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朝日新聞の天皇対談特集記事-2009年5月6日,林真理子と原 武史-

 ※-0 事前の断わり

 本記述は最初,旧ブログ元で2009年5月6日に公表され,その後,ブログ元の移動にともない,2015年6月6日に再公表していた。しかし,さらにその後,本日の2024年4月6日まで長期間,未公表の状態になっていた。

 今回,このブログサイト再録するに当たり適宜,補正と加筆をおこなうことにしたが,その間,2024年3月13日の『朝日新聞』朝刊「オピニオン」が原 武史放送大学教授へのインタビュー記事,

 「象徴天皇制,根源から問い直す議論を 主権者への原 武史さんの訴え」(有料記事)

を掲載していた。

 現時点は4月6日になっているが,その後,識者たちなどの反応を呼び起こしていたこの原 武史のインタビュー記事は,放送大学教授の肩書きを降ろす時期を迎えた原が,それなりに自身の「天皇・天皇制」「観」をヨリ積極的に披露したものである。

原 武史・画像

 本ブログ筆者は,原 武史の著書をすべてではないが,相当数読んで勉強してきた。その過程のなかで原自身に対しては,一定の学究としての立場・思想がある点を感得しないわけではなかった。

 しかし,原 武史の学的な姿勢は,いままではその「象徴天皇制,根源から問い直す議論を」,自身の立場から徹底的に究明するという1点にこだわって観察すると,特定の不満がなかったわけではない。

 それは,日本〔国籍〕人としての限界・制約・跼蹐を,仕方もない雰囲気であるかのようにして,他者が汲みとっておくほかなかった次元・水準・世界における「その特定の不満」であった。

 本ブログ筆者の以前しりあいであった,関西地方の某大学で政治学担当の教員であった人は,反体制・リベラルの立場であっても,天皇・天皇制の問題研究になると,どうしても一歩引けた立場から「研究展開」をする「自身のあり」方を,いつも意識せざるをえなかった点を語っていた。

 その人が書いた著作には「天皇制」だとか「絶対主義国家」だとかいった用語が盛られていた。この種になる論点に学問的に取り組むにさい,日本社会全般に薄気味悪くただよっている「ある種の禁忌〈心〉」に深く関連する要因介在のせいもあってか,それなりの用心はいつも意識していなければならず,いわば〈一種の恐怖感〉を抱くことを強いられる精神的な状況が解消できなかった,とも語っていた。

 原 武史の論著を読んできた本ブログ筆者の受けた率直な感想は,この人は「天皇・天皇制には完全に反対の立場・思想」を有する学究だ,という点に集約できた。ただし原は,その立場・思想を正面だって「天皇不要」「天皇制反対」として叫ぶことは,絶対にガマンし,抑制し,禁欲してきた。

 なぜならば,そのような昭和20年代における反天皇論者「井上 清」のごとき理論的な立場・思想に立って,もしも原 武史が,天皇・天皇制に対する議論をおこなってきたら,一番判りやすくいうと,おそらく放送大学の教員にはなれなかったはずである。

 原 武史は以前,明治学院大学といういちおうキリスト教系の大学に勤務していた。こちらに在職していた期間において原は,天皇・天皇制に対する自身の「学問・理論」的な発言・活動については,かなりきびしい内容・中身ではあってもその発表形態においてみるに,極力,穏当にかつ控えめに抑えていた。この点に関しては,相当に気を遣っていた。

 原 武史が今回,放送大学の教員生活を終える時期が近くになってからとはいえ,「象徴天皇制,根源から問い直す議論を」しようではないかという提言をおこなった。これは,他者に向けた自身の立場からの思考表明であった。けれども,それでは,いままで公表してきた諸著は「象徴天皇制」に対して「根源から問い直す議論を」試みていなかったのか,という受けとられ方が完全には回避できないことになりかねない。

 本ブログ筆者は,原 武史の著作を読むたびに感じてきた点は,この人は天皇・天皇制に完全に反対の立場に居るという印象であった。この核心を確信として根本に踏まえている学究であったと観察していた。

 本ブログ筆者は,平成天皇のとくに彼が天皇に即位してからの言動・行為を,「皇室の生き残りための戦略的サバイバル」の観点から捕捉すべき視点を強調してきた。この点は,原 武史によれば,天皇による「権力の発露」に相当する言動・行為だと理解されてよいはずである。

 原 武史はまた,平成天皇夫婦の「慰霊の旅」について,旧日本軍の〈加害〉を印象づける場所(旧戦地)には出かけていないと指摘していた。だが,これについては本ブログ筆者は以前からすでに,「彼らの関連する行為」に関してとなれば,問題にされるべき留意点であったと理解してきた。

 原 武史は,この国のなかでは天皇問題に関して「根源的な問題には踏みこまない」慣習があるために,「これでは,天皇のあり方を決めるべき国民のなかに冷静な議論は育たず,タブーはいつまでも残ったままで」あると語っていた(『朝日新聞』2024年3月13日朝刊「インタビュー記事」の発言である)。

 いずれにせよ,国家・体制側(宮内庁がその具体的な執行機関)による「国民に向けた天皇・天皇制」の「無条件な刷りこみ方策」は,あまりにも度が過ぎている。

 今年(2024年)になってからも,たとえば「大手紙に登場する令和天皇夫婦などの姿」は,まるでこの国が王族国家であるがごときに思わせる。

 国家の政権党とは別立ての「権力体系ならぬ権威体制が併存している」ことじたいが,あたかもたいへん誇られるこの国の特長だといわんがばかりである。

 なにかにつけては,天皇とその配偶者の雅子,娘の愛子の話題をこれみよがしにもちだし,国民たちにそのよりよいイメージを植えつけたいのか,盛んにこの一家のよりより物語を公告しつづけている。

 以上まで記述してみたところで,本日の本題に入ることにしたい。


 ※-1『朝日新聞』2009年5月6日朝刊「オピニオン」に掲載された「林真理子と原 武史とによる天皇対談特集記事」

 1) 対談の内容

 いまから15年前,2009年5月6日の『朝日新聞』朝刊に,作家の林真理子と,明治学院大学国際学部で「日本政治論・政治思想史」を講じ,近現代天皇制や戦後社会論を専門分野とする原 武史とが「〈オピニオン 対談〉 皇室と女性」で対話していた。

最近は日本大学理事長職で苦労している最中

 
 連休中でたまたま家に寄っていた娘がいわく「あの記事少し変ね」と。本ブログの筆者である「その父」いわく「最近アサヒは少し右へ移動しているんだよ」

 以下の論及は,とくに気になった「専門研究家:原 武史」の発言〔側から〕のみとりあげ,これに簡単に評言をくわえる構成になっている。 

  ★-1 「海外の賓客も,皇居に招待されると非常に感動するというような優れた機能がある」という発言については,そのような効用を皇室に期待することは,憲法第3条から第7条に以下のように規定されている内容から外れるものではないかという疑問を,とくに原 武史のほうがしらないわけではないと,念のために指摘しておく。

       =日本国憲法から抜粋する天皇条項=
 
 第3条 天皇の国事に関するすべての行為には,内閣の助言と承認を必要とし,内閣が,その責任を負ふ。
 
 第4条 天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。

  2 天皇は,法律の定めるところにより,その国事に関する行為を委任することができる。
 
 第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは,摂政は,天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には,前条第一項の規定を準用する。
 
 第6条 天皇は,国会の指名に基いて,内閣総理大臣を任命する。   

  2 天皇は,内閣の指名に基いて,最高裁判所の長たる裁判官を任命する。  
 
 第7条 天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の国事に関する行為を行ふ。

   1. 憲法改正,法律,政令及び条約を公布すること。    
   2. 国会を召集すること。    
   3. 衆議院を解散すること。   
   4. 国会議員の総選挙の施行を公示すること。    
   5. 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。   
 
   6. 大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を認証すること。     7. 栄典を授与すること。    
   8. 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。      9. 外国の大使及び公使を接受すること。    
   10.儀式を行ふこと。

憲法から天皇条項

 以上のうち,第7条の 5.9.にかかわっては,原のいう〈効能=優れた機能〉が発揮されうる可能性が大である。しかし,第3条,第4条の憲法の精神を尊重するならば,現実問題としてこの国事行為がどのようにおこなわれているかなお問題含みであるうえに,このような「優れた機能」を「世間にアピール」するような意見は,ただちに《違憲》になる虞れが強い。

  ★-2 さらに原は,皇室の祭礼行事について「一般の感覚からは,恐ろしいほどのギャップがある。だから,シャーマン的な体質であることが大事じゃないかと思います」と述べ,「いまでも祈りは欠かせないし,神をありありと感じることができるかも重要」とも述べる。

 しかし,皇室神道にかかわる宮中祭祀をそのように理解するのであれば,なおさらのこと,そのような宗教的機能を皇室に対して期待するのは,日本国憲法の基本精神に反するし,真っ向から逆行する認識である。

  ★-3 原はくわえて,昭和天皇が1927〔昭和2〕年から始めた「田植え」行事〔当然,秋には稲刈りもあるが〕に関して,今〔2009〕年4月8日に平成天皇が記者会見の席で,「新嘗祭のような古くからの伝統の一方で」「昭和に始まった〔この田植えの〕行事もあると発言したのに驚きました」と述べるが,こういう「驚きました」という原の発言に,本ブログの筆者はかえって逆に驚いた。

 2) 昭和天皇が始めた(創作した)天皇家のための神話的行為

 昭和天皇が始め平成天皇も受けついでおこなってきている「田植え」に関しては,原 武史『昭和天皇』岩波書店,2008年は,15頁に出した座標2図のなかでそれぞれ,第1象限である「お濠の内側 × 非政治的主体」に〈田植え〉を記入している。

田植えとは本来無縁であったたのが天皇家の生活様式


 だが,この「田植え」行事は,1927〔昭和2〕年に昭和天皇が「皇位を継承し,天皇になってから思いつき,始めた,つまり新しく創った皇室行事である」。しかし,この事実についていえば,原『昭和天皇』のどの頁をみても関連する記述はない。

 原 武史ほどの学究であれば,みずからも「昭和に始まった〔この田植えの〕行事もある」と記述していた「天皇の皇居内(お堀の内側)における行為」に対して,それなりになんらかの評価をおこなっている。この論点が問題になりうるはずであった。

 実は,原が天皇・天皇制を論じる姿勢にはもともと,研究者として「批判すべきは批判する」という確固としたものがある。

 ところが,今日の林真理子との対談記事ではその姿勢があいまい化されている。そもそも,朝日新聞がこの種の対談記事〔「オピニオン」や「私の視点」〕に載せる内容については,「社の方針」というものがあり,だいぶやかましく介入してくるらしい。

 そのせいで,岩波新書における原の筆致からみると,かなり調子を落としたというか「抑え気味の〈発言〉」になっていた。

 以下,原 武史『昭和天皇』から数カ所,引用する。昭和天皇とその実弟の1人高松宮に関する記述である。

  イ) 「退位の道を断たれた天皇は,生涯をかけて平和を祈り続けるという決意を固め,『祖宗』に誓ったのかもしれない。しかし,天皇が発した謝罪の言葉を,『万姓』が直接耳にすることは永久になかった」(186頁)

  ロ) 「高松宮は」「靖国神社にA級戦犯が合祀されてからも参拝しつづけた」

 「高松宮は,天皇がA級戦犯に戦争責任をすべて押し付け,自らはそこから免れているように見えたのだろうか。そうだとすれば,一見右派的な行動のなかに,天皇に対する最も鋭い批判が含まれていたことになる。松平永芳は,高齢の高松宮に配慮し,本殿正面の急勾配の階段を上らなくでもよいようにした」(214頁)

  ハ) 「現天皇は,『お濠の外側』では護憲を公然と唱えながら,『お濠の内側』では現皇后とともに,宮中祭祀に非常に熱心である」

 「日本国憲法の理念でもある平和を『神』に祈るというのは明らかに矛盾を含んでいる」

 「祭祀は『創られた伝統』なのだから,減らしても宮中の伝統そのものを否定することにはならないという見方は微塵もない」(224頁)
     

 『高松宮日記 全8巻』中央公論新社,1995~1997年〔各巻〕,1998年〔一括全巻〕)は,高松宮(1905-1987年)没後の1991年,宮内庁職員が宮邸倉庫から発見した日記(大正10年~昭和22年)を,妃配偶者喜久子の強い希望によって,中央公論社から一部編集を経て出版されていた。

 この日記は,戦争遂行および戦後責任の問題で昭和天皇とは鋭く対立した高松宮の心情・葛藤などに関連する歴史的資料でもある。

 補注)高松宮は戦争の時代に関して,昭和天皇とはまた別個に独自の記憶をもっていた。高松宮が死亡してから配偶者が『高松宮日記』を公刊したのは,夫の生前の意志(遺志)をよく承知していたからであった。昭和天皇だけが大日本帝国における統帥の実体をなしていたわけではないと語りたかったのかもしれない。

 現に,敗戦直後の国際政治過程のなかでも,高松宮が陰に陽に大活躍していた事実が記録されている。配偶者はその「歴史的な現象」を世間にしらしめるために夫の日記を活字化させかったと推測できる。

 3) 日本国憲法と天皇・天皇制

 「林真理子と原 武史による新聞紙上での対談」を読んで感じたことは,現行憲法における皇室の存在が,いかんせん矛盾そのものでしかなかったという1点であった。

 第1条「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」というこの条項の後半を,1947〔昭和22〕年5月3日施行される以前においても,また以後においても,日本国民が自身の「総意で同意したこと」など,けっして,まったくなかった。

 もっとも,いまさら同意したところで,どうにかなる問題でもない。それでは,どうする? 明治憲法に戻るわけにもいかないし……。

 平成天皇の生きざまをみていると,皇室を時代の流れのなかで,いかに皇族一家を適応・維持・発展させていくか涙ぐましいまでの努力を重ねている。

 しかしながら,民主主義である日本国という存在に対して虚心坦懐にみるとき,天皇・天皇制が根源的に矛盾する疑似政治的な家的組織である点は,否定しようもない事実である。

 いまから20年近くもまえにやはり,岩波新書として発行された横田耕一『憲法と天皇制』1990年は,末尾の記述をこう書いていた。

 被差別部落解放のために一生を捧げた松本治一郎は,かつて,「貴族あれば賤族あり」と喝破したが,この言葉のごとく,仮に象徴天皇制が憲法的に純化され,より憲法適合的になり,よりスマートになったとしても,それが世襲であるかぎり,その制度は社会的差別意識を再生産しつづける大きな源になるように思われてならない。

横田耕一『憲法と天皇制』234頁

 ここで,以上のごとき引用中のなかでは,末尾の「・・・ように思われてならない」は不要である。そのとおりになっていたからである。蛇足だが。

 4) 世界人権宣言と天皇家

 1948〔昭和23〕年12月10日に第3回国連総会において採択されていた『世界人権宣言』は第1条で,こう謳っている。

 すべての人間は,生れながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である。人間は,理性と良心とを授けられており,互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。  すべて人は,人種,皮膚の色,性,言語,宗教,政治上その他の意見,国民的若しくは社会的出身,財産,門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく,この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

『世界人権宣言』第1条


 この謳い文句に照らしていえば,天皇一家(一族)は間違いなく,その概念規定に抵触する。彼ら集団がその種の存在でしかない《事実》は,誰であっても否定できない。

 まず「宗教」が引っかかっている。皇室神道のことである。この問題点は原 武史がすでに前段に紹介した対談中で言及していた。だいぶ遠まわしにではあるが,明確に言及していた。

 よく人はいう。日本の天皇・天皇制が無条件にすばらしい歴史的存在であり,しかも世界ではまれである「皇統が連綿する高貴な血統の証左」であると。

 だが,そのように「信じること」ができる人間であっても,前段のごとき世界人権宣言第1条の文言と整合的に,矛盾なく天皇制度を,それも日本国憲法内で規定もされているそれを,まともに説明できる者はいない。

 「国民的若しくは社会的出身」および「門地」(家柄の意味だが)とは,いったいなにか?

 民主主義と平和の憲法だ高くと謳われている日本国憲法のなかには,それらに相当する《聖家族》が第1条から第8条をもって位置づけられている。これにはなにかおかしいと感じて当然である。

 天皇・天皇制を支持する・しないとか,好きだ・嫌いだといった次元ではなく,より客体的・客観的に,憲法内における天皇制度の問題を冷静に吟味する必要がある。

 その意味では,現在の平成天皇が宮中祭祀に熱心であろうとする姿勢は,民主主義と天皇制の根本矛盾を,かえって結果的にますます深めるほかなかった。こちらの問題とはむろん,皇室神道=宗教に根源からかかわる対象を意味していた。

 5) 「カニの横ばい拒否事件」

 ここで,被差別部落出身であった政治家松本治一郎に関するいくつかの話題を引用する(⇒ コメントは筆者)。

  a) 昭和「64年内閣の第1回生存者叙勲にあたり勲一等を授与するとされたものの拒否した」(⇒ 勲章はもともと軍人用,天皇によって「手柄の位」が付けられる)

  b) 「松本治一郎の信条を浮き彫りにし,平等の基本である「人の上に人を作らず 人の下に人を作らず」(⇒ これは早くから福沢諭吉がいっていたはずだが……)。

松本治一郎

  c) 19「48年第2国会開会式のさい,〈カニの横ばい〉といわれる天皇への拝謁を拒否して,天皇制のもとでの永年の慣習を廃止させた」〔「カニの横ばい事件」補注)〕(⇒ それでも,いまでも皇室一族に対しては最上級の敬語が使用されている)

 補注)『カニの横ばい拒否事件』とは,1948年1月21日,参議院初代副議長(当時)になっていた松本治一郎が,国会開会式に来場した昭和天皇への拝謁にさいして,これを国会で迎える立場の者たちが「カニが横ばいするように無理やり歩かされる行為」を拒否した事件である。

蟹の横ばいを許さなかった

 そこには,被差別部落出身者の天皇・天皇制に対する猛烈な反発・否定があった。

  d) 「また皇室経済会議の委員として,皇室の特権を制限するなど主権在民の実現に努力。1949年吉田内閣によって公職から追放される」(⇒ 吉田 茂は親英米の反動政治家。天皇に対して自分を〈臣〉と称した。これではまるで封建時代の君臣関係である。松本治一郎とは好〔悪?〕対照)
 
 6) 民主主義と天皇制度

 そういえば,林と原の対談記事に付けられた見出しを紹介するのを忘れていた。末尾になるが記しておく。ついでに,筆者の寸評(⇒ 以下)も付加する。

  ◆ 原  「増える無関心層 お濠の内 担うのは シャーマンの体質」

  ⇒ それでは,皇室に対する国民・人民・市民・庶民の関心はどうあればいいのか? どうなければいけないといった模範がありうるわけではない。それは国民に強制できない。

 そこで,どこまでも問題となるのが「天皇と国民の相互関係」である。民主主義の根本理念に天皇・天皇制〔天皇制度〕は無矛盾的でありうるはずがない。そうではないという人がいたら,これを明確に論理でもって説明しなければならない。

  ◆ 林  「祭祀できわだつ 皇后のカリスマ性 やわじゃない強さ」

  ⇒ 皇室の人びとが自分たちの憲法上の立場・利害をどのように守ろうとし,さらには向上させようとしているかを考慮しない,このような「 Viva! EMPEROR」論は,林のような言論・知識人としての作家の〈感想〉としては「ヤワに過ぎる」

 わけても,皇室神道を国家神道であるかのように誤解させかねない口調には用心が必要である。

 --はたして,日本国は天皇を上にいただいてだが,民主主義の国家体制を構えているのか,それとも,民主主義が中に天皇・天皇制をつつみこめる国家体制を保っているといえるのか?

 だが,そのいずれにしても,近現代民主主義の政治原理を徹底させえない〈なにか異物〉の混在を意味するのが,この天皇制度という政治機構の本質であった。この点を完全に否定できる人は,誰1人としていない。

 天皇が好きだとか天皇制はいいものだとかいった先験的な決めつけの理解以前に,民主主義国家体制にかかわる基本的な問題意識として踏まえておくべき論点がある。これを絶えず議論の対象にしていく態度・姿勢・意識こそが,民主主義の健全な維持・発展にためには必要不可欠である。


 ※-2 付論-2015年6月6日および2024年4月6日に-

 平成天皇は,皇居・宮殿で2015年6月3日夜,フィリピン大統領を招いた宮中晩餐会を開催した。そこで,天皇明仁が披露した「おことば」のなかには,以下の文句が含まれていた。

 先の大戦においては,日米間の熾烈な戦闘が貴国の国内でおこなわれ,この戦いにより,多くの貴国民の命が失われました。このことは私ども日本人が深い痛恨の心とともに,長く忘れてはならないことであり,とりわけ戦後70年を迎える本年,当時の犠牲者へ深く哀悼の意を表します。

フィリピン戦線では50万人以上の日本兵が死んだ

 さて,安倍晋三の積極的平和主義は「未来志向」であるから,このような平成天皇のことばは,ひどく気にいらないし,余計な文句を披露しているということになった。

 安倍は「戦後70年談話」を公表するつもりでいるらしいが,「戦後50年談話」(村山富市首相)や「戦後60年談話」(小泉純一郎)で述べられてきた中身(謝罪の文句)は「もういわない」と,いまから躍起になって断わっている。

 補注)その後,公表された安倍晋三の「戦後70年談話」はこれである。このなかでは「積極的平和主義」という表現が出ているが,その真意は「戦争に積極的にとりくむべき平和主義」という意向しかうかがえない。

  ⇒ http://nenkinsha-u.org/04-youkyuundou/pdf/abe_70nen_danwa150815.pdf

補注

 ナチス・ドイツの例を比較するための材料として出すまでもなく,そうした安倍晋三の首相としての発言・態度は,周辺諸国の受けとめ方からすれば,過去の反省に触れたくない,語りたくない日本国の意志を個人的に剥きだしにしたものといえる。

 平成天皇は「日米間の熾烈な戦闘が貴国の国内でおこなわれ,この戦いにより,多くの貴国民の命が失われました。このことは私ども日本人が深い痛恨の心とともに,長く忘れてはならない」と表現して,太平洋戦争において日本軍がフィリピン全体に対して与えた戦争の加害を深く反省し,実質で謝罪する表現を,日本国の象徴の立場から具体的に発言していた。

 補注)ちなみに,日本は1976年までフィリピンに対して,1902億300万円の賠償金を支払っている。そのほかにも,戦後補償の意味合いを込めた「日本からフィリピンへの援助供与」を積極的におこなってきた。以後,日本はフィリピンにとって最大の援助供与国である。

50万人以上もの日本兵が死んだフィリピンの戦場では
フィリピン人も大勢ころされた

 戦争事態という状況のなかでたがいに敵の関係に置かれた両国の兵士たちが戦闘し,まさに「殺すか・殺されるか」の「殺し合い」をする事実じたいは,国際法(戦争法規)上,どちら側であっても犯罪行為にならない。

 だが,太平洋戦争においてフィリピンで実際に発生していたのは,日本軍が民間人の殺戮に数多く関与してきた事実である。

 敗戦後70年が経っても,平成天皇は当時まで日本軍の総帥であった父親の関係もあって,前段のように,フィリピン大統領を歓迎する晩餐会では,その歴史的な事実に対して素直に反省(謝罪)する気持を表わすほかないのである。

 満洲事変以降ずるずると続いていった日中戦争中の日本軍は,中国で「三光作戦」(殺しつくし・焼きつくし・奪いつくす)を,民間人も相手に巻きこみ展開していた。

 朝鮮では,以前より第2次大戦にかけて慰安婦として朝鮮人女性を大量に動員させてきただけでなく,戦争のため不足していた筋肉労働者(もちろん男性)をこれまた朝鮮から大量に強制動員し,日本本土に移動させて強制労働に就かせていた。

 敗戦時までその強制労働において消耗品のように使い捨てられた朝鮮人の死者数は,5万から10万人単位でいるはずである。正確な記録がないからといって,その事実がなかったことにはならない。

 そもそも,日本政府や現場で使役していた企業が敗戦時に証拠隠滅を図っていたため,あるいはその記録さえもともと残していないがためにその正確な史実の把握は,まだこれから歴史的に解明されるべき課題として残されてもいる。

 戦争の末期には朝鮮人男子を兵士に駆りだしてもいた。彼らは特攻隊に搭乗して敵艦に突入した者もいた。

 だいたい,日本が朝鮮(大韓帝国)を合併して植民地する以前からその後において,抵抗運動をしてきた朝鮮人たちは,いったいどのくらい殺されてきたか?

 こうした歴史的な経緯から発生してくる責任問題は,できればそのすべてをすり抜け〔スルー〕たい「安倍晋三の下心」はみえみえに過ぎる。そういった印象が明白であった。

 明仁の話題に戻る。彼が天皇をやっていなければ,親善外交の場でみずからが「戦争責任」に関するそのような謝罪のことばを,2015年の晩餐会の場で語るような機会も必要もない,といえるかもしれない。

 しかし,彼は現実に日本国憲法において象徴天皇の役目を果たさねばならず,そうとなれば「過去の歴史」である事実史から逃れることが絶対にできない立場に置かれていた。これからも,そうでありつづける。

 とはいえ,明仁は2019年4月30日をもって息子の徳仁にその地位を譲位していた。もちろん天皇位は世襲によって持続してきたし,今後もしていくはずである。そんじょそこらに,うようよいる「世襲3代目の政治屋」たちとは別格に,正真正銘の世襲が天皇位にかぎってはなされてきた。

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