見出し画像

明治天皇の妻が「昭憲皇太后」に相当すると語った保阪正康は,日本近現代史研究者として疑問も抱かずに「明治天皇の配偶者」を「皇后」ではなく「皇太后」と呼ぶのか

 ※-0 明治天皇の妻は,明治神宮にはつぎのように睦仁夫妻のことを呼称している


つまり「父と祖母」の組みあわせになる家族の関係を
「夫と妻」の組みあわせに当てているから
これに対してはごく「自然に考えてただちに疑問を抱く」のは理の必然であるはずだが?

 ところで,本記述がとりあげる保阪正康も,この妻の存在を「昭憲皇太后」だと指称していた。保阪正康は,日本近現代史研究者として,たいそう幅広くかつ奥行きもある言論を展開してきた。

 この知識人をしてこのように語らせるほかない「日本の天皇・天皇制」問題は,一見・一聞しただけでも,なかなか味わいが深そうな予感がする。

 要は,なんら疑問も抱かずに「明治天皇の配偶者」を「皇后」ではなく「皇太后」と呼ぶ,日本の知識人の頭脳奥深くに潜むと推測される「そのあたりの問題点」は,どのような理由や事情があれ,それなりにいったん立ち止まってじっくり再考してみる価値を「有していたはず」であった。

額縁の造りがスゴい

 なお,保阪正康(ほさか・まさやす)は,1939年12月14日生まれで,日本の作家・評論家として八面六臂の著作活動をしており,すでに84歳になっている,まったく衰えをしらない執筆ぶりを誇れる人物だと評価される。

 しかし,この保阪正康をしていままで,「世にも不思議なことであるが,明治天皇の妻」が,実は「その彼の母」の呼称に当たるはずの「皇太后」と呼ばれてきた事実に関して,なんら疑問が提示されることがないままに過ごしてきた〔ようである〕。

明治神宮御苑に関する説明板
明治天皇の妻が昭憲皇太后という会い相対関係は
どう考えても「?」

 本当に,まことに奇怪な「夫婦間の呼称」のことが,天皇だとか天皇制にかかわる事象になって発生させられ,しかも定着してきたせいか,以上のごとき疑問を呈する知識人(?)がいない。

 なお,この記述が最初に公表されたのは,2018年10月21日のことであったが,本日2024年3月16日になって再度,ネット上を少し探ってみたら,つぎのような表現に出会ったので,あらためてビックリさせられた。

 以下のこの「引用中で太字にした文言」がおかしくないという人がいたら,そのように答えるその人のほうが『完全におかしい』。まさか「皇太后という漢字」が明治天皇の「妻の個人名であった」わけでもあるまい。この女性には諱(諱)として「美子」という名があり,また結婚する前,もとの姓名は一条美子であった(後段に関連する説明がさらになされる)。

昭憲「皇太后」という文字に注目
あくまで「睦仁の妻ではない」〔とする〕かのような表記

  明治天皇は,庶民的な娯楽であった将棋も楽しんでいたとされ,なんと自身の見合いの席でも将棋をさしていたことが判明しています。お相手は未来の皇后となる昭憲皇太后

 初対面の2人が見合いなかに将棋をさすというとても愉快なエピソードです。また相撲も熱心に観戦されており,何度も宮中で天覧相撲がおこなわれていました。

 明治天皇と,その妻である昭憲皇太后は子に恵まれませんでしたが,明治天皇には5人の側室がおり,側室との間に15人の子が生まれました。このうち成人したのは,柳原愛子と園祥子が生んだ5人で,柳原愛子が生んだ皇子,嘉仁親王は大正天皇に即位し,現在の皇室につながっています。

 註記)『明治天皇と刀剣にまつわる歴史 明治天皇の一面/ホームメイト』https://www.touken-world.jp/tips/9177/ から2段落を引用。

教育勅語を帝国臣民に下賜した天皇が妾5人とはこれまたビックリ

 

 ※-1 明治神宮の祭神-簡単な解説-

 1)明治神宮の創建事情
 明治神宮は,東京都渋谷区にある神社であり,明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。初詣では例年日本一の参拝者数を誇る。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない「明治神 〇 」である。

天皇御璽

 明治以来,皇室には「天皇御璽」(上の画像がその印画である)という巨大な角印が準備され使用されてきた。こちらは,「皇」の字画のなかに余計なひとつ(一線)が記入されていたが,明治神宮の場合,宮の真ん中の字画をわざと落としていた。その意味はなにか? きっとなにか意味させたい隠喩があると推理しておく。

 1912〔明治45〕年7月30日に明治天皇が死去,当時,立憲君主国家として初めて君主の葬儀となった。明治天皇の遺骸は京都の伏見桃山陵に葬られたが,東京に神宮を建設したいとの運動が東京市民から起きた。

 そこで,実業家渋沢栄一や東京市長阪谷芳郎といった有力者による有志委員会が組織され,代々木御料地に神宮を建設する建設案が立てられた。有志委員会は大日本帝国政府の実力者との折衝を重ねるとともに,所属議員によって国会に神宮建設の建議をおこない,両院で可決された。

 神宮建設の機運の高まりを受け,1913〔大正2〕年,政府は閣議によって原敬内務大臣を長とする神社奉祀調査会を設置し,1914〔大正3〕年に『皇后であった昭憲皇太后』が死去すると,大正天皇の裁可を受けて,1915〔大正4〕年5月1日,官幣大社明治神宮を創建することが,内務省告示で発表された。

明治天皇「夫妻」画像

 造営には全国から11,129人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した。鎮座祭は1920〔大正9〕年)11月1日におこなわれ,翌3日には大正天皇の名代として皇太子裕仁(のちの昭和天皇)が参列した。初代宮司は公爵一条実輝であった。

 さて,明治神宮の祭神である「明治天皇と昭憲皇太后」について避けがたい “ひとつの疑問” を,あらためて,つぎのように提示してみる。

 「明治天皇」は嘉永(かえい)5年9月22日(1852年11月3日)生まれ,神話的に造形された初代の神武天皇から数えて「日本国(この呼び方は古代にまでさかのぼらせては通用しないが)の122代目の天皇」に相当する。明治天皇(睦仁)は,前代の孝明天皇の次男として生まれたが,そのころはといえば,江戸時代から明治時代へと移っていく動乱の世であった。

 さらに,明治神宮のもう1名の祭神である「昭憲皇太后」とは『明治天皇の妻』だと説明されている。この昭憲皇太后は,江戸時代の「嘉永2年4月17日(1849年5月9日)」生まれで,もとの名前を「一条美子(いちじょう・はるこ)」といった。一条家は,藤原家のゆかりのお家柄とされ,いわゆる公家(公卿)であった。

 補注)参考にまで,こういう説明も添えておく。

 日本史の基本知識として摂家(せっけ)がある。これは,鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った「近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順)の5つの一族」のことを指す。 大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白,太政大臣に昇任できた。

摂家

 ところで,この明治神宮に参拝すると,どのようなご利益がえられるかといえば,以下のものである。

   家内安全  身体安全   厄祓い
   合格祈願   社運隆昌  商売繁昌

 これらご利益は “ごく一般的な神社のもの” となんら変わりない。だが,この明治神宮が正月の三が日に迎える参拝者数は日本一である。2018年の正月の場合,明治神宮の三が日の初詣客は約317万人だと公表されていた。毎年3百万を超える参拝者が,その3日間に「蝟集する」。もちろん御利益を求めて,である。

 以上の,明治神宮に関連する説明を参照したあるブログは,「ぜひ,明治神宮の深々とした歴史に触れ,歴史をしってから参拝すれば,普通に訪れる参拝とは一味も二味も違った,思い出深い参拝ができるのではないでしょうか?」と,他者に語りかけていた。
 
 だが,明治神宮じたいが造営され発足してから1世紀しか 経っていないにもかかわらず,この神社を指して形容された「深々した歴史」だとしたら,多少でも日本の神社全般に関して知識がある人だったら,

 「オイオイ,大仰ないい方はやめてよ」
 「もっとヨリ深々なる神社が他社にもいくらでもあるよ」

と即答を返すはずである。

 2)日本神道史における位置づけ
 前段に,この明治神宮の「鎮座祭は1920〔大正9〕年)11月1日におこなわれ」たという説明もあった。日本の神社のはじまりは,どのあたりにあったのか。東京都神社庁(東京都庁とは無関係の組織)は「神社の始まりは何ですか」との設問を用意し,つぎのように説明していた。

 神さまをお祀(まつ)りする所は古代からありました。しかし,最初から現在のような社殿があったわけではありません。

 古代,大本や巨岩あるいは山などは,神さまが降りられる場所,鎮座(ちんざ)される場所と考えられていました。そして,それらの周辺は神聖なる場所とされました。

 やがて,そこには臨時の祭場を設けるようになり,さらに風雨をしのぐためといった理由などから,建物が設けられていきました。そして,中国の寺院建築などの影響も受けながら,今日のような神社の形態になったのです。

神社の始まり

 さらに「上古の神社はどんな形をしていたのですか」との設問には,こう答え居ていた。

 いい伝えの域を出ませんが,『古事記』『日本書紀』によれば,神武(じんむ)天皇の東征後,数代の天皇は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の神鏡を皇居の中に祀(まつ)っていました。

 つまり,皇居が神宮であったことになります。そして,第十代崇神(すじん)天皇朝に初めて天照大御神を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り,皇居と神宮を分離させました。

 さらに,『古事記』では同朝期に「天神地祇(てんしんちぎ)の社を定め奉る」と記されていて,そのことから天神を祀る天社(あまつやしろ)と国神を祀る国社(くにつやしろ)が定められたことがわかります。

 神社の原形は,神さまが降臨すると考えられた木や岩の所に仮設された建築物と考えられますが,時代の進展とともにしだいに「やしろ」「みや」などと呼ばれる常設の社殿が造られました。

 もちろん,それには集団組織が必要であり,力のある豪族などが自分たちの氏神(うじがみ)を祀るために造ったと考えられます.もっとも力のあった天皇の社として,神宮が最初期に社殿を整えたのは当然のことといえるでしょう。

 註記)前項の引用とも,東京都神社庁『神社を知る』2017年12月30日 21:21:09 更新,http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/qa/jinja_shinto_rekishi/

神社の始まり・続

 すなわち,日本における神道という宗教に関して,神社という建築物をどのように理解するかという関心から観ても,明治神宮はそれこそ〈最新式の神社〉に属すると位置づけても,なんらおかしいことはない。そのところを考慮するとき,この明治神宮に向ける含意として「深々した歴史」といった修辞をするのは,度が過ぎた理解であり,その種に属したものいいである。

 さて,つぎの※-2に引用するのは,本日〔ここでは2018年10月21日〕の『朝日新聞』朝刊の記事に登場し,語っていた,保阪正康の「昭憲皇太后」に関する言及である。

 なお「ほさか・まさや」は1939年生まれ,同志社大卒,ノンフィクション作家。昭和史研究の功績で2004年に菊池寛賞を受賞,著書に『皇后四代-明治から平成まで-』中央公論新社〔中公新書ラクレ〕,2002年など多数がある。

 

 ※-2「〈平成と天皇〉皇后を語る:中 素顔で交流,国民と絆 保阪正康さん」『朝日新聞』2018年10月21日朝刊30面「社会」

 明治以降の歴代皇后は天皇をうしろから支え,積極的に目立つことを控えた。一方,美智子さまは天皇陛下から一歩引く姿勢をみせつつ,発信や姿をみせることを通し,国民に存在感を示してきた。これは,歴代皇后像のなかで大きな変革を起こしたといえる。

 訪問した先々で1人ひとりと丁寧に言葉を交わし,ときには子どもらを抱きしめる。そんな美智子さまの姿は,歴代皇后にはみられなかった行動だ。威厳がどうかと疑問を呈する声もあるかもしれないが,国民と皇室とのあいだに絆を作ろうと努めた結果だろう。民間から天皇家に初めて入った美智子さまは,国民と天皇家の距離を近づける歴史的役割を果たしたともいえる。

 補注1)ここで駆使されている話法に対してはあえて評言するが,「歴代皇后」との比較をした “皇后美智子に対する評価” はむずかしい点を残している。いつの時代の,どの皇后たちと比較しつつ,このような議論をし,なにを主張するのか,その基準がきわめて不明解である。いいかえるならば,どうしても恣意的にならざるをえない。

 ここでのように,皇后美智子が「国民と天皇家の距離を近づける歴史的役割を果たした」という場合,その相手が「国民」であれば,明治時代から以降の話題と同次元に乗せて進められる対象にはなりにくい。それならばそれでよい。ノンフィクション作家である保阪正康であるゆえ,このような指摘がなにを意味するかは瞬時に把握してもらえると思う。

 とすれば,ともかく皇后の美智子に比較できるのは,その先代の皇后3人しかいなかった。そのうちの最初の1人が,明治天皇睦仁の妻(なぜか昭憲皇太后と称せられてきている),いいかえれば「明治天皇の皇后(妻)」の「旧名・一条美子(いちじょう・はるこ)であった。

 以下,くだくだしくであっても分かりやすくするために,あえてでもこういっておく。

 現在の平成天皇は2019年3月31日に退位する日程が組まれて,皇太子の徳仁が4月1日に新天皇に即位すると同時に,その日に新しい元号を施行する予定である(2024年ならば「であった」というべきだが)。それ以降,現在の天皇の妻美智子は,従来の呼称にしたがえば「皇后ではなく皇太后」に変わる。

 ところが,明治天皇夫妻を祭神とする明治神宮は,この天皇「睦仁の妻」のことを「昭憲皇太后」だと呼んできた。この呼称は奇怪である。明治天皇の “妻が妻ではなくて” ,ごくふつうに表現すると,彼の「生みの母」だという関係になってしまう。これを奇怪だと感じない人がいたら,この人の神経がそれ以上に奇怪というかキテレツ……。

 補注2)途中での補注による議論が長くなっているが,さらにつぎのような論及も紹介しておきたい。

 明治神宮の祭神は「明治天皇」と「昭憲皇太后」である。それぞれ,睦仁とその正妻の美子氏(睦仁氏にはほかに側室が5名いた)の死後におくられた追号だ。

 しかし,なぜ後者の追号が「皇太后」なのか? なお「大正天皇」嘉仁氏の妻節子氏の追号は「貞明皇后」,「昭和天皇」裕仁氏の妻良子氏の追号は「香淳皇后」である。

 祭神名として「昭憲皇太后」を採用している明治神宮のHPによれば,1914年に美子氏が死去したさいに,当時の宮内大臣が彼女の追号を誤って「皇太后」として上奏し,それがそのまま天皇に裁可されてしまった,とのこと。

 註記)http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/12.html 

 ここで出てきた「天皇」とはもちろん大正天皇のことである。「彼女の追号を誤って「皇太后」として上奏し……」という文句は,にわかには,とうてい信じがたい説明である。 

 「皇族身位令」(1910年)によれば,「皇太后」よりも「皇后」の方が位が上である。そこで明治神宮奉賛会は,「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」とあらためるよう宮内大臣宛てに建議したものの,すでに天皇の裁可のあったものは変えられないとの理由から,追号・祭神名の変更は許されなかった

 さらに戦後の1963年と1967年に,明治神宮崇敬会は再度宮内庁に「皇太后」から「皇后」への追号変更の懇願を出したものの,却下されたという経緯を,明治神宮自身がHP上で説明している。

 そもそも元号名を天皇の追号とするようになったのは,「一世一元」制が採用された明治以降のことであった。「天皇」号じたいは7世紀末ごろに成立したとみる説が有力で(その前は「大王(おおきみ)」号),漢風諡号(持統天皇,文武天皇,桓武天皇など)が死後に贈られるようになった。

 平安朝になると諡号は廃れてゆき,皇居や譲位後の居所,陵地などの地名(嵯峨,醍醐など)が「追号」として用いられ,10世紀半ばからは「天皇」号じたいが廃れて,死去した(元)ミカドには「院号」が追号された(冷泉院,一条院,後白河院など)。

 長らく途絶えていた「天皇」号が復活するのは,江戸時代後期の1840年に死去した元ミカドに「光格天皇」という漢風諡号が贈られてからのことだ。

 「明治天皇」以降は諡号ではなく,一世一元の制にもとづき元号がそのまま死後に追号されている。なお,約900年間「~院」と追号されていた歴代のミカドたちの歴史的呼称が「~天皇」にすべてあらためられるのは,1925年に政府がそのように決定してからのことにすぎない(藤田 覚『幕末の天皇』講談社,1994年参照)。

 註記)「明治神宮の『祭神』をめぐる雑感-皇族の呼称・追号 [日本・近代史]」『長春だより』,https://datyz.blog.so-net.ne.jp/2014-04-27

〔ここで記事の本文に戻る ↓ 〕
 一方で,美智子さまは皇室の伝統や文化を大切にしてきた皇后の役割をしっかりと引きついだ。美智子さまが名誉総裁を務める日本赤十字社との縁は,明治天皇の皇后だった昭憲皇太后の時代に始まった。昭憲皇太后が養蚕業を励ますために始めた養蚕も美智子さまが大切に継承してきた。

 補注)ここで保阪正康は「明治天皇の妻=昭憲皇太后」と語っているけれども,ここまでに明確に指摘したとおりであるが,保阪はその呼称の「おかしさ:矛盾」に関連して触れることがない(もっとも,この記事のなかでは触れようもないが)。

 多分,そのような問題にもどこか別の場所でもいいから,的確に言及しておく必要があるといわねばならない。しかし,保阪は「あえてそのように〈昭憲皇太后〉」と,この「明治天皇の配偶者であったこの女性のこと」を呼んでいる。

 保阪は本当に,この昭憲皇太后の呼び名に疑問をもっていないのか。

 推測するに彼は, “その程度のこと” は疾うの昔からいわれなくとも知悉している。それでもいままでどおりに,まったくそしらぬ振りをしてきながら「明治天皇の妻」⇒「昭憲皇太后」と受けとって,問題を語ってきた。

 ところで,安倍晋三政権に対しては,覚悟を決めたかのようにして保阪正康は,つぎのような書物を公表していた。

 ▲-1 保阪正康『安倍首相の「歴史観」を問う』講談社,2015年7月。  ▲-2 保阪正康『日本人の「戦争観」を問う-昭和史からの遺言-』                       山川出版社,2016年12月。

 保阪正康がこれら著作と同じだとみなせる水準・次元にまで,天皇・天皇制の問題そのものを掘り下げていく討議を,同時併行的におこなってきたかと問えば,この答えのほうは全然芳しくない。

 すなわち,天皇関連の議論になると,なぜか1歩も2歩も引けているというか,その核心の論点に肉薄していくような息吹(意欲とまではいえないそれ)が,全然伝わってこない。

 保阪正康は,穏健な保守の立場というか,あるいは中道的に良識ある知識人であるものの,天皇問題に対する考究の基本姿勢は不徹底であるか,どこかで腰が引けている。

〔記事に戻る→〕 皇太子妃時代から天皇陛下と各地のハンセン病元患者と対面してきたが,ハンセン病救済に努めたのは大正天皇の皇后・貞明皇后が先駆けだった。お子さまたちに他人の母乳を与える「乳人(めのと)制度」を廃止し,3人のお子さま方を手もとで育てたのも,4人の皇子とのだんらんを大切にした貞明皇后の姿勢を模範にしたのではないか。

 私は数度,天皇,皇后両陛下に御所に招かれたことがある。天皇陛下が語られたのち,美智子さまがその話に補足や追加説明をするなど,同じお考えを共有されていると思う場面があった。

 「象徴天皇像」を築き上げるにあたり,美智子さまの存在は欠かせないということを感じさせられた。両陛下は即位後,全都道府県を2巡し,集まった国民に笑顔で手を振ってきた。平成は皇后の素顔が国民に示される時代だった。(聞き手・緒方雄大)(引用終わり)

 いうなれば,平成天皇(夫婦)はこの天皇の代なりに,自分たち努力を最大限に絞り出しながら,「敗戦後に与えられた日本国憲法」という舞台の上で一生懸命の演技に務めてきた。

 昭和天皇は明治帝政:大日本帝国の大元帥であったゆえ,敗戦を契機にしたその後における「象徴天皇としての役割」は非常にぎこちなくこなすほかなかったのに比べて,平成天皇は新しく創造できる局面が与えられていた。しかし,昭和天皇の息子として「過去の時代のあれこれ」を重荷として背負わされてもいた。

 しかし,息子の代はあくまで,「平和憲法」として出立させられた日本国憲法のなかの天皇である立場を,こんどは自分なりにどう演出していくか,そして国民たちの期待や欲求に順応しつつ,「自分たちが描いた皇室の理想像」を実現するために必死の努力を傾注してきた。

 その点は「皇室の生き残り戦略」と称したらよいような「明仁天皇夫婦の意思」として具体的に表現されてきた。

 明治維新を画期として,古代史のなかから天皇・天皇制を再生・復興させたつもりの大日本帝国であった。しかし,なにゆえ「明治天皇の妻」を「昭憲皇太后」と呼ばせる明治神宮が存在するのか?

  近代史のなかから誕生したこの神社の祭神をめぐっては「明治天皇すり替え説」が,いつまで経っても,どうしても否定しきれないでいる事情・背景もさもありなんであった。

 補注)前段の記述中には「皇后」のほうが「皇太后」よりも格上だとの言及があった。明治天皇の妻を “最終的にも” 皇太后にとどめておくべき「なんらかの必然する理由(いうにいえない事情)」があったからこそ,次段で述べるような明治天皇夫妻にかかわる怪奇な物語が「世間における話題」として,いつまでも消えずに伝えられつづけてきた。

 ただし,ここではこの最後の話題にはあえて触れない。本ブログ内ではなんどかとりあげたことのある論題であった。「社会科学者の随想 明治天皇すり替え説」で検索すれば,関連する記述がいくつか出てくることを断わっておき,今日の記述は終わりにしたい。

 補注1)ここでは,関連する「ほかのブログの記述」をひとつだけ紹介しておく。⇒ 「『明治天皇すり替え説』を追う」『しばやんの日々』2012.07.01,http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-255.html

 補注2)本記述と基本で類似し,共通する話題を取り上げている別の記述があった。参照を乞いたい。

 ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nabc1dc221069

------------------------------

 ▲ 本記述の参考文献を兼ねてアマゾン通販から関連する本を紹介。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?