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『昭和天皇実録』で現代関連の日本史全体が語れるのか?

 ※-1 本日 2024年2月15日の前書き

 本稿はほぼ10年前にもなるが,2014年9月9日に公表していた記述である。その後,ブログサイトの移動があり,未公開の状態が長く続いていたが,本日(2024年2月15日)再び公表することになった。このさい,もちろん補正・加筆がなされてもいる。

 付記)冒頭の画像,山田 明の著書は2023年9月,岩波書店から文庫版に新装された発売された『増補 昭和天皇の戦争-「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと-』の表紙カバーの,下部の一部分は切り落とし,はずした画像資料である。

 『昭和天皇実録』全巻,第1〜18巻,人名牽引年譜の巻は,東京書籍から2015年3月から2019年3月にかけて公刊されていた。この刊行が終了したのを受けたかたちになって本稿が書かれていた点は,前後する経緯としては当然の事情とはいえ,あらためて思いだすことになった。

 天皇に関した『実録』史だからといってこれが近代のための「日本」史そのものになるなどと考えたら,それこそ,自国史に対する,それも偏倚があり過ぎる「歴史の事実」の理解になりかねない。

 要は,天皇「全体」史で「近現代の日本史全体が語れるのか」と問われて,これに即答的「諾」と応える識者はいない。皇居内で独自に構想したかった「歴史の構成」「史観」に留まるという限界・制約を有する,それもいかにも長大な「歴史の記述」がなされたところで,

 天皇家の1人の人物を「先験的に偉大なる人物」として描くほかない大前提がないとしたら,ウソになる。その企図のもとで,関連する史実を編集していないとは,けっしていえまい。

 日本の近現代史との学術的に厳格な照合作業はさておくほかないなかで,そうであっても,いかにももっともらしくその内容がすなおに受容されることになったとしたら,これは,大昔における古事記や日本書紀の文献としての真・価値を想起するまでもなく,まえもって要注意だというほかない。

 だから,つぎのごとき問題意識をもってこの『昭和天皇実録』をひもとく余地があった。

 ★-1 天皇のための国民か,国民のための天皇か? そもそもなんのための天皇制度であって,これからはどうなっていくのか?

 ★-2 王様(皇様)が国民の頭上に象徴として君臨〔「主権君主」〕するがごとき国家日本である。その民主主義との根本矛盾を問題の前提に置かないで読む場合,この『天皇実録』にいかほどの真価をみいだせるのか

 ★-3 この『昭和天皇実録』に書かれた歴史が,日本史の頂上・稜線に浮遊あるいは迷走してきた時期における国家日本のありよう:実相を,いかほど反映させえうる事実史になりえたかどうかについて,より徹底的に批判しうる視座から吟味しなくてよいのか

 ★-4 国民・市民・庶民の日常生活史の,はるか上方に鎮座するがごとき間柄をもってだが,この「天皇史」が「民衆史」を民草的な観点から成立させてきたつもりの「一見風の事実史」が,敗戦という出来事をもってその臨界点にまで達していた緊迫事情は,いったいどのような歴史の含意をもちえていたのか

問題意識


 ※-2『昭和天皇実録』に対する朝日新聞と日本経済新聞の報道

 2014年9月9日,新聞各紙は『昭和天皇実録』の公表を大きくとりあげていた。歴史研究家なども動員して感想や論評を述べさせている。

 この記述では,関連する記事のすべてに論及するわけにはとてもいかないので,ここの記述ではごくおおまかに筆者の寸評をくわえておくにとどめ,後日にできれば,機会をみてくわしい批評を展開していくつもりである。

 『朝日新聞』2014年9月9月朝刊1面は見出しを,「昭和天皇の動静,克明 87年の生涯「実録」公表 新資料や回顧録の存在判明」と付けている。日本の近現代史をこの昭和天皇史の記録によって塗り替えられる場面があるかのように報道している。

 もっとも,今日のこの朝日新聞朝刊の電子版記事では,「錦織,第2セットも落とす 全米テニス決勝(2014年9月9日07時37分)が冒頭にかかげていたりもしていて,ここ数日間の国民スポーツ的話題のほうにも重点がかかった報道ぶりである。

 それはともかく,明治維新史として日本国家が近代史を歩みはじめるにあたり,天皇・天皇制を悠久なる古代史のなかから復古,再生し,利用するという,きわめて「中途半端な近代国家体制創り」が準備された。

 しかし,この明治帝政史の必然的帰結が「1945年8月15日敗戦」という事実であった。この日本国はさらにくわえて,近代史から現代史へと抜本的に転轍するための機会として,敗戦という歴史的な事件をとらえそこなってもいた。

 むろん,GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーの意向やアメリカ本国の占領政策に助けられたという時代の背景があった。とはいえ,敗戦を契機に活用しようとすれば(その気・やる気が本当にあれば),古代史的な律令制度をまねたかのようにして近代に復刻された国家体制:天皇制度を,棄却できないわけではなかった。

 古代史からの皇室史を眺望していえるのは,天皇一族は本来であれば,自分たちの祖先が住んできた「もとの都である京都」に帰り,東京(東の京都)から辞去すべきであった,という1点に尽きるかもしれない。

 ところが,21世紀のいまもなお,明治政府が徳川幕府から奪いとった皇居(宮城)に居を構えた天皇家が,民主主義国家体制を採っているはずのこの日本国において,同時に「国家・民の統合のために必要な象徴」として重宝される間柄のまま,存在しつづけている。

 よその国,たとえばフィリピン共和国憲法第7条には「フィリピンの大統領は国の象徴的元首である」註記)と規定されていた。だが,この大統領は選挙で選ばれる。それに比べて,「象徴が連続して,天皇家(1947年5月3日以来のことだが)の家長が演じる」というのは,「代替不可能な生物を国の象徴としている希有な国家が日本である」註記)。

 註記1・2)池田浩士『文化の顔をした天皇制』社会評論社,2004年,345頁,349頁。

 現行憲法における天皇・天皇制の事実を,ひたすらこの国の誇りだと思いこみたい「国家意識としての〈虚偽のイデオロギー〉性」は,民主主義国家体制の基本理念とは相容れられない。だが,ことの核心にはいまもなお,天皇教とでも指称したらよい「疑似宗教的な虚偽のイデオロギー」が盤踞している。

 さて,『朝日新聞』2014年9月9日朝刊の報道は,まずこういう構成になっていた。 

 宮内庁は9日付で,昭和天皇の生涯を記録した『昭和天皇実録』の内容を公表した。側近の日誌などをもとに天皇の動静が克明に記され,新たな資料や回顧録の存在も明らかになった。これは1面での言及であり,次面以降はつぎのごとき構成になっていた。

  3面「映し出す昭和史の断面」
  14面「社 説」 
  19面「写真特集」
  20・21面「八つのテーマ検証」
  22面「専門家3氏が語る」
  38面「『戦争と平和』詳細に」
  39面=「昭和 私は思う」

 宮内庁が編纂した天皇史の書物,それも膨大な文字数でのとりまとめである。明治以来の日本帝国はとくに,この種の天皇史を盛んに制作してきた。『明治天皇紀』や『大正天皇実録』もある。

 これらの天皇・天皇制史に記録されてきた文献が,日本という国家のどの部分を,はたしてどのように「事実ないしは真実に近い」史実として語っているのか。この論点は,日本近現代史を専攻する研究家であっても,そう簡単には判断しかねる論点である。

 『昭和天皇実録』で昭和史全部が語れるなどと即断,誤解してはいけない。皇室史をもって日本史の総体のうちなにを,どこまで説明できるかといえば,この議論じたいからしてはじめから,大いに紛糾させるほかない要素をはらんでいる。

 そういうたぐいでしかありえない『実録』なのであった。というのも,天皇「個人の歴史」を脚色し,潤色するだけでなく,ときには新しく創作し,自由に想像する裕仁「史」が書かれていないとは,誰れにも保証できないからである。

 「天皇は箒である」といわれる。筆者の住んでいる街でも以前,県で「国体」が開催されたとき,市内の道路関係が特別に補修されたり新たに手入れされたりして,みちがえるようになっていた。逆に観つ見地が欠かせない。宮内庁が創る天皇史の文献・史料である。もちろん,天皇裕仁じたいに関してたいそうな時間と労力をかけて公表される記録である。
 
 専門家でなくともすでに,興味ある人たちにはほとんど知悉である事実史も含めて,新しく紹介・披露される記録もないわけではない。だが,この種の事実そのものが普段着のままに,われわれの面前に呈示されるわけでは,けっしてない。

 さらにこういう事実もある。宮内庁はよく「創られた演出(演技)」もする。敗戦後からの話である。天皇が宮内庁付きの記者に皇居内で偶然会えたかのような機会の設営や,あるいは一般の庶民を皇居内に清掃作業のために入れたさい,天皇に会釈をしてもらえる場面を設定したりもしてきた。

藤樫準二はいつもの「お追従風の微笑」が自分の顔面にお面のように
張りついていたと形容したらよいような風采が特長的であった

 補注)その代表的な人物がいた。たとえば藤樫準二は,こういう経歴の持主であった。

 「藤樫準二,トガシ・ジュンジ」(1897-1985年)は大正・昭和期のジャーナリストであり,のちに毎日新聞社友。中央大学政経専門部夜間部卒,1974年に勲三等瑞宝章を授賞されていた。

 1920年万朝報に入社し,宮内省を担当。1939年東京日日新聞(現・毎日新聞)に移り,1952年の定年退職まで一貫して皇室報道にたずさわった。定年後も毎日新聞社友兼嘱託として宮内庁に出入りし,その間,1933年の皇太子(のちの平成天皇)のご誕生のさいには,皇后の懐妊,命名までをスクープした。

 また,皇太子殿下の英国エリザベス女王戴冠式への列席(1953年),天(昭和天皇)夫婦の訪欧(1971年)に同行し,取材にあたった。裕仁天皇が名前をしっていた数少ない記者の1人であったという。

 著書に『皇室大観』『勲章』『皇室事典』や『天皇とともに五十年』『陛下の人間宣言』など。

藤樫準二

 『昭和天皇実録』だからといっても,その「実の録」がいかなる性格のものであるかについては,あくまで資料の素材として客体的に接する必要=用心が要求される。

 

 ※-3『昭和天皇実録』の概要

 さきに『読売新聞』の場合に触れておくが,この『昭和天皇実録』に与えていた説明は,「天皇は戦争したくなかった」というふうに強調する解説になっていた。だが,本当の明治帝政史以後の歴史は,それを否定してきた事実をあちらこちらに記録していた

 本ブログ筆者の購読紙ではない『読売新聞』の意見は,電子版を閲覧してみたが,今回の『昭和天皇実録』に関して,この新聞社なりに明確に偏好した編集方針になっていた。したがって,これはこれなりに聞いておきたい。とくに「軍暴走へ抵抗,克明に」(昭和天皇がそのように言動した)という項目から始まる紙面を構成していた。

 昭和天皇は戦前・戦中は大元帥の軍服を着用し,それ相応に大日本帝国の最高指揮官であったはずだが,こういう記事のまとめ方ですれば,その過去はチャラにできるという歴史(?)感覚を,『読売新聞』はとおまわしであっても示唆したかた報道になっていた。

 以下は『日本経済新聞』2014年9月9日朝刊28面の記事に戻って記述をつづける。なお,以下のこの記述中には,補注の形式でのみならず,関連する話題を任意にとりあげ挿入してもいるので,その旨承知で読んでほしい。

     ☆ 昭和天皇,苦悩の日々…実録1万2千ページ公表 ☆

 ◆-1 軍暴走へ抵抗,克明に

 宮内庁は2014年9月9日付で,昭和天皇(1901~89年)の生涯を記録した「昭和天皇実録」の全文1万2000ページ超を公表した。

 これまで明らかにされていない,天皇の間近で仕えた侍従らの日誌「お手元文書(皇室文書)」が引用され,満州事変や太平洋戦争での軍部暴走への苦悩など,時々の昭和天皇の心情が判明。原爆投下から終戦に至る重大な局面などについて正確な時系列で明らかになった。

 宮内庁は,確実な史料にもとづき実録を編修したと説明,昭和天皇の日々を日誌形式で示した第一級の史料となる。宮内庁外で新たに発掘された約40件を含む3000件超の史料が用いられ,その公開が進めば昭和史研究がさらに深まることが期待される。

 補注)「第一級の史料」であるからといっても,これをそのまま全幅の信頼を置いて受けとるのは,歴史研究家の採るべき姿勢ではない。当然の接し方である。宮内庁の編纂した歴史的な文献・史料として公表されているゆえ,あえて対極の視点・立場からの吟味・批判が,注意深く併せて要請されることは当然である。

 すなわち『昭和天皇実録』は,昭和史の史料として第1級たりうるかどうかも含めて,これなりに吟味・検討の余地・必要をその前提条件にすることは当然とみなして,とりあつかうべき「ひとつの関連資料である」から,この実録がはたして第何級たりうるかについては,専門家たちの今後における研究の素材として,これまた「まな板の鯉」でしかありえない。

 それを初めから無条件に「第1級」とかウンヌンする発想は「かなりズレた理解」であると,まず批判されておくべきであった。

 ◆-2 側近日記など新史料40件

 昭和天皇が終戦を「聖断」した前後の経緯は分刻みで記述。1945〔昭和20〕年8月6日の広島原爆投下につづき,9日,ソ連が対日参戦,天皇は同日午前9時55分,内大臣に「速やかに戦局の収拾を研究・決定する必要がある」と表明。その後,長崎で原爆が投下され,急遽,終戦を検討する御前会議が開かれた。

 補注)ソ連参戦に昭和天皇がそれこそ「真っ青になって驚愕し,いよいよ自分の命が危なくなるかもしれないと恐怖した」という事実は,今回公表された『昭和天皇実録』にどのように関連する記述がなされているか。

〔記事に戻る→〕 この御前会議は従来,8月9日深夜に始まったともされていたが,実録は開始時刻を10日午前0時3分と特定した。「聖断」をした14日は,警戒警報発令中の午後11時25分から,みずから終戦を国民に伝える詔書を録音。15日正午,ラジオから流れる自分の詔書朗読(玉音放送)を皇居内の地下防空施設で聞いている。

 補注)「敗戦」を「終戦」としてしかいえない(もしくはいわない)かぎり,日本人・日本民族にあってはあの大戦争に大敗北したという〈記憶〉は本物になりえない。

 全滅を玉砕と美しくいいかえ,敗退を転進といいのがれたのとまったく同じ語法である。占領軍が進駐軍と呼ばれていたから,いまも在日米軍基地を「自国の基地」であるかのような感覚で接する人がいるのかもしれない(とりわけこの米軍基地のない場所・地域に住んでいる庶民はそういう感覚であるかもしれない)。

 昭和天皇があの「戦争の時代に指揮官をやっていたとき,いつでも平和を希求していた人」だったと,敗戦後の後知恵でとりつくろう歴史改竄のための話法は,正直さと誠実さを疑わせる。一言でいってしまえば,「天皇・天皇制擁護」のための便法でしかない。

 昭和天皇が好戦的な人間ではなかった気持ちももっていたことは,多分認められるかもしれないし,そのこと事態は誰居にも否定できないかもしれない。だが,大日本帝国という “好戦性意識の高い国家の天皇位” に就いていた人間として,これをどのようにいいわけすれば「自他ともに対して」だが,自分が「絶対に戦争をしたくなかった」といえるのか。

 出所)以上,『日本経済新聞』2014年9月9日朝刊。以下しばらくは,関連する材料をはさみこんだ記述となっているので,その点,注意して読んでいってほしい。

【参考画像】-1934年11月11日御野立所における観兵式集合写真,黄色の縦長の楕円で囲んだ人物が天皇裕仁・大元帥閣下-

大元帥閣下が統帥した大演習「記念写真」

 英米と戦争をすれば勝てそうもないことは,天皇裕仁も承知していた。明治天皇もロシアとの戦争には勝てる自信がなかったけれでも,そのときは英米による各種の支援があって,なんとか判定勝ちできていた。ところが,第2次大戦のときはその英米を敵にまわしての戦争であったゆえ,結果はご覧のとおりになっていた。

 「勝てる戦争ならやるが,敗ける戦争はしたくない」。昭和天皇はたしかにこの程度の時代認識ならば,間違いなくもちあわせていたと思われる。その意味では凡人である。

 凡人でなかったのは,そういう時代認識:戦争理解をもっていたけれども,あの戦争に完敗したあとは,自分の立場をいかに上手に維持していくかに関しては,かなり非凡な面を発揮してきた。

 その非凡だった点は,戦時中の軍人たちに比較してみれば,そしてひとまず,彼1人で万事を切りまわしえたその関連事情であったとはとてもいえないまでも,それなりにきわだっていたと,いえなくはない。

 もちろん,彼の時代認識は軍部の人間たちよりも冷静であり,時代の流れをよく観察しえていた。しかし,そうであったのであればなおさらのこと,太平洋〔大東亜〕戦争にまでのめりこんでしまった帝国日本の最高指導者としての責任は,逃れえなかったというほかない。

 つぎの画像をみたい。1951年は京都大学で発生した事件に関係する画像資料である。

京大事件立て看板

 この画像に関連しては,のちに長崎市長となった本島 等が絡んでいた。本島があるとき,昭和天皇には戦争責任があるといったところ,右翼に拳銃で撃たれ重傷を負わされた。

 1990年1月18日,長崎市役所の玄関わきで公用車に乗りこもうとした本島 等市長が右翼団体の男に銃撃され,1か月の重傷を負うという事件が発生したのである。

 本島市長は市議会で「天皇にも戦争責任はある」と発言し,これに対し右翼団体などが抗議活動をおこなっていた。銃撃した男は本島市長の政治姿勢について話しあいを申し入れたが,断わられていた。男は殺人未遂の罪で起訴され,懲役12年の刑が確定した。

 多分だがという仮定で話をするが,この犯人が本島にじかに面会したさいには拳銃などを持参して臨んだものと推測してよかった。

 天皇裕仁は東京裁判を免除(免責)されたのであって,だからといって彼になにも戦争の責任がなかったのではない。なにせ,大日本帝国の陸海軍を総帥する大元帥であった。戦責問題のありなしなどについて設問するという発想じたいが,もとより不要であった。

 ところで,昭和天皇が太平洋(大東亜)戦争の緒戦で挙げた戦果について,側近に向けてだが,つぎのようにとてもうれしそうに感想を述べていたその文句を,ここで紹介しておく。 

 ▼-1 1942〔昭和17〕年2月16日 ……「陸海軍部隊は」「シンガポールを攻略し,もって東亜における英国の根拠を覆滅せり,朕深くこれを嘉尚す」  

 ▼-2 1942〔昭和17〕年3月9日 ……「あまり戦果が挙がり過ぎるよ」  そして『木戸幸一日記』には,こう記述されていた。

 「御召により御前に伺候したるに,竜顔殊の外麗しくにこにこと遊され『あまりに戦果が早く挙り過ぎるよ』と仰せあり」

あまり戦果が挙がり過ぎるよ!

 この昭和天皇のことばからはどのように解釈したら,『読売新聞』がいうみたく「軍暴走へ抵抗」という指摘と,無理なく整合性をもたせられる意味が汲みとれるのか? 

 それぞれがそれぞれに,時代も情況も別にしたところで昭和天皇が残した発言なのだから,無理やりに比較することはあるまいという意見もありえようが,そこまで単純に個別ごとに隔離させておいたうえで,そもそもからして無関連な発言同士だといいきってよいような,前後する「ここでの話題」ではなかった。

 「軍が暴走」しないで日本軍が勝利する分には大いにけっこうだという気分が,前段のことばには満ちあふれていたではないか。明治天皇も,日清戦争や日露戦争では当初,勝てる自信がなくて嫌がっていたけれども,実際に戦争となった段階では,大本営を設置した広島まで出かけ,将兵たちを激励し督戦するための勅語も厭わなかった。

 インターネット上には,明治天皇に対する,こういう賛美も鳴り響いている。これは勝利した戦争に関する記述である。ところが,敗けた戦争のことになると,つまり,昭和天皇に関係するそれになると突如,明治天皇の場合でも意識されていた「戦争への懸念(心配・不安)」の心理場面のほうが,なぜか格別に強調されることになっていた。

 乃木〔希典〕は明治天皇のこの上なきご信任に涙をふるい万難を排し,欧米人には到底人間業とは思われなかった万に一つの奇蹟的勝利をなし遂げたのである。

 明治天皇の一言がなければ旅順戦の勝利なく日露戦争の勝利はあり得なかった。旅順戦こそ両国の運命を決する真の決勝戦だったのである。最後の陸戦奉天会戦は旅順を陥落した乃木軍が加わり,その一大奮戦により辛うじて勝利しえたのである。

 乃木と東郷〔平八郎〕は対露戦の最高殊勲者,救国の英雄であるが,両者がこれほどの働きを為し得たのは全くもって2人を信頼してやまぬ明治天皇がおられたからである。明治天皇なしに日露戦争の勝利は決してあり得なかったのである。

 註記)http://www2.odn.ne.jp/~aab28300/backnumber/05_05/tokusyu2.htm  なお,この住所は現在削除されているというか,このサイトじたいが廃止になっている。

乃木希典と明治天皇

〔ここでようやく記事に戻る→〕 青年将校らによるクーデター未遂,2・26事件では,天皇は26日午前6時20分に起こされて発生をしったと記述された。翌27日午前1時45分に床に就くまでに会った人物と時間,回数も特定された。

 天皇を軍事面で補佐する侍従武官長を初日から3日間で41回も呼び出して鎮圧を督促したほか,側近の宮内大臣や侍従次長からも逐次情報をえて冷静に対処していた様子がうかがえる。

 実録には,これまでしられていない天皇の歌が3首盛りこまれた。1929〔昭和4〕年の歌の記載の前には,「新しい御用邸の工事を延期して,節約への一大決心を示したのに,私の理想は一つも実行されない」と嘆く文がついている。即位後数年の時点で,自分の考えが施策などに反映されていなかった状況がうかがえる。

 それでも,若き日の天皇は政治にも積極的に発言。同年には,軍部が暴走した張 作霖爆殺事件の甘い処分をめぐり,首相の田中義一を叱責,辞任を迫るという異例の発言をした。実録にはその後,「御心労のため居眠り」と記述。しられざる姿が浮かんだ。

 ◆-3 12歳の夢は「博物博士」

 新たに引用された史料に,1944〔昭和19〕年8月まで侍従長を務めた百武三郎の日記があり,天皇の心情や思想に迫る手がかりとなっている。

 1939〔昭和14〕年10月27日,進講(講義)の方針について聞かれた天皇は,「皇室に関することは何も批評論議せず,万事を可とするが如き進講は,何の役にも立たず」として「不可」と述べていた。

 実録は,幼少時から中等教育について記載が豊富で,教育課程や養育方針が明記された。12歳の時,将来の夢を「博物博士」と語ったことなども分かった。

 一方,全11回にわたった連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの公式の会見はすでにしられている内容が記されるにとどまった。

 補注)マッカーサーとの会見について昭和天皇は「男同士の約束事」であり,その内容については絶対に口外できないと断わっていた。

 つまり,関連する事実はある程度,歴史研究者たちがその「公式の会見」の話題については解明してきているけれども,これが全部判明したら自分に都合の悪い事実が露呈することを,彼はよく承知していて,そのように堅く決心していたのである。

 日本国の運命を左右するような,それも象徴天皇になってからも,マッカーサーと年に2回も会見しつづけるという事態は,両者のただならぬ深い関係を示唆した。単に儀礼的なあいさつ程度であるならば,年1回正月などにでも会えばいいところを,定期的にといっていいほど頻繁に会う場を設けてきた。

 昭和天皇はマッカーサー以外ともアメリカ国務省の高官と接触を侍従などを介在させておこない,自分の政略の観点から敗戦後史に大きな影響を与えてきた。この事実を『昭和天皇実録』とりあげることは,とうてい「できない相談」である。

 昭和天皇自身の回想をめぐっては,戦後数回にわたり,主に戦前から終戦までの出来事を語った内容を側近が「拝聴録」にまとめたことが裏つけられた。だが実物はみつからなかったという。天皇の靖国神社参拝見送りとA級戦犯合祀との関係についても踏みこんだ記載はなかった。

 補注)「拝聴録」とは 寺崎 英成 = マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録 』文藝春秋,1991年を意味するらしい。

 また,A級戦犯合祀に関する昭和天皇の〈心境問題〉は『富田メモ』に関する『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊の報道によって,明白になっている。これは「天皇の本心」のありかに関係する問題である。

『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊1面冒頭記事


 こちらでは,あまりにも天皇の気持が正直に吐露されている史料が発掘されてしまっていた。しかし,宮内庁側はこの史料についてはその「報道」があった点にのみ触れている。

 実録は1990年から24年5か月かけて完成,今〔2014〕年8月21日に〔平成の〕天皇,皇后両陛下に奉呈(献上)された。9月9日から11月30日まで,宮内庁内で閲覧できる。また,来春から5年かけて出版される。

 ◆-4 20世紀の基礎史料

 御厨 貴東大名誉教授(日本政治史)の話。

 「これまで手が届かなかった皇室文書から引用されたことが一番大きく,20世紀を再検証する基礎史料となるだろう。たとえば2・26事件は,天皇の意思を時間軸で追うと全体像がくっきりとみえてくる。戦前の統帥権の総攬者としての迷いや葛藤,戦後は戦争をなんど何度も思い出している姿が浮かぶ。戦前戦後を通じて政治史の観点から意味があるのはもちろん,風俗史,社会史の視点で読むとさらに興味深い」

 御厨 貴がいいたいことも,「天皇史」が日本史の頂上に位置しうるかのように解釈する視点からのそれであった。もっとも,風俗史とはどの日本史の側面・要素・関連をいうのか不可解であった。御厨は,日本の社会史のなかで天皇史の占める位置が「どのようなものたりうる」のかを,適切に説明しているのではなかった。疑問を抱かざるをえない指摘がなされていた。

 それはともかく,当時に報道された『昭和天皇実録』に関する記事においては,つぎのように要点が把握されていた。ただし以下に触れたこれは,あくまで『読売新聞』の立場からのそれであったので,留意しておきたい。

 ◆-5 昭和天皇実録のポイント

 a) 【全 体】 20世紀と重なる昭和天皇の全生涯が,確実な記録をもとに日誌形式で示された例のない史料。時々の昭和天皇の心情も判明。

 b) 【新たな史料】 侍従ら間近で仕えた人びとの日誌などが引用された。1936~44年に侍従長を務めた百武三郎の日記の存在が判明,引用から新事実が浮かんだ。

 c) 【新事実】 これについては,つぎのように整理できる。

  イ) 「博物博士になりたい」など幼少期の詳細な成育状況や言動,手紙,作文の内容が分かった。

  ロ) 皇室について批評や議論をしない学者の講義は役に立たないと述べていた。

  ハ) 2・26事件や終戦前の切迫した状況が正確な時系列で示された。

  ニ) 戦後に側近が聞きとった「拝聴録」の存在が裏づけられたが,実物はみつからなかった。

  ホ) 「理想は一つも実らない」と嘆く和歌など3首が初公開。

 補注) 以上のうちで,ニ) の「拝聴録」については,前段に言及があった。ロ) の「皇室について批評や議論をしない学者の講義は役に立たない」といったとされるが,それでは,「天皇制度に全面的に批判し,反対する」議論までも,そのように発言しえていたのかといえば,これにはなんともいいようがない。少なくとも,まわりが当初からそのような発想を許すわけがない。

 戦前の治安維持法は,天皇制度について「国体の変革・私有財産制の否認を目的する結社の組織・加入者は10年以下,実行協議・扇動者は7年以下,利益供与者は5年以下の懲役または禁固刑に処されることを規定した」のであるから,「皇室について批評や議論」にはおのずと非常に重い制約・限界があった。

 ◆-6 2・26事件

 1936〔昭和11年〕2月26日,陸軍の青年将校らが部隊を率いて兵を挙げ,高橋是清蔵相,斎藤実内大臣ら重臣,軍首脳を殺傷したテロ,クーデター未遂事件。決起部隊は,首相官邸を含む首都中心部を4日間にわたって占拠。昭和天皇は早くから陸軍に鎮圧を指示したが,陸軍はなかなか動こうとせず,29日にようやく鎮圧され,事件は収拾した。

 註記)以上,参照した記事は,http://www.yomiuri.co.jp/national/20140909-OYT1T50007.html?from=ytop_main3 この『読売新聞』2014年09月09日 05時00分 は検索しても出てこない。すでに削除されている。

 補注)現在〔当時のだが〕の自民党政権,最近,内閣改造人事をおこなっていた。その新しい陣容をみるとまったく戦前体制への郷愁に満ちた人びとが大臣になっている。

 いまの平成天皇,きっとこの改造内閣(当時のだが)の顔ぶれを観て,ゆううつな表情をみせていたはずである。安倍晋三は「戦後体制(戦後レジーム)」を否定するが,天皇家側は「戦前体制(戦時ファシズム)を否定する。ここには妥協しがたい対立関係が醸造されていた。

 2013年4月28日に,政府主催になる「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」がおこなわれていた。この式典が終わり,平成天皇夫婦が退出するタイミングで,安倍晋三首相を始め出席者が,ゲリラ的に「万歳三唱」をおこなっていた。そのときの天皇夫婦は,不快になりそうな自分たちの表情を浮かべないようにと必死に,自分たちの感情を抑えていたはずである。

ふつうはこのような万歳は式次第になければ
「おこなわないもの」である

当時の天皇家(明仁)と安倍晋三政権とのあいだには
一定の緊張・対立関係が潜在していた
 

 結局,誰かが「天皇や皇室について批評や議論」などをおこうなうのだといったところで,現状における日本社会の政治的な自由の状況のなかでは,現状「たかがしれている」

 いまでも「菊のタブー」が完全にないとはいえず,政治学者たちでさえこのタブーを意識しない者はいないし,人によってはひどく神経質に配慮する場合もまれではない。

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