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大正時代後期,関東大震災・朝鮮人虐殺が記録された時代,旧大日本帝国下の国民精神の異様な状態

 ※-1 前 言

 a) 1923年9月1日,関東大震災が起きた直後,このような大きな天変地異が生じたさい惹起されがちである「国家社会全体の混乱を回避する」ために利用された「生け贄」が,当時すでに8万人ほど日本に居た朝鮮人であった。

 大地震が起きたさいありがちな「帝国臣民たちの不安や心配」が,国家側に対した「不満や非難」として転換させられることを,事前に恐れた支配体制側は,在日していた朝鮮人をその標的にすり替えさせる謀略をしかけることにし,臣民たちの注意をこちらにそらし,しかもその「不安や心配」のはけ口(犠牲)として悪用した。

 当時,朝鮮人を殺してきた帝国臣民たちの精神状態は,とてもよいことをしたと自覚させられる場合が主流であって,もちろん疑問を抱く人びといたとはいえ,こちらの存在は少数派でしかなかった。

 大地震が起きた直後,関東地方の南部地域は壊滅状態になってしまい,たいそう不安にかられた帝国臣民たちは,官製を源として発信された流言蜚梧を,全面的に信じこんだあげく朝鮮人を大量に虐殺する行為を,それこそ嬉々(鬼気?)とかつ平然と実行していた。

 b) 関東大震災が起きたころの日本は,大正後期になったころ,どんな時代になっていたのか。第1次世界大戦,体制批判をするマルクス主義社会科学の勃興・隆盛を恐怖した大日本帝国において「創られてきた天皇制」のなかで,関東大震災直後における朝鮮人虐殺という歴史の記録は,あらためて再考されてよい。

 補注)以上の記述について専門研究者の論稿を1点だけだが,紹介しておきたい。この論文は学究でなければ理解できない内容ではなく,誰にでも読めば分かるので,興味ある人はできれば題名をコピペして検索してもらいたい。

 ⇒ 西村直登「関東大震災下における朝鮮人の帰還」同志社大学『社会科学』第47巻第1号,2017年5月,http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015464

 補注)本稿の記述は,2009年9月1日初出,更新 2021年8月28日を経て,本日 2023年8月8日にさらに更新した。

 c) 関東大震災から86〔98→100〕年が経つが,いまだに異民族・他人種に対する偏見・差別を積極的・能動的になくそうとは,けっして,絶対にしようとはしない “ヘイト・フェイク好きの人びと” 〔のみならず,自民党政権の相当部分も〕が,在日特権などといった妄執にとらわれた幻想状態でもって,反韓・嫌中意識を丸出し(ムキだし)にした言動を,

 それもたいそう大きな顔をして闊歩できる日本社会,この哀れな「後進国体制」への逆走ぶりは,近年においてますます顕著になってきた。こうした「この国の全般的な衰退過程」は,まさしく裏返しのかたちとしてであったが,100年も前の事件のなかにも如実に反映される「負の物語」として提供されていた。

 ところで,多少脱線気味にもなりそうな余論をここで追加しておきたい。

 「人権は誰が守る? 日本は人権後進国? 今こそ知っておきたい『人権とは何なのか』【藤田早苗さん】『mi-mollet(ミモレ』2023.6.20,https://mi-mollet.com/articles/-/42941 という記述が,つぎのように「日本国における人権に関する意識状況」に触れていた。

 ウクライナ侵略戦争を推進する「ロシアのプーチン」とは仲がよいらしい鈴木宗男の氏名が出ている記述である。

 日本って,こんなに人権が守られていない国だったんだ……。

 『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』(集英社新書)を読んで筆者はそう感じました。「国際人権」の基準で,日本政府がどのように人権問題に取り組んでいるのか(というか,どれほど人権を蔑ろにしているか!),日本の現状を詳らかにする一冊です。

 先日,5月30日の参議院法務委員会で日本維新の会の鈴木宗男議員が「国益なくして,私は人権もないと思っております。人権だけ,優先してもですね」と発言した出来事をご存じでしょうか。

 筆者はこの発言,かなり衝撃的でした。人権はすべての人が尊厳をもち,人間らしく生きていくため,そして社会が存続していくためにもっとも重要なものであるはずですが,政治家がその人権を正しく理解していないことに愕然としました。

『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』2022年の感想

 1世紀という時間が経過していても,国会議員である人間がこの程度の人権感覚である。宗男は自分が国会議員として特権の持主であるからか,この程度の発言はなんとはなしにでも,ごく軽い気持ちで口に出せるらしい。

 だが,20世紀の前半ではない21世紀の現在に生きているわれわれにとって,鈴木のような議員は,人権感覚ゼロとしか映らない。民主主義の基本理念など平気で踏みにじる発言を,その自覚もなしに放てる人間だという受けとめしかできない。

 鈴木は日本もロシアという専制国家体制みたく「国益が最優先されて当然だ」という「政治の立場」を,正直に告白していた。ということであれば,ここで,戦前の1940〔昭和15〕10月に刊行されていた勝田貞次『日本全体主義の性格』実業之日本社が,こう主張していた点を引用しておく。

 従来は,国家が従で,国民が主であった。全体主義国家の場合には,国家が主であって,国民は従とならねばならぬ。寧ろ,国民は国家の一部分であり,一内容に過ぎない(18頁)。

勝田貞次『日本全体主義の性格』1940年の引用

 こうした政治イデオロギーは,戦時体制期における帝国日本においては当然も当然であった正式な時代観であったが,これとまったく同一の考えを鈴木宗男(現在は日本維新の会に所属)は,いまの時代において堂々と開陳していた。

 e) 1940年の10月から5年も経ったころ大日本帝国は,大東亜・太平洋戦争に完敗した。日本の国家全体主義(ファシズム国家体制)も衰滅した。鈴木宗男は1948年1月31日の生まれであり,2023年(今年)に75歳になっていた人間である。

 ところが,鈴木宗男は「戦争をしらない・戦後生まれの団塊の世代」の1人であったとはいえ,歴史の基礎に関したそのあまりにも素養のなさは,国会議員という以前の不見識を意味した。とりわけ,ファシズムを肯定したその国家観は,日本の政治が3流どころか4流であった事実を,彼なりに如実に物語っていた。

 昔よくあった話だが,自国を批判する同国人に向かい「日本から出ていけ!」などと,無理無体を強要する反撥の声を放つ無識者が少なからずいた。その言動に即して敷衍させていえば「プーチンの国に移住しろ!」とやじられても,宗男は返すことばがないはずである。ただし宗男が,あちらで国会議員になれるかどうか保証のかぎりではない。

 f) 以上,本日(2023年8月8日)なりに事前にあれこれ議論してみたが,この記述全体の意図は,つぎの要点3つに即して説明される。

  要点・1 大正時代後期はどんな時代であったか

  要点・2 ロシア革命(1917:大正6年)を契機にその後,日本でも急速に普及してきた「体制批判をするマルクスの社会科学・政治経済学」は,明治維新を契機に形成されてきた天皇制国家体制をひどく怖がらせた

  要点・3 そして1919〔大正8〕年3月1日,1910年から旧大日本帝国の植民地であった朝鮮で「三・一運動」(さんいちうんどう)と呼ばれる独立運動が起こされた。

 だが,この事件を「万歳騒擾」事件と呼称した日本側は,自国の「加害意識」を反転させるかっこうで,それを植民地から発生して自国への「被害者意識」にすりかえる「帝国意識」を構想するほかなかった

この記述の意図・要点3つ

 関東大震災直後に発生した虐殺事件は,朝鮮人にくわえて中国人,さらには「日本人の社会主義者たち」も道連れにしていた。

 関東大震災という天変地異が発生し,この直後に大きな混乱・動揺が生じていた状況のなかで,天皇・天皇制を戴く「半封建的・前近代的な国家体制」は,まさしく〈国家の立場〉から陰険かつ故意に臣民たちを煽動し,朝鮮人たちを大量虐殺するという犯罪行為を起こさせた。

 g) 敗戦後,正力松太郎という読売新聞社主が登場していた。この正力がまだ国家官僚だった時期,この関東大震災直後に発生した「朝鮮人虐殺事件に特定の関与をしていた」点は,当人がのちに反省の弁を披露したところからも確認できる。

 大正時代の正力松太郎は,警視庁官房主事として1923〔大正12〕年6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や,特別高等警察などにもかかわっていた。さらに同年9月に発生した関東大震災のさい,社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。

 しかもそのさい,「朝鮮人の暴動説」を新聞記者を通じて流布させ,関東大震災朝鮮人虐殺事件の一因を作った。直後,警務部長となるが,摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ,懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの,官界への復帰は志さなかった。

 補注)この「摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)」とは,1923〔大正12〕年12月27日,第 48帝国通常議会の開院式へ向う摂政宮裕仁親王の車を,虎ノ門外において難波大助に狙撃された事件を指す。

 関東大震災が発生した時,「朝鮮人が暴動を起こしている」というデマを新聞に流したのはほかでもない “警察官僚だった正力松太郎であった” のである。

 当の正力自身が「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」と述懐している。

 朝鮮人虐殺がなかったなどとムキになって反論する者たちがまだ大勢いるが,まるっきり荒唐無稽であり,浅薄な歴史の理解をしていながら,それでいてたいそう汚濁した歴史観しかもちあわせいなかったというほかない。

 補注)ここでは正力松太郎の敗戦後における経歴から,つぎの点のみ挙げておく。

 ♠-1 1952〔昭和27〕年10月「日本テレビ放送網を設立。初代社長に就任(1955年まで務める)」

 ♠-2 1958〔昭和33〕年6月「読売新聞の社主に復帰」し,同年8月「讀賣テレビ放送会長に就任」

 ♠-3  ちなみにだが,1964〔昭和39〕年 11月「勲一等旭日大綬章を受章(没後,勲一等旭日桐花大綬章追贈」

正力松太郎,敗戦後に目立った経歴

 本日〔ここでは2021年8月28日のことで,この期日は原文が一度更新された時点〕でのこの記述は,正力松太郎の存在(関与)をさきに論点として補足しておく構成をもって,初めは2009年9月1日に公表された「旧々・ブログ」の原文を補強して復活させ,再公表するかたちとなっていた。
 

 ※-2 関東大震災直後の朝鮮人などが虐殺された事件と正力松太郎の関係

 「『関東大震災の報道検証 その2:報道例-『読売新聞・歴史検証』〔木村愛二,汐文社,1996〕より抜粋,(第8章「関東大震災に便乗した治安対策」)の

木村愛二著・表紙カバー

 「その2:東京の新聞の『朝鮮人暴動説』報道例の意外な発見-」『憎まれ愚痴』1998.5.23,2003.6,2006.7.3,2017.4.28,http://www.jca.apc.org/~altmedka/sinsai-2.html と,および,この「その2」「以下」につづく各項目のなかからさらに適宜,関連する段落を,次段に引用してみる。

 ここで,その「以下」の記述とは,「その3:『米騒動』と『3・1朝鮮独立運動』の影に怯える当局者」(こちらの文句は項目の見出しのみ紹介)が演じていた,つぎのごとき記述のなかに描かれた行動の記録であった。

 a)「その4:留学生で中華民国僑日共済会の会長,王 希天の虐殺事件」から

 さらに重大な問題は,すでに何度か記した在日中国人の指導者,王 希天の虐殺事件であった。ここで「さらに重大な問題」と記した意味には,虐殺そのものとは別の側面も含まれている。この事件は,読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。つまり,…… 読売の歴史に,深い影を落としているのだ。

 元警視庁警務部長〔正力松太郎〕が,こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は,一種の政治犯罪を予測させる。だが,およそ重大な犯罪の背景には,間接的または一般的な状況だけではなくて,直接的な契機,または引くに引けない特殊な動機があるものである。

 とくに,いちおうは正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには,それだけ強力で衝動的な動機が必要である。この事件の真相をしることによって初めて,長年の,もどかしい想いの疑問の核心部分に達したことが感じられる。

 読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが,正力の読売「乗りこみ」という,これまた稀有な事態の直接的な動機だと,確信するに至ったのである。 

 補注)前段で触れたように,この正力松太郎が後年,読売新聞社の社主となる。読売新聞社の『この種の誇らしい伝統』はある意味で,安倍晋三の第2次政権時から菅 義偉の現政権時(以降)においてまで,もっとも輝かしく再現されてきたといっても過言(皮肉)にはならない。

 b)「その5:924件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視」から

 「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は,〔1923年〕9月2日に出された戒厳令によって報道が差し止められ,東朝[東京朝日]は10月2日になってその1部の報道が許された」。

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が,報道差し止めとの関係で登場する。しかし,「中国人」も「王 希天」もない。この状況は,いかにも不自然であり,不都合なのである。国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が,いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 c)「その6:後藤内相が呼びかけた『5大臣会議』で隠蔽工作を決定」から。

 「これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は,いったい誰だったのであろうか」?

 当時の正力松太郎はまだ警視庁警務部長であって,この c) の指摘・疑問に直接関与しうる人物ではありえなかった。しかし,関東大震災直後の朝鮮人や中国人,社会主義者たちを惨殺する,実質的には直接の手先として暗躍(発言・指示)していた事実は,結果的な軌跡であったにせよ永久に忘れられない「史実」になっていた。

 さて,21世紀に入ってからの話題となれば,2006年に「在日特権を許さない市民の会」(略称,在特会)が盛んに活動を展開していた。

警察に守られているように映るデモ隊(ヘイト側の行進)

 この会がヘイトデモのなかでかかげたプラカードには「良い韓国人も悪い韓国人も殺せ」と書いたものまであった。この問答無用式になる隣国への「無条件の偏見・差別」の感情発露は,実は1世紀(以上)も前からすでにその根っこを生やしていた。

最近はこのようなプラカードをかかげたら
まずい立場になるし
裁判でも敗訴は確実

 昨今における「反韓・嫌中ブーム」は,かつて植民地や支配地となっていた国々とその人びとを相手にしているだけに,時代や世代を超えて,この国の「一部の民の〈民度の低さ〉」を,恥じらいとは無縁に内外に向けて思いっきり発信する材料になっていた。

海外で逆に日本人がこういう状況に出会ったら
どう感じるか?

 在日外国人でもとくに戦前から曾祖父の世代からこの国で生まれ育ってきた韓国・朝鮮系や中国・台湾系の人びとが,上の画像のようなプラカードを観たさいには「自分の生命の危機を感じる」だけでなく,その曾祖父が生きた遠い昔の時代にまで,否応なしにタイムスリップ的に引き戻される思いをさせられる。

 上で画像に関連してある文章が,こういう段落を記述していた。聞いているだけで反吐が出そうになる,実にくだらない「奴らの発言」であった。

 デモ隊がやってきた。そのなかでコールしていた男性が「自分は大阪から来たが,大阪の鶴橋にもコリアタウンがある。夜になったらレイプが多発する」と叫んでいた。私は小さいころからずっとその街をしっているが,そんな話は初耳だ。そういうデマを振りまくために大阪から来たのか,それとも恥を重ねに来たのだろうか。

 ツイッターでその後,話題になっていたプラカードや横断幕の「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「害虫駆除」などは,撮影した写真にはっきりと写っている。私はデモ隊と反対側にいたにもかかわらず,だ。それをもった人びとはカメラをもつ私に向かってそれをかかげた。

 マスクの人はさておき,多くの人はカメラに笑顔を向け得意そうに笑った。その笑顔を見て,背筋が凍るような気持ちになった。

 註記)以上は「差別はネットの娯楽なのか(10)-不逞鮮人追放! 韓流撲滅 デモ in 新大久保『良い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ』」『ガゼット通信』2013/02/11 03:30,https://getnews.jp/archives/289322 から

 【断わり】 つぎの ※-3からが2009年9月1日に書いた記述の復活・再公開となる。ただし,補注)として追加した文章は,「本日:2021年8月28日」の批評部分である。また,その部分以外にも本日,補強した文節がないわけではない(⇒そして,さらなる本日:2023年8月8日の補訂もなされているということである)。
 

 ※-3 地震対策-内閣府提供:防災用ソフト-

 今日の asahi.com (『朝日新聞』電子版)をのぞくと「震度6強! あなたならどうする? ネットで学ぶ地震対策」(2009年9月1日6時35分,http://www.asahi.com/national/update/0829/TKY200908290088.html )という記事がみつかった。

 日本列島各地において近い未来に発生が必至と予測されている大地震対策,これに備えるために必要なふだんの心構えを,こういうゲーム感覚で付けてもらおうと勧めている。

 この記事からは,途中を若干省略したかたちで,以下に引用してみる。

 補注)この記述はもちろん,2011年3月11日午後2時46分以前になされていた。実際に,この東日本大震災が起きていた。おまけに,東電福島第1原発事故まで同時に誘発・発生させてしまった。

 この事故を起こした原発複数基の後始末は,10年半〔今日であれば12年と5ヵ月もの歳月が経過した時点になっても,今後に向けてどのように片付けられるのかについてさえ,実際問題としてはまったく暗中模索の状態に留めおかれている。

補注の記述

 台所にいて震度6強の揺れがあったらどうしたらいい? 家具の固定によってあなたの街の死者は何人減らせる。内閣府はインターネット上で地震への備えをクイズ形式で学べる「震度6 強体験シミュレーション」を作り,公開している。

 補注)東日本大震災の時はすでに新しく用意・定義されていた「震度7」を観測した。なにせマグニチュードが 9.0 という超巨大地震になっていた。

 「台所にいて揺れを感じたら取るべき行動は?」の問いに,「コンロの火を消す」「ガス台から離れる」などの選択肢から答えを選ぶ。間違った答えを選ぶと,「生き残りレベル」が下がり,減点が続くとゲームオーバーだ。

 「揺れの前に地震発生をしらせる緊急地震速報が流れたらどうしたらいいか」「家具が散乱した室内ではどうしたらいいか」など,避難所に向かうまでの正しい行動を確かめられる。http://bosai.marvista.jp/ で公開されている。

 補注)上記の住所(アドレス)はクリックしても「サーバーからの応答が一定時間以内に返ってきませんでした」という応答で,削除されていると思われる。

 一方,市町村ごとの地震被害が想定できるコンピューターソフトも作った。建物の耐震化や,家具が固定化されている比率などの数値を入力すると,死傷者数や建物全壊棟数などの被害状況が推計される。家具の固定化率が30%から60%に上がれば,死傷者が何人減るかが分かる。

 支援ソフトの利用を希望する場合は,内閣府の防災担当(03・3501・5693)へ。
  

 ※-4 関東大震災の記憶

 1) 神戸・淡路大震災(1995年1月17日)

 日本政府や各地方自治体は,いつ発生するか分からないが間違いなく襲来するはずの大地震に備えて,以前より相当力を入れて具体的な対策を講じてきている。今夏も関東に近い東海地方では,震源地の関係で大きな被害はなかったものの,マグニチュード6~7前後の地震が何度か起きている。

 2011年3月11日の話になる。その日,交通機関が停止状態になっていたために,勤務していたJR新宿駅近くの事務所から,とりあえず息子の下宿がある場所まで9㎞ほど歩くハメになった。その時,1時間45分ほど歩きつづけたことを記憶している。年齢にしては,かなり早足でがんばって歩いたと思う。

 さて,こういう地震の話題をとりあげると,さらにわれわれが必らず思いだすのは,1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒に発生した「関東大震災」の記憶である。

 この関東大震災は,神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度,東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード 7.9,海溝型の大地震(関東地震)による災害であった。千葉県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし,日本災害史上最大の被害を与えた。

 東日本大震災は東北地方太平洋側沿岸沖の深い震源地に発生していたが,マグニチュード 9.0 という規模からして,とうてい比較にならない大規模な被害をもたらした。大津波の被害はとくに何百年あとになっても,大なり小なり語り継がれていくものと考える。

 先日も相当深い場所を震源地とするマグニチュード7前後の地震が発生していたが,震源地が遠いためとくに大きな被害はなかった。しかし,このクラスの地震が関東大震災のような位置(都市部)に発生すると,甚大な被害が発生する。

 東日本大震災の震源地も同じに「相当深い場所を震源地としていたが」,「マグニチュード 9.0 」という激烈な地震であった。比較するにしても想像力をたくましくするか,具体的に説明されている諸条件を読むかしないと,なかなかその違いが理解しにくい。

 まだ記憶に新しいが,1995年1月17日に発生した神戸・淡路大震災(マグニチュード 7.3 )のときは,数日後の大阪市内では,なにごともなかったかのように,人びとがふだんどおり生活していた。神戸などでは6千4百名以上もの死亡者が出ていたにもかかわらず,近辺の市町村ではとくべつ大きな被害がなかったため,そのように他人事であったかのように事後の生活を過ごす人びとが多かった。

 本ブログ筆者の知人の場合,神戸市に住んでいたある大学教員は家の居間に吊してあったシャンデリアが落ちたのをはじめ,家中が目茶苦茶の状態になったと聞いた。また,朝〔午前5時46分52秒〕に起きたその地震で,まだ就寝中だったある大学の先生は,一緒に驚いて飛び起きた奥さんとベッドの上で抱き合ったまま恐ろしくて,まったく体が動かなかったという。

 また,ある大学の図書館は大阪府に位置していたので,建物の外壁タイルがあとで修繕を要する程度の被害を受けたと聞く。やはり,大阪府内にある大学の先生の研究室ではすべての本が投げ出されてしまい,これを整理して棚に戻すには,ゼミの学生たちの助力に頼ったといっていた。

 前段に述べた被害は物的なものであるが,主に震源地であった淡路島や神戸市内では,その地震により6千4百名もの死者を出していた。しかも,自衛隊の災害出動「初動」が上部組織の命令がすぐ下されなかったために遅れたとか,市内各所で猛威を振るった火災に対して消防隊の消化活動が思うようにできなかったとかという話もある。

 さらに,地震発生後ただちに救援活動に動きだしたのは,なぜか〇〇組の組員たちであったという。それも30分後だったというから,この組織は地震の発生を〈予知〉していたのではないかという,非常に興味ある(?)指摘がなされていた。またコンビニのローソンは,営業可能の状態にある各店に対していち早く,無理をしてでも災害向けに開店しておくよう指示を出していた。

 当時,首相であった村山富市は官邸で朝食を摂ってこの地震をみていたけれども,直後に対策をとるのが遅れ,評判をいちじるしく落とした。平成天皇夫婦は事後,現地に出むき,跪いて被災者の話を聞き,こちらは評判を大いに上げた。

 明仁夫妻は皇室の地位向上のために,地震発生後に対する天皇家の行動を適切におこなった。これは皮肉ではなく,彼らの皇室生き残り戦略の所在から読みとれる心情を推察しての分析である。

 2) 関東大震災

 関東大震災が起きた1923年:大正12年という時期に注目しておく余地がある。1925(大正14)年に,普通選挙法とほぼ同時に,いいかえれば抱き合わせで制定された治安維持法がある。大正時代に関しては〈大正デモクラシー〉ということばがある。

 治安維持法の眼目は「国体(天皇制)変革」と「私有財産制度(資本主義制度)の否認」を厳重にとりしまること,すなわち明治維新以降すすめてきた日本帝国主義の基本枠組を,なにがなんでも堅持するところにあった。

 1917(大正8)年に成立していたソビエト連邦〔正式名:ソビエト社会主義共和国連邦〕と正式に国交を樹立した日本帝国は,社会主義〔共産主義〕思想の影響を極端に恐怖しており,民主主義の時代的潮流そのものに対してこれもなるべく押しとどめようと企図した。

 当時,たとえば東京大学経済学部の経済学者たちの過半は,マルクス主義を信奉するとしないとにかかわらず,日本の資本主義体制を本質的に理解・認識し,その問題点を的確に分析・批判するためとなれば,そのもっとも有効で強力な学問方法が「マルクスの経済学である」と認知する立場になっていた。

 関東大震災が発生し,関東地方,それも東京都と神奈川県地域などを中心に壊滅的な被害を受けた。政府がかくべつ心配したのは,この自然災害をきっかけに,一般臣民のあいだに社会不安が生まれ,さらには政治的な騒擾が生じないか,そしてこれが国家に向けられはしまいかという疑念であった。 

 そこで,治安当局〔当時内務省の管轄であった警察組織や,軍隊〕は,朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れた」とか「暴動を起こして攻めてくる」とかの流言蜚語を意図的に垂れ流す方法を採ることで,その社会不安の捌け口を,当時すでに植民地にされていた「朝鮮〔および台湾〕の出身者たちの存在」に向けるという,思えば,為政者側がずるがしこく「責任回避のための社会不安情勢」を,別途に捏造したのである。

 補注)最初のほうでこの記述関係で触れていたのは,当時警視庁警務部長を勤めていた正力松太郎自身が,こう告白していた事実である。

 「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 この文句をそのとおりに聞くとしたら,なにかほかに「成功を期待できる虚報」でもあったのかなどと,皮肉たっぷりに問いただしくなる。
 

 ※-5 関東大震災関連の文献・史料から

 1) 朝鮮人・中国人虐殺の事実

 関東大震災に関する文献・資料は数多く与えられている。そのなかでも,本ブログの筆者の手元にある本だが,松尾章一『関東大震災と戒厳令』吉川弘文館,2003年がある。本書の解説〔詳細〕には,こういう意図と構成になっていた。

 大震災直後の戒厳令下,6000名以上の朝鮮人や700名以上の中国人らが殺害された。軍隊と警察は,流言蜚語(デマ)に惑わされた民間人の自警団による虐殺を抑制する側だったのか? デマの出所等から,隠された真実を暴く。

 ☆ 戒厳令下の軍隊(戒厳司令部設置前の状況,戒厳司令部設置後の状況)

 ☆ 軍隊と朝鮮人・中国人虐殺(虐殺数の解明をめぐって,陸軍の対応,海軍の対応,軍人による虐殺の実態)

 ☆ 「三大テロ事件」と流言蜚語(「三大テロ事件」と歴史的背景,流言蜚語をめぐって)

 ☆ 自警団と地域社会(自警団の実態,虐殺が起きなかった地域-南多摩郡日野町・七生村)

松尾章一『関東大震災と戒厳令』の構成

 この関東大震災に関する研究内容は,この解説をみただけでも理解できるように,当時の日本帝国はこの災害発生をもっぱら治安問題としてとらえ,これをとりしまる態度で対処していた。

 それだけでない。

 大混乱時において国家の治安を維持する手段・材料として,朝鮮人・中国人を一般臣民に殺させ,その不安な心をまぎらわせていた。いいかえれば,その犠牲者を踏み台にして,災害時における国家体制の不安定や困難を乗りきろうとする無理無体=残虐行為を,平然とおこなったのである。

 なぜか?

 当時は大正デモクラシーの時代であった。大地震をきっかけに,一般臣民〔庶民〕の不満や不安が,万が一でも〔きっと「万に一」以上の高い確率であったはずであるが〕,国家や政府や皇室に向けられたらまずい。そのためにも,植民地にしていた朝鮮や台湾から日本に移住して暮らしていた人びとにその捌け口を求め,向けさせることにし。そしてこの企図はうまく運んだのであった。

 国民の不満をそらせるために意図的に被害・混乱を朝鮮人のせいにしようとした,というよりは,むしろ,大日本帝国の権力者が危機にさいして,当時一番手強い敵だった朝鮮人のことを最初に問題にしたのは必然であった。

 もちろん,朝鮮人の命を救ったり保護した日本人がいたことも,事実である。しかし,人びとはそんな「うわさ」「デマ」を笑い飛ばすこともできたのに,実際には全体としてはそれを受け入れたのでした。

註記)http://www.wombat.zaq.ne.jp/zenchokyo/shinsai.html この住所は現在は削除。

 一般庶民の生活感覚=危機意識に向けてただちに強調〔喧伝〕されたのは,地震後の混乱に紛れて「朝鮮人らが井戸に毒を撒き,暴動を起こし攻めてくる」というデマであった。しかし,このデマが当然のことのように受けとめられ,その結果が「6000名以上の朝鮮人や700名以上の中国人らが殺害」となった。

 『独立新聞』の金 承学による調査結果にもとづく朝鮮人の犠牲者数は,多い順に神奈川県:4106名,東京府:1347名,埼玉県:588名,千葉県:324名,群馬県:37名,栃木県:8名,茨城県:5名の,総計 6415名である。

 つぎにかかげる写真は,萱原白洞『東都大震災過眼録(1924)』を写したものである。人びとの前には虐殺された朝鮮人たちが転がっている。また,萱原の別の絵には「後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている」ものもあった。

「殺れ,殺れ!」という雰囲気すら伝わってくる
絵柄になっていないか?

 なんの偶然があったのか分からぬが,萱原の「この絵巻は,阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市内の家屋から発見された」と説明されていた。ともかく,それらの絵巻の写真には,「虐殺された朝鮮人の死体」が多く横たわっている。

 さて,関東大震災の直後,およそ7千名近くもの被植民地出身者である外国人在住者を殺したのは,あくまで一般庶民であった。殺人罪が大量に犯されたのであった。ところが,事後においてごく一部にだけおこなわれたその関係者の裁判は,茶番劇に終始した。

 その裁判では朝鮮人たちを殺した一般庶民が「殺人の場面」を証言するとき,「こうやって突き刺して殺したとか」いったさい,法廷では「笑いすらどっと巻き起こった」というのだから,その差別意識の底しれぬ深さ,人権感覚の麻痺さ加減に関しては,あらためて思いをいたす必要がある。

 松尾章一『関東大震災と戒厳令』の末尾には「主要参考文献と史料探索ガイド」が記述されているので,さらにくわしくしりたい向きには,こちらの参照を乞うておきたい。

 2) 慰霊行事の紹介など

 本ブログの筆者がしりえた関連行事のひとつとして,つまり,本日〔9月1日〕(ここでは2009年時点の話となるが)に執りおこなわれ〔てい〕たそれとして,たとえば「関東大震災同胞犠牲者慰霊祭」が,在日韓国・朝鮮人の組織〔埼玉県の在日本大韓民国民団と在日本朝鮮人総聯合会のそれぞれ支部〕の共催で実施されていた。

 2023年の今年はちょうど100年目となる大きな節目を迎えることから,いままでとは違い,規模を大きくして関連の慰霊のための行事が実施されるかもしれない。

 「関東大震災」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)にも,こう記述されている。

 関東大震災時,自警団による朝鮮人虐殺は北埼玉域で顕著にみられ,一地域に限定されたものではないが,とくに多くの朝鮮人が犠牲となったのが〔埼玉県〕本庄であり, 80人近くの死者が出たとされる(警察署の天井裏などに隠れて1人生き残ったという伝えもある)。

 震災時とはいえ,過剰な防衛意識が引き起こした惨劇といえる。現在でも本庄では犠牲者を追悼して当日に1分間の黙とうを奉げ,追悼碑も建てられている(また,悲惨な殺害現場の写真は現在でも残され,いまに伝えられている)。

関東大震災直後に埼玉県北部で発生した朝鮮人虐殺

 前段の「関東大震災同胞犠牲者慰霊祭」に参加する人たちが,まず最初に訪れ慰霊する場所が,埼玉県本庄市にある長峰墓地である。以前,この墓地の墓石が倒されたりする嫌がらせも起きていたが,この〈負の遺産〉を日本人庶民がみたくないのだとしたら,これは哀れな心情の発露であるというほかない。

 『ウィキペディア』はさらに,こう記述している。

 本庄署に着いたトラックをとりかこむように地元の住民たちによって結成された自警団が集まり,その後,一斉にトラックの上の朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。警察も人員不足から十分に阻止することができず,この事件で五十から百人程度の朝鮮人が殺されたとされている。また,このリンチにくわわったものの多くは執行猶予付の騒擾罪を受けたとされている。

同上・続き

 すなわち,この歴史的な殺人事件の犯人たちが「執行猶予」で実質許されたと説明している。いうなれば,「殺してかまわない」と事前に示唆されたような「国許の殺戮行為」があったのである。とはいっても,当時,実際に手を下して朝鮮人や中国人を殺した日本の一般庶民の心情としては,その後における夢見によかったはずがない

 なお,関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編『関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』日朝協会埼玉県連合会,1987年という文献があるので,これを埼玉県立図書館に関して検索したところ,複本で3冊を所蔵している。

 この本以外にも,関東各府県において虐殺された朝鮮人の実態に関する調査・研究をおこなった関連文献もあるが,ここではあえて紹介しない。
 
 さきの「関東大震災同胞犠牲者慰霊祭」の行事おいては毎年9月1日,本庄市の長峰墓地を訪れるだけでなく,やはり埼玉県の上里町安盛寺にある関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑,熊谷市熊谷寺の大原墓地も訪れる予定になっているという。

 上述に解説されているような虐殺事件の現場となった町や市がさらにいくつか実在しており,そこにもそれぞれ慰霊碑がある。

 なお,本庄市の長峰墓地は,地元の人が「昔は女郎さんの墓地でした。ススキの生えた淋しい所でした。最近はきれいになりました」と説明する場所であった(関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』日朝協会埼玉県連合会,1987年,423頁)。

朝鮮人犠牲者追悼の碑
関東大震災犠牲同胞慰霊碑
小さい画像で入れるとこの碑の文字が
読みとりにくいので大きい画像でかかげた

 以上のうち写真(上)は,東京・両国の横網町公園の慰霊堂脇にある「朝鮮人犠牲者追悼の碑」である。写真(下)は「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」(在日本朝鮮人聯盟千葉県本部,1947年3月1日日建立,千葉県船橋市馬込町馬込霊園内)である。

 補注)最近作,辻野弥生『福田徳三村事件-関東大震災・知られざる悲劇-』五月書房,2023年6月は,千葉県内で発生していた朝鮮人逆殺の事例を掘り起こし一覧にしている(105-109頁)。これらの事例はいままでほとんど埋もれていたものである。

 さらに「関東大震災韓国人慰霊碑」(在日本大韓民国居留民団神奈川県地方本部,1971年9月建立,神奈川県横浜市南区堀の内町宝生寺内)もある。

 関東大震災発生の直後,比較的冷静に事態を観察していたマスコミが存在しなかったわけではない。『山梨日日新聞』大正12〔1923〕年9月4日「流言に惑ふなかれ」は,つぎのように報道していた。山梨県には当時,朝鮮人の居住者が少ないこととも関係した新聞報道ではないかと推測される。

 交通,通信機関の全部途絶したので,多府県との連絡は全く断たれた。之れが為めに京浜方面の情報は精確なるものを得難。本紙が ? に報道せるものは多大の犠牲を払った結果に成るものであるから,眞を置くに足る。

 此際流言蜚語が盛に行はれるので,出所不明なるものに対しては決して惑はされざる様に注意するがかん要である。

 註記)http://ameblo.jp/nob1966/entry-10046491302.html の画像資料から引用・記述。ただし,現在(2023年8月8日)時点では,その画像資料は閲覧できない状態にある。もっとも,上記のアドレスの記述内容は朝鮮人差別に満ちた文章を,自沈しそうなくらいに満載。

山梨県の様子

 神戸・淡路大震災のとき懸念されたのが,かつて起きたような在日外国人たちに対する迫害であった。しかし,1995年という時期であったせいか,日本人も外国人もともに助け合っていく姿が出現しただけでなく,この不幸な自然災害を契機に在日外国人と日本人の相互理解が深まることにもなったという。時代の経過が彼我の相互関係において顕著な変化をもたらしていたといえる。

 補注)しかし,21世紀にはいってからの日本社会は,在特会の出現・活動に象徴されるように,いままでタップリと反動的な方向に走ってきた。

 3) 反体制思想者の虐殺

 とくに関東大震災の混乱に乗じては,陸軍や憲兵隊がさらに,社会主義や自由主義の指導者を一掃しようとする動きがあった。

 実際,大杉 栄・伊藤野枝,大杉の6歳の甥橘 宗一らが殺された「甘粕事件(大杉事件)」や,労働運動の指導者であった平澤計七など13人が亀戸警察署で軍に銃殺され,平澤が首を切り落とされた「亀戸事件」,そして,在日中国人指導者の「王 希天などの殺害事件」が起きたのである。 

 4) 2021年8月28日補足の記述-なぜ,関東大震災直後に朝鮮人などの虐殺が発生したか,その歴史的な原因と背景-

 日本では朝鮮とのかかわりについておおむね過小評価ないし本質が誤解されることが多かった。「朝鮮独立戦争」をめぐる言説編成の当然の結果ともいえる。

 「武装独立闘争はすぐに挫折した」「日本人が朝鮮人を恐ろしいと感じるようになったのは3・1〔独立〕運動が突如勃発したようにみえたからだ」というのが,現代最良の日本の朝鮮学者の見解であった。

 さらに「金 日成の国家は… 捏造された「事実」(=神話)のなかから誕生した」というのが,日本での(在日朝鮮人の一部でさえ)常識になる。

 こうして従来は,取るに足りぬものとされて考慮されることも少なかった1920~1923年の朝鮮独立戦争を正確に復元し,客観的に1923年9月の日本帝国陸軍参謀本部の動向に注意すれば,

 従来「朝鮮の民族解放運動の高揚に対する官憲の恐怖感が,大震災に直面して朝鮮人暴動の幻想を生み出したのであろう」と想定されてきたものが,実際には単なる「恐怖感」や「幻想」どころではなく,もっとリアルな軍事的脅威であったことが理解される。

 こうした1920~1923年の日本帝国が直面した危機--帝国陸軍は朝鮮独立軍と必死に戦い,また対峙しており,1924年1月には戦争の先端は遂に東京皇居前に迫った(義烈団 金 祉燮による二重橋爆弾事件)--の真相は,軍事機密として秘され,1925年以降は表面上忘れられ,一つ一つの事件は矮小な「不逞鮮人」のテロ行為として記憶されてきたのである。

 註記)印藤和寛「関東大震災時の朝鮮人虐殺はなぜ起こったか-朝鮮独立戦争と日本帝国-」『教育科学セミナリー』第44巻,2013年3月,24頁。

 この論点についてはたとえば,渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相-ハーバード大学教授の論拠を検証する-』筑摩書房,2021年8月が,新著として本日の記述最後に引用した印藤和寛「論稿」の分析を裏づけ,合致しうる説明を与えていた。

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