

 やべーだろ、これ。僕、脳破壊されちゃうよ。しゃんとする、京太郎の相手として相応しいって。いやいや、もう胸いっぱいだよ、お兄さんは。

 社会的な「格」ではない、家族的な「格」。証人型はやっぱ、一緒になる覚悟が問われてるんだよねぇ。一緒なる覚悟!

3.終わりに

 ごめん。交差型の名づけの混濁に関しては、もう、僕の適当さ加減が問題だった。でも、名付け以外の分析の部分に修正はないから。

 それと、萌子の恋について、今回は書けなかった。意外と、「恥ずかしい」に、突き詰めがいのある問題が潜んでいたみたいだよ。

 恋愛の「恥ずかしい」の機能は主にブレーキ。自分の好きって気持ちを、好きな相手から、他の誰かから、守るために働くんだね。

 決壊して、涙があふれてくることもあるけど、良いことあると、禁断の感覚が味わえるっていう。「恥ずかしい」って、恐るべし。

 「恥ずかしい」は「引け目」とともに、パワポにしておくよ。交差型のパワと一緒にしておいた方がいいかな。あれと、重なる所あるしね。

 というか、そもそも交差型から「引け目」と「恥ずかしい」は考え出したわけで。そうだ、「引け目」についても、少し補足。

 「恥ずかしい」が特定の相手や誰かから、好きって気持ちを守るとしたら、「引け目」もそうと考えられるけど、リバーシブルの関係にある。

 「引け目」は共同幻想が対幻想に浸蝕する時の防衛機能で、特定の相手や誰かよりも、「格」が意識され、それが、問題にされている。

 だけど、「恥ずかしい」は対幻想が共同幻想に上がって行こうとする際の防衛機能で、特定の相手や誰かが「格」よりも意識されている。

 ちょっと思い切って、考えてみたい。交差型の左側は象徴界、男性的、交差型の右側は想像界、女性的。こうみなしてもよいのでは?

 だから、象徴界、想像界に書き換えておいたのさ。

 次回は、交差型のパワポを大幅にアップデートして、萌子の恋を解析していきたい。後、イマジナリー京太郎にも触れられたら触れたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?