哲学対話①なぜ人間は”美”を体験するのか。

今週の金曜日は初めての哲学対話を迎えた。今回のトピックは「人間」だった。哲学対話をする前に、私はこのトピックについて三つの質問と自分なりの回答を考えてみた。

① 私は人間が好きなのか、嫌いなのか。

私は人間が好きだ。愛憎関係といった方がより適切かもしれないが、やはり「愛」の方が大きい。なぜなら、人間の良い部分はもちろん、その憎らしい部分にも人間ならではの可愛らしさが潜んでいるからである。例えば、張愛玲の小説をもとにした映画『ラスト、コーション』では、本当の身分を隠して南京国民政府の幹部、イーさんに接し、情報を盗み取ろうとした愛国学生だった女主人公・王が描かれている。その計画の成功を目前にしたところ、王は革命より自分の恋心に従い、イーさんに「逃げろ」と促した末、自分と他の同志が逮捕され、息の根を止められた。王は人間の欲望の一種である「愛情」にとらわれ、自分の使命を自ら放棄したように見えるが、その人間としての弱点こそ、この悲しき物語の美しさである。たった一人の女が、「愛情」という炎に身を投じ、恐ろしい力を示すということは、ある意味で人間ならではの可愛らしさなのではなかろうか。

② 人間の一番の弱点は何だと思うか。

人間の一番の弱点は不満足にあると私は思う。不満足は人間自身が幸せを追求しようとする時に最も大きな妨げである。人間はいつも他人との比較を通して自らの位置を確認している。小学校の時、試験で99点を取ったとしても、100点を取った人さえいれば、ちっとも嬉しく思わない。ハーバード大学に入ったとしても、一つのゼミでBを取ったら、自分はクズだと思い込むようになる。しかしながら、その比較のマインドセットから一旦離れ、手に入れたものから振り返してみれば、もうここまで来たのだと驚くかもしれない。さらに、個人の域から社会の域へと目を移せば、不満足は人間社会に起こる騒動の根源であるとわかる。自分の国はもうこれだけの資源に恵まれているにもかかわらず、他の国の資源を奪い取り、そのために戦争を起こし、罪のない人の命を無残に刈り取る。加えて、消費主義に浸透されて久しい人間社会では、自然資源の過度な利用による災害は日増しに深刻になっている。そして、人工知能も人間の操縦により人間の欲望を満たすために動かされ、人間内部の競争で急速にレベルアップされている。そういう意味で、人工知能は人間を滅ぼすかという問いの先には、人間の不満足は人間自身を滅ぼすかということであろう。

③ 人間にとって、一番大切なものはどういうことか。

人間にとって、一番大切なものは、人間を愛する能力だと考える。それは、恋人に対する愛だけでなく、家族、親友、街ですれ違った見知らぬもの、そして自分自身を愛することであると強調したい。人間は愛が代表的だった感情をいらないものに帰結する傾向がある。なぜなら、感情というものは極めて不安定であり、いつか消えてしまう可能性があるからである。一方、名門大学で教育を受けること、名誉と地位、そして収入は客観的で、あるいは数字で明確に示されることであるゆえ、それらより頼もしいものはないと思うだろう。だが、一見すると堅実なように見えるものは、自分が思ったほど堅実ではないかもしれない。例えば、自分を愛することのできない人は、あまりにも懸命に働いた末、体調を崩してしまったら、いかに名門大学に入ったとしても中退せざるを得ないだろう。あるいは、名誉と地位のある大学教授になったとしても、他人に興味を持たないため、自分の喜びと悲しみを一緒に味わえる友人さえいないのなら、そのような人生は果たして過ごすに値するのだろうか。

そしていよいよ哲学対話の当日。皆で決められた議題は非常に興味深かった。それは、なぜ人間は「美」というものを体験するのかという質問だった。

議論は「美」の定義付けから始まった。アンダーソンさんは複数の「美」が存在することを強調した。具体的に言えば、瞬間的な美もあれば、時間を超える美もある。そこから、私は『方丈記』に書かれた「無常を争うさま」という句を思い出し、多分人間も無常を争うために「美」を体験するのではないかと思うようになった。そして、私は自分自身の体験、つまり悲しい物語から「美」をより強く感じられることを通して、「人間は美を体験することは、ある意味での自虐趣味に帰結できるのではないか」と語った。それに対し、カーチャさんは「感情を感じるための美の体験」とまとめてくれた。

哲学対話が終わって、この議題について深く考えることができた。最初は「美の体験」を視覚的刺激に絞り、「美」という概念の広い膨らみを忘れてしまった。そして、美の体験は自己満足のためであるという自分の仮説は、クラスメイトから、「美の体験は全て自分がコントロールのできるものというわけではない」と反論し、私も自分の仮説における理不尽なところに気付いた。結局、共通了解を得たとは言えないが、「哲学対話」という名の通り、世の中に40分ぐらいで解決できる哲学的な問いは到底多くない。自分で考える時に答えがはっきりと見えたような気がするのに、他人との議論を通じて、逆に結論付けられないことがむしろ普通であろう。にもかかわらず、「人間」と「美」の関係性についてより深く掘り下げることができ、とても有意義な時間を過ごした。


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