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昭和天皇の敗戦責任を占領政策の都合で追及しなかったアメリカ-日本の論理学者によるその分析など-

 ※-1 本記述の論題,その問題意識


 旧大日本帝国は1945年8月15日(9月2日),第2次大戦の結果を,敗戦というかたちで終えた。

 直後から日本を占領・統治したアメリカ軍(一部はイギリス軍も参加していが)は,GHQのマッカーサー元帥の指揮下,旧日帝の最高指導者であった昭和天皇裕仁の「敗戦責任」は,あえて追及せず,この人物を高度に利用する政策上の余地を残し,利用してきた。

 敗戦時における米日関係が有した歴史的な意味を,とくに日本の論理学者による分析を素材にとりあげ吟味してみる。議論の要点は,つぎの2つとなる。

 ★-1 天皇裕仁に戦争責任はないのか

 ★-2 戦争論理学による分析と吟味

 ※-2 三浦俊彦『戦争論理学-あの原爆投下を考える62問-』二見書房,2008年9月という本

 この本,三浦俊彦『戦争論理学-あの原爆投下を考える62問-』は「究極のテーマで学ぶ,クリティカル・シンキング」によって,「歴史的事実を検証しながら最も合理的な結論に達する」ために学ぶ「新しい論理思考演習のテキスト」(パラドクス・シリーズ応用論理編)である,と謳われていた。

 同書は,戦争という事象に不可避であった,それも第2次大戦中の戦局・場面において展開された戦略・戦術を,論理学の思考方法に徹頭徹尾当てはめ,検討・考察していた。なまじ中途半端に,戦争問題をとりあげ論究した著作よりは,よほど興味深い議論を与えられうる内実があった。

 同書が対象にした問題は,南京事件,真珠湾攻撃,ホロコースト,ヨーロッパ優先戦略,通常兵器,核兵器,原爆投下,無差別爆撃,人種差別などのことばを軸に据え,議論されていた。

 どこまでも論理学の思考方法に依拠しつつ,その基本概念を駆使する究明をおこなっている。それによって,三浦俊彦が打ちだした「戦争に関する独自の見地・見解」が,いかほど説得力を発揮できているか注目したい。

 

 ※-3 天皇を免責したアメリカの立場

 本ブログ筆者は,この三浦俊彦『戦争論理学-あの原爆投下を考える62問-』の,39問「天皇を免責したアメリカは正しかったのか?」という〈問い〉にとくに注目し,本日の議論の対象にする。

 三浦の議論をしばらく聞こう(157-159頁。以下の引用においてはさらに頁はとくに指示しない)。

 なお,三浦の文章には独特のくせがあり,これにくわえて「論理学というこむずかしい理屈」の理論分析がからみついて,読みづらかった。そこで,極力筆者流に読みやすくするため多少手を入れ,さらに内容的な補足もくわえ,いくらかでも読みやすくする手当を試みている。

 1) 昭和天皇の戦争責任

 大日本帝国の天皇は1945年8月まで,日本の陸海軍全体を統帥する大元帥であった(旧憲法,第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)。

 しかし,あの戦争に敗北し,ほかの多くの軍人や政治家たちが戦犯として裁判にかけられ,絞首刑にされるなかで,旧日本帝国において「一番重大で最高責任の地位」=大日本帝国「天皇」に就いていたはずの裕仁が,なぜか免罪されていた。

 三浦はいう。昭和「天皇を訴追しない」というアメリカの方針は,中国・オーストラリア・オランダなどと共有されていなかった。連合国間ではその同意すらなかった。

 他方「天皇に倫理的・道義的な戦争責任があった」ことは,日本の観点からみても明白である。東條英機が天皇訴追の方針に抵触しないよう法廷での発言をかえたところで,天皇に戦争責任がなかったとはいえない。

 天皇の「倫理的責任を法的責任にすり替えて」その立場を「矮小化」するのは「侮辱というべきであ」るというのが,三浦の理解である。だが,この理解をごくすなおに受けとれば,それほどに「天皇の責任」は広くも深くも大きかったのである。

 2) 天皇機関説

 昭和天皇みずから是認していた〈天皇機関説〉を否定し,統治権が天皇の地位にあったと認めるならば,最狭義の法的責任まですべてを天皇に帰するほかなくなる。

 戦争中の建前でいえば,天皇に責任がないと信じていた政治家・軍人は皆無であったはずである。天皇に自発性や責任がないなどと公言したら,それこそ不敬罪に問われたに違いなく,天皇の大権は統帥権にみならず統治権までも及んでいたのである。

 「天皇の責任がない」という認識は,天皇への過小評価である。2・26事件以降,天皇親政を唱える皇道派は,たしかに衰退していた。だが,政策の「責任主体である天皇」が同時に,〈親政の主体〉である必要はない。仮に天皇機関説を信じていようが,天皇自身の責任は認められてよい。

 戦前・戦中において,日本人の実際の建前では,天皇機関説は排撃されていた。とはいっても,天皇機関説が正しく〔学界や天皇自身がそう認めていたように〕,天皇が国の一機関に過ぎないといったところで,最高機関としてのその地位は揺るぎなかった。

 天皇は神ではないにしても,少なくとも最高機関であり,天皇の権限は絶対的であった。当然,法的責任もある。

 法や倫理のうえでも責任の定義による以前に,政治(すなわち実質的影響力)でみても,天皇の責任は明白である。

 3) 昭和天皇の責任問題

 【A】 明治憲法から逸脱した昭和天皇の行為

 ☆-1 張 作霖爆殺事件(1928〔昭和3〕年6月4日)ののち,田中義一内閣を叱責し,総辞職させた。

 ☆-2 2・26事件(1936〔昭和11〕年2月26日~2月29日)の鎮圧を,直接指令した。

 ☆-3 対米一撃論の支持による降伏の引きのばし(1945〔昭和20〕年2月14日,発言)。

 ☆-4 ポツダム宣言受諾の決定(1945〔昭和20〕年8月14日,御前会議)。

 補注)これらの発言を含めて,昭和天皇がいかに戦争過程の諸作戦に没入しつつ関与していたか,たとえば,黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』講談社,2004年が,その付近の歴史問題に「主体的・能動的」かかわってきた天皇の発言を,要領よく収拾・整理している。

 黒田・畑の同書以外にも類書はいくつもある。それはともかく,昭和天皇が日中戦争以後,敗戦時までの軍政状況をいかに的確に把握していたかとみれば,その才覚ぶりは並みの将官など,とうてい足元にもおよばないほどに高水準であった。

 しかし結局,昭和天皇は敗戦後,戦争責任の追及を受けないで全面的に猶予された。この敗戦後史の出立模様は,だからといって,日本という「国・民の全体」にとって「不幸中の幸い」を意味しなかった。それどころか,それは逆転されてしまい「幸い中の不幸」に,つまり,むしろ国民全体に対して「歴史的な課題=重荷」を負わせる結果を招来させた。

 【B】 具体的発言によって実質的な影響力を行使した昭和天皇

 ◇-1 宜昌-重慶に近い都市-の占領を急がせた(1940〔昭和15〕年6月)。

 ◇-2 珊瑚海海戦(1942〔昭和17年5月)においての海軍の詰めの甘さを叱った。

 ◇-3 太平洋の戦局が絶望的になった段階においてさえ,中国大陸での一号作戦の(1944〔昭和19〕年4月~12月10日)にかけての成功に喜び,「そこまで進撃したなら昆明までいけぬのか」と好戦的な示唆を与えつづけた。

 ◇-4 戦艦大和の特攻も(1945〔昭和20〕年4月),天皇の「水上部隊はないのか」という一言で決まった。特攻そのものからして(1944〔昭和19〕年11月以降),この神風の生みの親である大西瀧治郎自身が「天皇の休戦命令を期待した」うえでの外道作戦であったと告白していた。

 【C】 軍部の姿勢と天皇の態度

 天皇個人の発言は軍部によって尊重されており,重大な作戦や戦争続行それじたいの是非が,最終的に天皇の一存で決まったのも事実である。少なくとも,軍の上層部はそう認識していた。天皇自身,自分のことばの重みは分かっていた。

 意外としられておらず決定的なのが,本土決戦方針を決定した御前会議と同日(1945〔昭和20〕年6月8日),第87回臨時帝国議会の開院式で発した勅語である。なおも全軍に対してこう督戦していた。

 世界の大局急変し敵の侵冠亦倍々(ますます)猖獗を極む正に敵国の非望を粉砕して征戦の目的を達成し以て国体の精華を発揮すべき秋なり

第87回臨時帝国議会の開院式で発した勅語

 断末魔に近いこの時期に天皇の徹底抗戦命令が出たことによって,厭戦の世論は完全に封じられた。海軍と宮中グループの終戦工作は致命的なダメージをこうむった。この種の勅語の発布は,天皇の自由意思による認可がなければ実行されえない。陸軍の強硬派に引きずられた天皇の責任は重大であった。

 【D】 御身大事ばかりの天皇裕仁

 戦況を絶えず報告され,かつ権限をもっていた昭和天皇が,原爆投下とソ連参戦に至るまで降伏命令を出さなかったのは,「国体の護持」つまり皇室の安全を確信できないからであった。

 彼にとっては,日々の国民の苦難よりも三種の神器を守ることが,はるかに大切であった。それでも,天皇個人に倫理的・政治的責任がないと主張するのは,大日本帝国における「天皇という機関」を不当に矮小化した理解である。

 昭和天皇だけに許容された特権的な「責任なき権限」は,どうして可能たりえたのか,その哲学的な根拠を説明すべきである。もとより天皇にも責任があることは,政府首脳部も認識していた。内大臣木戸幸一は巣鴨監獄内から「天皇裕仁」にこういった。「いま退位しなければ永遠の恥を残す」

 近衛文麿や東大法学部7教授の和平構想にも裕仁退位が含まれていた。このように当時において日本人は,天皇の退位どころか,天皇の処罰・天皇制の廃止といった措置も覚悟していた。それが,一億玉砕を唱えていた戦中イデオロギーの唯一,正しいケジメのつけかたであった。

 【E】 日本の天皇制廃止を避けた「アメリカのつけ」は,もっぱら日本・日本人・日本民族へ

 そもそも,国が敗れても天皇が残ると分かっていれば,200万以上の日本人が命を投げだす必然などなかった。

 元陸軍少尉:小野田寛郎は,戦後日本の繁栄に接して「敗けた国が一億玉砕したら日本という国は消えているはずだ」といった。とすれば,一億玉砕にふさわしいケジメのつけかたを,天皇がなすべきであった。

運良く日本に復員できていた小野田寛郎

 天皇制廃止がいかなる点で日本にとって「損」であるのか,必らずしも明らかではない。

 天皇退位または天皇制廃止に甘んずることは,敗戦の過ちを末永く痛感しつづける意味においても,天皇制存続よりもはるかに日本人にとって好ましかったと思える。

 天皇制廃止が断行されていれば,靖国問題などで近隣諸国と揉めることもなく,日本の文化的発展もいま以上になりえたかもしれない。
 
 

 ※-4 検討・吟味

 1) 天皇の無責任は国家・国民もまねてきた無責任

 以上,前項のAからEまで,本ブログの筆者風に紹介した三浦『戦争論理学』の「昭和天皇戦争責任」論は,なにげもなく「天皇廃位」まで議論の範囲に入れていた。

 これは,学問の検討において天皇を神聖視したりあるいは特別視したりしない,確固たる分析視座を明示している。前項のごとき議論は,昭和天皇という人物がいかに自我にこだわり,利己ばかり考え,1人の人間としても〈潔くない人生の経路〉を描いてきたかを説明していた。

 こうした話はもちろん,「アメリカとの合作」であるという歴史の事実を踏まえたうえで聞くものである。だが,はたして「天皇制廃止が断行されていれば,靖国問題などで近隣諸国と揉めることもなく,日本の文化的発展もいま以上になりえたかもしれない」かどうか,本ブログの筆者は全然,同意できない。

封建制度は止めさせるべきだ
といったアメリカ(マッカーサー)側ではあったけれども

天皇・天皇制は
The feudal system of Japan will cease
とはならず

実際にはそのまま残しておき
現在もなお上手に活用しつづけている

 昭和天皇を東京裁判に出廷させなかった〈歴史〉を回顧してみるに,たとえば,日本経済新聞「読書2」欄に出た著作,永井 均『フィリピンと対日戦犯裁判-1945 ‐ 1953年-』岩波書店,2010年2月への書評が気になる。評者は川成 洋(法政大学教授)である。

 同書は, 「フィリピンにおける日本軍の残虐行為の捜査が本格化した1945年から,国交が回復されない中,モンテンルパのBC級戦犯全員が釈放された1953年までの8年間,アジア・太平洋戦争をめぐって日比両国は何を考え,どのように向き合ったのか。膨大な一次資料とインタビューに基づいて,戦後日比関係の出発点となった対日戦犯裁判のプロセスを明らかにし,その歴史的な意味を再考する」

 注記)http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm /4000246542.html

永井 均『フィリピンと対日戦犯裁判-1945 ‐ 1953年-』2010年の書評

 永井 均『フィリピンと対日戦犯裁判-1945 ‐ 1953年-』に関して,川成洋はさらに,こう論評していた。 

 本書の巻頭部に,1945年2月のマニラ市街戦が描かれる。この残虐な銃撃戦で,キリノ上院議員の妻,次男,長女,三女を含む約10万人の市民が命を落とした。翌年,マニラを視察したアイゼンハワー元帥は「ワルシャワ以外に,このような最悪の破壊を目にしたことがない!」と絶句したという。

 1942年から敗戦まで続いた日本のフィリピン占領は,総人口 1600万人のうち,110万余りの犠牲者を出した。 1947年,フィリピン政府は,日本人戦犯を「復讐の中ではなく,法の支配のもとに置く」立場を表明した。実際は,151人のうち 79人の死刑という厳しい判決であったが,刑が執行されたのは17人であった。

 1953年7月,キリノ大統領は死刑囚を含む日本人戦犯の特赦を発表し,拘留中の108人の戦犯は全員白山丸で帰国できた。このとき「私は日本人から妻と3人の子供を殺された者として彼らを特赦する最後の1人となるであろう」という大統領声明が発表された。これは,日本人への憎悪の連鎖を断ち,報復主義の転換を図るよう自国民に呼びかけ,また被害者自らが譲歩することを日本国民に示して彼らの応答を期待するメッセージであったのだ。

 だが,果せるかなというべきか,この寛大な措置に対して岡崎外相の「深甚なる感謝」の談話には,フィリピン国民への謝罪の言葉は皆無だった。この姿勢こそ,敗戦直後の戦犯指名回避のための「一億総懺悔」論も然り,日本の「負の遺産」を封印することにほかならなかった

 以上のような本書『フィリピンと対日戦犯裁判-1945 ‐ 1953年-』における指摘は,非常にきびしかった。

 日本の太平洋戦争をめぐる「未完の現代史」のひとこまとして,この日比関係をとらえ直した本書の歴史的な意義は大である。

 2) 戦争責任から戦後責任へ

 さて,その1953年7月までの日本国は,あの戦争の時代をどのように回想していたのか? あるいは,どのように評価してきたのか?

 1953年といえば,隣国の不幸な内乱による特需の到来が,それまで戦争の影響で塗炭の辛苦にあえんでいた日本国民にも均霑されていた時期である。

 昭和20年代前半〔1940 年代後半〕,連合軍が日本において開廷した「国際極東軍事裁判」の推移を,ただ受けいれるほかなかったのが〈敗戦国の民たちの立場〉であった。

 けれども,そのなかでただ1人,その戦争の結果を踏まえて,なおかつ「自身の延命」のための〈必死の画策〉を,それも運よくマッカーサーの助力もあって〔これはもともとアメリカ本国の意向であったが〕,アメリカによる日本属国化を交換条件にしたかのような闇取引をしたのが,ほかならぬ昭和天皇であった。

 大東亜戦争が開始されて数カ月,破竹の勢いを示し,連戦連勝の帝国陸海軍の快進撃に気をよくした天皇裕仁は,思わず「戦果が早く挙がりすぎるよ」と大いに喜んだ(1942〔昭和17〕年3月9日,内大臣木戸幸一にもらしたことば)。

太平洋戦争で旧日帝の支配権がもっとも大きかったころの地図

  1945年8月時点を基準にいえば,同年中には日本国内の奥深くまで及んでいた「戦火」の「戦禍」は直接,臣民たちにも降りかかっていた。結局,その「戦渦」は,その後の日本社会全体に対して,「いつまでも影響を残すもの」となった。

 あの戦争の時代における政治的・倫理的責任すべての,そのまた頂点に,まさしく君臨・鎮座していた昭和天皇が考えていたことといえば,戦後において自身だけがいかにうまく生きのびていくか,その算段・画策でしかなかった。いい面の皮にされたのは,それまでこの帝皇を「熱誠をもって」神のように敬ってきた「旧帝国市民」たち〔の生命と財産〕であった。

 しかし,昭和天皇は敗戦(終戦)の日の前日,殊勝にもこう語っていた。「自分はいかになろうとも,万民の生命を助けたい」。ところが,敗戦後におけるこの人物が実際にたどっていった軌跡をみると,およそ自分の利害以外は,まったく「眼中になかった」。諸種の記録はそのことを確実に実証してきた。

このツーショットは新聞報道に使用されなかった写真の一葉である
その理由は裕仁の左足の位置・格好にあった

 その意味では,1946年1月1日にわざわざおこなった彼の「人間宣言」は,この宣言という行為そのものも含めていうに,「彼もとても平凡な1人の人間であった」事実を正直に表現していた。このさい,もともとけっして〈生き神様〉などではなかった彼の事実を,われわれはあらためて確認してできる。もっとも,これほど空虚な念押しはないといえそうだが……。

  20世紀の不幸と悲惨の歴史を創成していき,これを蓄積させてきたのが,本当の「日本の天皇」の姿であった。

 敗戦以後にあっても,彼がそのまま「天皇の地位」に座することを許してきた「日本国民」の〈民度〉,いいかえれば「民主主義の理解度・実践度」の真価は,21世紀のいまとなってみれば,なおさらのこと根柢よりみなおされる必要がある。
 
 まず,そのための反省をしたうえで,日本政治の根本的な改革を実施するという観点こそが,日本の天皇・天皇制の存在意義に対置されねばならない。


 ※-5「蛇足的言及」

三浦俊彦は「政治的には『敗戦』という言葉が正しく,論理的には『終戦』という言葉が正しい」と主張していた。しかもこれは,あくまで形式「論理学」的に論じたつもりの文句であった。

 註記)http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/i-believ200602.htm 「わが信条」。この註記は当初,2006年2月現在において参照しえた資料として,その住所:リンク先を参照してあったものだが,本日(2024年4月26日)の再述に当たり,その住所・リンク先を再度確認してみたところ,現時点では削除状態。

 だが,どう考えても意味不明でしかない屁理屈が残されていた。「政治の論理」でいえば,あの「日本の戦争のこと」は,終戦であっても敗戦ではないといえるのか。その「論理の論理性(超論理さ)」の程度に即して正直にいえば,敗戦もまた終戦でありえて,自然な観方になる。

 「終戦」は確かに「勝ち戦」も「負け戦」も含みうるが,「敗戦」はなんといっても「負け戦」であり,けっして「勝ち戦」を意味しえない。

 「敗戦」を「終戦」のうちに丸めこめんで語ろうとするのは,「負け戦」そのものを負け惜しみ的にはぐらかすための修辞上の工夫であった。そのように語ることには,それ相応に「特定の含み」がこめられていた。

「負け戦」では元も子もなかったはず

 あの戦争は負け戦ではなく,ともかく「日本かく戦えり」なのだ(旧大日本帝国はあのように戦ってきた)と,抗弁したい気持ちは理解できなくはない。だが,1945年夏までの記憶を,その種の「反論風の対抗論理」を充ててカタルシス的に浄化させ,精神心理面で主観的には克服できた気分になれている人びとが,少なからず存在してきた。

 補注)カタルシスとは,心の中に溜まってしまったネガティブな感情を開放(解放)することで,心に存在する重苦しい嫌な気分が浄化されることを意味する。 語源はギリシア語の「katharsis」,英語では「catharsis」と表記される。

 昨今,現在の自衛隊3軍のなかでは「大東亜戦争」という用語が好まれて使用されているという事実が,ニュースになっていた。いうなれば,21世紀の現在における話題としてだが,「20世紀における〈日帝の戦争史〉」に関した歴史理解が,その「日本かく戦えり」という観念にまで通底する事実,しかも靖国神社をめぐり「明治期までへの先祖返り」が郷愁されている現状が,問題になっている。

 昭和天皇と,敗戦を機に敗戦神社となっていた「督戦神社としての靖国神社(官軍神社)」とのつながりは,敗戦後の日本社会においてもなお,それは「A級戦犯(賊軍?)が合祀された1978年10月17日」以前の時期までならば,つまり昭和天皇による「1975年11月21日の参拝(親拝)」までは,ひとまずなにも問題なく確実に持続されていた。

 しかし昭和天皇は,その最後の靖国参拝を最後に,死ぬまで九段下のこの神社に足を向けなかった。この事実に関した彼の意思には,まことに確固たる性質のものがあった。息子の平成天皇,孫の令和天皇も祖父のその意思を忠実に守っている。

 ところが,昭和天皇のその気持ちを弁えることもないまま,靖国神社が敗戦という出来事を境に,実質的にはその国家神道的な意味を完全に喪失させた。

 旧・国家神道のためのこの陸海軍の直営になるこの神社は,本来「勝利・督戦・官軍のため神社」であるほかなかった宗教的な特徴を有していたゆえ,敗戦後になってみれば,その特徴はすっかり揮発させられていた。

 靖国神社が毎年恒例行事として開催する「みたままつり」(7月13日から16日)は,この神社本来の国家神道的な由来やその個性を隠すために,つまりいかにも「民俗風」に神社の縁日を演出する方途でもって扮装はしているものの,その本当の狙いはなんであったか? 

 それは,「旧大日本帝国軍」の英霊とみなされ,合祀されている「怨霊」たちを,なんとしてでも「英霊」という範疇のなかに定めておきたい,観方を変えれば,九段下の「大きなかご」のなかの「青い鳥」的な霊的存在として意義づけておきたい,とでも表現したらよいその下心にみいだせる。

 そのたぐいの裏事情にまではとうてい理解のおよぶはずがない「一般国民」側における「靖国認知度」は,かくべつ反省されることもなしに,今日にまでもちこされてきた。

 三浦俊彦の「戦争論理学」そのものに対するさらなる高度な分析のためには,「論理(を推進させるための)政治学」の見地が「政治(をその根幹からみなおすための)倫理学」の立場も要請していた。

 というのは,論理そのものを割り切っていく度合は,その度を超えて過ぎることになれば,必然的にものごとの本質から遊離していくし,そうなればさらに,つい無理筋の観念的な操作に走りがちになるからであった。

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