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19世紀に大日本帝国憲法と皇室典範で「古俗の祭天」を「明治の大典」にすり替えた21世紀の日本が朽ちていく現状

 ※-1「古俗の祭天」が「明治の大典」にすり替えられ,明治期において発祥させられた「国家神道と皇室神道という宗教装置」が抑圧してきた教派神道・民俗神道

 a) 21世紀になってもなお,過ちの「国家神道」観を振りまわし,日本の政治に悪影響を与えてきた日本会議という政治団体が存在する。その社会的害悪性が,昨今の「宗教問題の日本的な状況」に固有である課題=弊害とみなされ,批判的に討議される必要がある。

 付記)冒頭の画像は,末尾に文献案内がある本の表紙カバーである。
 付記)この記述の初出は 2016年06月04日,本日 2023年5月26日改訂。

 補注)日本会議とはなにか。ここでは,つぎのような説明を借りておきたい。図解2点もさきにかかげておく。

日本会議組織・人脈図解
神道政治連盟と日本会議

 〔上掲の表のなかに出ている〕国会議員懇談会には衆参両院の約290人が所属する。安倍晋三首相が特別顧問を務めてもいた,閣僚ら政権中枢が役員に名を連ねる団体。

 憲法改正運動では〔たとえば〕,日本会議系の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が〔2016年〕9月,全国縦断キャラバンを開始した。

 天皇陛下の生前退位をめぐる皇室典範改正論議についても,小堀桂一郎・東大名誉教授(日本会議副会長)や,百地章・日本大学教授(同政策委員)らが積極的に発言している。

 註記)「朝日新聞デジタル トピックス」『朝日新聞』https://www.asahi.com/topics/word/日本会議.html の解説三章。

日本会議

 b) 日本会議がこの国の民主主義国家体制を破壊する事由

 その 日本会議の時代錯誤と無知蒙昧,デッチ上げられた明治帝政時代の「破滅した国家観」を郷愁したやまない宗教的反動性に,宗教本来の真意義はみいだせない。

 その 日本の古きよき伝統を破壊する日本会議,その明治帝国主義風の幻想的な国家神道路線は時代錯誤であり,百害あって一利なし。「明治の大典」の本性・核心が「古俗の祭天」にあると喝破した久米邦武が,天上から笑いかけているが,むしろ「本当は嘲笑し,かつ憤怒している」のではないか。

久米邦武・老年期画像
久米邦武・壮年期

 その 皇室にのっとられた「伊勢神宮」,かつて,日本国内のみならずアジアの人びとの「心のなか」にまで宗教対立をもちこんだ「日本のエセ神社観」。

 その 古代史風の大型古墳をわざわざ復活させた明治天皇陵,そして同じように孝明天皇陵まで造営した倒錯の「陵墓」思想が,20世紀から21世紀の現代にまで継承されている光景。

【参考画像資料】 現在すでに,平成天皇夫婦用に準備されている「陵基」(下図では左側が平成天皇夫婦のために造営されている敷地)に関連する画像資料を,以下に3点紹介する。なお,同夫婦のための墳墓は,まだ建設されていない。死去した時点に配慮される手順である。

 以下は,1枚目が鳥瞰の視点からの作図となり,2枚目と3枚目が航空俯瞰的な作図と写真そのものである。いずれにせよ,実際の手順としては,平成天皇夫婦の他界を待って造築と建造の工事が着手されるはずと思われる。現代史に生きる古代史的な陵基の建設が予定されている。

『週刊朝日』2013年11月29日号,25頁から
武蔵野陵墓地
グーグル・マップ画像

 その 敗戦が壊滅させたのはその明治期帝国主義であった。それ以前における大和国ではなかった。にもかかわらず,なぜか〈明治期だけを懐かしがる愚か者たちのエセ神道観〉は,日本古来から伝わる神道宗教ではなく,邪道・異教としての国家神道・皇室神道を妄想しなければならないのか。
 

 ※-2 神社宮司が日本会議や神社本庁を批判

 まず,宮島みつや「現役の神社宮司が『日本会議や神社本庁のいう伝統は伝統じゃない』『改憲で全体主義に逆戻りする』と真っ向批判」『LETERA』2016.06.01 07:00,https://lite-ra.com/2016/06/post-2296.html という記事があったので,これを大いに参照する記述を,以下に延々と展開することになる。

 当時,以下に言及する『週刊金曜日』2016年5月27日号を,入手する機会(きっかけ)が失っていたところ,『リテラ』のこの記事を読んで,あらためて,購入する気になった。

『週刊金曜日』2016年5月27日号

 ところが,その2016年6月3日の時点でこの『週刊金曜日』2016年5月27日号はすでに売り切れていた(なお,前後する話は当時の出来事であったので念のため断わって起きたい)。

 そこで古本での購入を考え,Amazon 通販をのぞいてみたが,ヒトの足下をみたかのように,定価を大きく上回った値段で売り出されている。とても買う気にはなれないので,地元の公立図書館で借りて読むことにした(いまのところ順番待ちであるゆえ,実際に手にとるまではまだ日数がかかりそうである)。ともかく,その後現物を借りることができたので,必要な部分をコンビニにいって複写しておいた。

 追記)現在(本日は2023年5月26日)の時点で再度,この『週刊金曜日』2016年5月27日号が,古本相場ではいかほどの値段になっているか調べてみたところ,いまもなおずいぶんな高値が付けられていた。再度,購買意欲を失った。

追記

 だが,幸いにも,以下に参照する『リテラ』の記事が,この『週刊金曜日』5月27日号掲載の該当記事から,要所にある文章を拾うかたちで議論をしていた。ということで,このままの状態でいきなり,関連させて論じたい内容をとりあげ記述をおこなっても,支障はなさそうである。

 以下では a) b) c) など符号を付け,なるべく分かりやすくするための体裁もつけて記述する。

 a) 安倍政権〔ここでは第2次政権時のこと〕ともつながりが深い日本最大の右派団体「日本会議」が,いま,出版・言論界で注目を浴びている。今〔2016〕年5月には,著述家の菅野 完氏がウェブメディア “ハーバー・ビジネス・オンライン” で,昨〔2015〕年2月から連載していた論考を書籍化した『日本会議の研究』が発売。

菅野 完

 書店に並ぶ前から,椛島有三日本会議事務総長の名義で,版元の扶桑社に出版差し止めを要求する申し入れ書が送られるなどし,大きな話題になっている。椛島氏は,菅野氏が同書で日本会議の中枢に座る「生長の家原理主義」の1人として名指しした人物だ。

 言論活動に対して,それが巷間に出る以前から「抗議」と称して差し止めを要求する。これは明らかに言論,出版の萎縮を狙った威嚇行為だ。断じて許されるものではない。

 しかし,日本会議側がいくら圧力をかけても,昨〔2015〕年以降,メディアは日本会議を大きくとりあげるようになった。新聞でもたびたびとりあげられるようになり,追及の動きは止まることはないだろう。

 さて,安倍晋三内閣の閣僚のうち大部分が「日本会議」に名をつらねている事実があった。日本会議については,以下のような引用をもて,説明に代えておく。

   ★ なぜ報道されない? 安倍首相も属する
          極右団体『日本会議』が政治を牛耳ってる ★

 前段に類似の画像資料(『週刊朝日』のそれ)をかかげてあったが,「日本会議」などに参加している大臣たちの一覧として,つぎに,さらにくわしい所属を教示する表を参照しておきたい。

 これは,第3次安倍改造内閣時における一覧表であり,神道議員連盟や靖国議員(みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会)などに所属する議員たちの氏名と,その所属先が一覧されている。

第3次安倍改造内閣の各種団体関与一覧

 このなかには,お付きあい程度での参加者もいるとは思うが,まさしく安倍晋三政権の極右反動性を如実に表現している。

 b) こうしたなか,当時,目を引いたのが『週刊金曜日』(金曜日)2016年5月27日号の特集「日本会議とは何か」であった。同特集には,『証言 村上正邦』などで日本会議のなりたちを記したジャーナリスト・魚住 昭氏や,一水会元代表の鈴木邦男氏,右派の歴史修正主義等を研究してきた能川元一氏などが寄稿しているのだが,とくに注目したのが,現役の神社宮司である三輪隆裕氏へのインタビュー記事だ。

 補注)三輪隆裕は自身のブログ中で,「国家神道の成立とその背景」という論題になる〈韓国におけるIARF世界大会の講演原稿〉(初出,1996年4月26日)を公表していた。このなかに三輪の基本的な考えが表明されている。この主張も後段で参照することにした。

 註記)三輪隆裕「国家神道の成立とその背景」『青洲山王宮日吉神社』2013年1月26日,http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66 この記事はさらに,後段で全文を引用している。

 たいへん有益で勉強になる解説がなされており,一読の価値があるゆえ紹介してみた。本日のこの記述もだいぶ長文になっているが,面倒でもそれを読んでほしいところである。

 三輪隆裕宮司は愛知県・清洲山王宮日吉神社の神職56代。また周知のとおり,全国約8万社の神社を統括する宗教法人「神社本庁」は,日本会議と密接な関係にあり,神社本庁統理や神宮代宮司らが顧問として日本会議の役員に名を連ねている。

 だが,三輪宮司のインタビューを読むと,神社界全体が日本会議の推し進める “戦前回帰” 的な運動に賛同しているわけではないことが,はっきりとわかる。

 補注)神社本庁に関する解説文として,公益財団法人日本宗教連盟に紹介されている「神社本庁との同文」を,つぎに紹介しておく。

 神社本庁は,伊勢の神宮を本宗と仰ぐ全国約80,000社の神社を包括する団体として,昭和21〔1946〕年2月3日,全国神社の総意によって設立されました。

 昭和20〔1945〕年,我が国が連合軍のポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた後,進駐してきた連合国軍総司令部は矢継早に日本改造に着手,その一貫として昭和20年12月15日に「神道指令」を発し,神社の国家からの分離を命じました。

 そのため神社界は,当時民間の神社関係団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の3団体が相寄り,短期日のうちに占領行政に対処し,新たに「神社本庁」を設けて,道統の護持にあたることになりました。

 神社本庁の目的は,包括下の神社の管理と指導を中心に,伝統を重んじて祭祀の振興や道義の昂揚をはかり,祖国日本の繁栄を祈念して,世界の平安に寄与することにあります。こうした活動をさらに充実させるとともに,神道や神社に関する正しい認識を提供してゆくことが,一つの使命と考えております。

 また,神社本庁は地方機関として各都道府県に神社庁を置いています。神社庁は神社に関する事務をとるほか,地域活動の振興をはかる仕事をしています。神社本庁では,神社に関すること,お祭りに関する疑問などの問合せも受け付けております。

 追注)ここで疑問を提示しておく。はたして,神社本庁が「伝統を重んじて祭祀の振興や道義の昂揚をはかり,祖国日本の繁栄を祈念して,世界の平安に寄与すること」を,実際におこないえていたかといえば,完全に嘘である。

 明治以来,日本の神社は,それもとくに国家神道と皇室神道は帝国主義路線と抱合的に発展してきた,日本における古来からの神道からは大きく外れた,いわば異端でしかない宗教的特性をもっていた。

 21世紀のいまごろにもなってもまだ,このようにいかにも宗教的な普遍性を具有させているのが,神社本庁が定義(理解し観念)する神道だと唱えている。

 しかしながら,この国に大昔から存在しつづけてきた教派神道・民俗神道に向かって,あたかも異界(魔界?)から飛びこんできたような,これをより正確にいえば「江戸末期から明治時代(以降)において作為的に制作してきた」,さらに換言するならば,まさしく帝国主義路線から「鬼子のごときに登場してきた国家神道および皇室神道」でもって,日本の神道界全体を代表できるかのように説明するのは,お門違いである。

 それは,虚説を事実であるかのように騙りたがる〈事実無根の便法〉である。前段のような神社本庁の説明方法は,歴史の事実(真相)に照合するまでもなく,大きな間違いであることは容易に指摘できる。

 c) 三輪宮司は,冒頭から “日本会議は「皇室と国民の強い絆」が「伝統」だと主張しているが” という『週刊金曜日』の質問に対し,こう答えている。

 「いや,それは『伝統』ではありません。江戸時代にはごく一部の知識階級を除き,『京都に天皇様がおられる』ということを庶民がしっていたか,はなはだ疑問です。本来神社とは地域の平和と繁栄を祈るためのもので,この日吉神社でいえば,江戸時代は氏神の地域と尾張国の繁栄を神様に祈願していました。明治になって,日本という統一国家ができたので,その象徴として『天皇』を据えたのです」(『週刊金曜日』より)。

 補注)以下しばらくは,『週刊金曜日』から脱論した記述がつづく。

 われわれは,日本の宗教史における神道の歴史の位置づけをきちんと理解しておく必要がある。たとえば,こういう事件が明治時代に起きていたが,これは明治帝政にとって都合の悪い「神道認識」を学問的に抑圧しておき,真実を歪めるために,支配権力側が行使した専制力の発動であった。

 それは,冒頭の段落で氏名を出した久米邦武をめぐり起きた「筆禍事件」として説明される。   

        ▲ 久米邦武の『神道は祭天の古俗』▲

久米邦武筆禍事件(くめくにたけ・ひっかじけん)とは1892〔明治25〕年,久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」が,田口卯吉が主宰する『史海』に転載されたのをきっかけに問題とされ,久米が帝国大学教を辞職させられた事件である。

 この問題は,学問の自由(とくに歴史学)と国体とのかかわり方について一石を投じ,政治に対する学問の独立性および中立性を考えさせるものになった。

 つまり,明治政治史のなかで構想(=夢想)された「日本の国体」思想を,学術的に否定するほなく,その意図を損壊させるほかなかった論文を権柄尽くでもって抑えこみ,黙らせた事件であった。歴史の事実ではなく,明治帝国主義にとって都合の悪い学問を弾圧した事件,それがこの久米邦武筆禍事件であった。

 久米邦武筆禍事件はいうなれば,明治政府の古代史疑似的な「神武創業」というデッチ上げ的なリバイバル路線,より具体的には日本を近代化・産業化させるための富国強兵・殖産興業にとって必要とされた「国営宗教としての国家神道」を否定することになった学術研究,その識見の公表を,真っ向から破砕した事件であった。類似の事件としては,喜田貞吉が南北朝問題で詰め腹を切らされていた一件が有名である。

神道は祭天の古俗

 さらに明治末期の話題となる。当時の歴史学界においては,南北朝時代に関して『太平記』の記述を,ほかの史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がなされていた。そして,これにもとづいて,1903〔明治36〕年およびび1909〔明治42〕年の小学校で使用されている国定教科書改訂のさい,「南北両朝は並立していたもの」として書かれていた。

 ところが,1910〔明治43〕年の教師用教科書改訂にあたって問題化しはじめ,とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水の発言が,これに拍車をかけた。秋水は法廷でこう喝破した。「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」。この発言が外部へもれ,南北朝正閏論が起こったのである。

 1911〔明治44〕年1月19日付の読売新聞社説は,こういう社説をかかげた。「もし両朝の対立をしも許さば,国家の既に分裂したること,灼然火を賭るよりも明かに,天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」

 「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操,即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し,ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」。

 これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかをめぐり,帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。その問題をめぐっては,野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。

 このため,政府は野党や世論に押され,1911〔明治44〕年2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。さらに,教科書改訂をおこない,教科書執筆責任者である(さきにその氏名があがっていた)喜田貞吉を休職処分とした。

喜田貞吉

 最終的には『大日本史』の記述を根拠に,明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされた。南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも,田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。

 d) 以上のこの解説のなかでは,北朝を正統としていたはずの明治政府であったものの,この天皇睦仁の裁断によって「三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされた」という,実に珍妙な結論に至っていた事実が指摘されている。

 つまり,『三種の神器を所有する者』が『正統の朝廷の主』であると認定されうると判定していた。それも,明治天皇自身(「判断される対象である」はずの人物)が,みずから結論を下したというのだから,話はややこしくなるという以前に,まことに〈珍奇〉な結論が出されていたわけである。

 事実,神社本庁が「本宗」として仰ぎたて,安倍首相がサミット開催地にゴリ推しして(G7伊勢志摩サミットのこと,2016年5月26-27日,日本の三重県志摩市阿児町神明賢島で開催された先進国首脳会議),各国首脳に訪問までさせた伊勢神宮ですら,

 明治になるまで一度も天皇が参拝したことはなく,とくに江戸時代に庶民のあいだでブームとなった伊勢参りは,皇室への信仰心によるものではなく,豊作を願ってのもので人気の “観光スポット” という意味合いが強かった。

 しかし,明治維新という “軍事クーデター” によって樹立した明治政府は,それまで民間の信仰であった神社神道を,天照大神を内宮に祀る伊勢神宮を頂点とする「国家神道」に組み替えた。

 この『神話的ヒエラルキー』のもと国民を〈天皇の赤子〉として支配しようとしたのだ。その結果が,「世界無比の神国日本」による侵略戦争の肯定・積極的推進であった。先日逝去した歴史学者・思想史家の安丸良夫氏も,著書でこのように書いている。

 伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は,一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが,そのじつ,あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて,国民の内面性を国家がからめとり,国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。

 そして,それは,復古という幻想を伴っていたとはいえ,民衆の精神生活の実態からみれば,なんらの復古でも伝統的なものでもなく,民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された,あらたな宗教体系の強制であった。

安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書〔1979年〕参照

 なお,安丸良夫『神々の明治維新』を読むと即座に理解できる「歴史の事実」がある。実はわれわれは,この本が解説する基本的な歴史の知識についてさえ,いいかえると,その「日本の神道の概要(歴史と実態)」に関してなにもしらない。そのせいか,日本会議が非合理主義・反知性主義の立場から,政治社会の空間を介して,しかも宗教的次元の立場から無理難題を粗暴に押しとおさせる隙間を提供していた。

 この「狂信的な国家神道主義」を許すような日本社会であれば再び,19世紀的な封建的な宗教観念が大手を振って闊歩しかねない世の中が出現させられるかもしれない。その意味でも日本会議に対しては,あらためて十分に知識をえたうえで用心しつつ,批判をくわえておく必要がある。ただし,このことに気づくことに,それほどむずかしい勉強はいらない。

 補注)安倍晋三が2022年7月8日に「統一教会・2世」の山上徹也に銃殺されたのを契機に,宗教団体としてはいままで,いったんは潜在化していた統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と自民党との密接な関係性が,一気に再暴露された。

 この記述全体で論じている「自民党政治のオカルト宗教との深い腐れ縁」は,積年の垢として日本の政界のなかにははびこっており,その宿痾となってこの国の政治をとことん腐敗・堕落させてきた。

「統一教会・2世」山上徹也が安倍晋三を狙撃した事件

 神道関係の著作はいくらでも公刊されており,安丸良夫が解説している日本神道史の断絶,いいかえれば,明治維新によって全面的に歪曲されつくしたその古代からの伝統が,本来(古来より)どのような特徴のものであったのかを勉強できる。

 われわれが住んでいる近隣には,国家神道でも皇室神道でもない『日本伝統の各種神社』が豊富に点在する。国家神道・皇室神道こそが本当は,明治維新を契機に以後において登場させられた,それも帝国主義を宗教的に修飾し,推進するための神道として悪用された,いわば新興宗教であったその「歴史の事実」を的確に認識しておくべきである

 e) さてここで,さらに傍論的話題を入れておく。

 NHK総合テレビ, 2016年6月4日(土) 午後 7:30~午後 8:15(45分) に放映されていた『ブラタモリ #40 伊勢神宮』(【出演】タモリ,近江友里恵,【語り】草彅剛)を,その同日夜に視聴していた。また,その次週(6月 11日)も伊勢神宮の続編が放映されると予告していた。

 その『ブラタモリ #40 伊勢神宮』の番組内容は,こう解説されていた。ただし,明治以降の関連史にはほとんど触れない内容であった。

 ブラタモリ,ついに伊勢へ!  伊勢神宮を中心に年間800万人が訪れる伊勢は江戸時代からの人気スポット。今も昔もなぜ人は伊勢をめざすのか? その謎にタモリさんが迫る!

「詳 細」 2回にわたって伊勢の秘密を解き明かす第1回目。まずは伊勢神宮の内宮を訪ねたタモリさん,地形に隠された意外な事実を発見。なんと御本殿はタモリさんが大好きな「河岸段丘」の上にあった?

 続いては20年に一度,すべての社殿を一新するという伊勢神宮最大の神事「式年遷宮」。でもなぜ 20年に一度なのか,その答えは “すき間” にあった? 1300年にわたって受け継がれる,伊勢神宮ならでは建築技術にタモリさん大興奮!  

   註記・出所)http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2016-06-04&ch=21&eid=15267&f=1081

 なお「20年ごとの遷宮」に関する解答は,この答えだけでは不十分である。もっと,基本の問題を明かしておく必要がある。

 昔から採っていた社殿の建築方法に,その理由があったのである。土台(基礎)部分の構造物を造らず,柱をじかに地面に突き立てる構造(工法)である。だから「20年しかもちにくい」だけのことである。

 ただし,それが古式からの「なにか意味のある」すばらしい伝統だと決めてある(宗教的に観念し,約束している)ので,「そうしているだけ」の話であって,建築の歴史に進歩があるかぎり,建築のしかたがもっと合理的に工夫されていけないとは限らない。

 適当にいっておくが,基礎の部分だけでも修正すれば,百年でも2百年でももつはずである。ところが,けっして「そうはしない」ところに,「この神宮の神秘なる伝統がある」というふうに,その意義づけをしたい。

 ぶっちゃけた話,ただ,それだけのことである。ここでは,それ以上の批評はしない。 また,遷宮できない時期(戦国時代)もあった事実も付言しておく。

 ここでは,以上の記述に関係する参考文献として,井上章一『伊勢神宮と日本美』講談社,2013年を挙げておく。


〔ここでようやく引用中だった記事・本論に戻る〕
 国家神道は日本の「伝統」でもなんでもない。もともと,日本の神社は寺と不可分だった(神仏習合)が,明治政府は神仏分離令(1868年)によって神社から仏像や仏具を撤去するなどし,神道を仏教の上に無理やり位置づけようとした。

 この神仏分離令は一部で廃仏毀釈と呼ばれる激しい寺院・仏教の排斥運動を呼びこんだが,こうした点について三輪宮司は『週刊金曜日』で,「明治政府は文化と宗教の破壊者です」と強く批判。

 そして,明治政府の「国家の宗祀」理論や「教育勅語」についても,「このように一つの価値観と規律で国民をしばる,などという発想は,多神教の神道にはありません」と一刀両断している。

 f) さらに批判は神社本庁にも及ぶ。三輪宮司は,国家神道が神道の歴史ではきわめて特殊であることを「いまの神社本庁には理解できないのですね」といい,このように解説するのだ。

 「戦後,占領軍の『神道指令』で国家神道は解体されました。その後,神社は生き残るために宗教法人・神社本庁として再出発しますが,当時の神道界のリーダーは,ほとんど明治時代に神主になった人だったため,それ以前の本来の神道ではなく,明治政府が作った神道が『伝統』だと思ってしまった。その感覚が,戦後70年経ってもまだ残っているのです」(『週刊金曜日』より)。

 実際,神社本庁は「伝統」の御旗のもと,機関誌「神社新報」で新たな憲法を制定して軍の「統帥権」を天皇に帰属させるべきだという主張すらしている。これは大日本帝国憲法で明文化されていた,すなわちどう考えても「近代的」なシロモノ。

 要するに神社本庁は,偽りの「伝統」を振りかざして,戦中に軍部が暴走した反省から日本国憲法に記した「文民統制」すら廃止すべし,といっているわけだ。

 補注)明治維新が成るに当たっては,偽勅を捏造したり錦の御旗を勝手につくって使ったりして使っていたのが,岩倉具視などその後において明治政府の中枢部を担っていく人物たちであった。彼らは〈政治工作=策術・陰謀〉の優れた担い手であった。この事実も,歴史研究家がすでに鮮明に説明してくれている「歴史の事実」である。

〔記事本文に戻る→〕 このことひとつとっても,神社本庁のいう「伝統」は単なる政治的装置でしかないことは自明だが,さらに三輪宮司は,神社本庁や日本会議が憲法に組みこむことを求めている「伝統的家族観」の復活や,2012年の自民党憲法改正草案にも含まれているいわゆる「家族条項」の本質についても,このように喝破している。

 「家族主義というのは,せいぜい通用するのは家庭内とか友人関係,つまり『顔』の見える範囲の社会です。それを国家のような巨大な社会まで拡大したら,危険ですよ。(略) 家族主義を国家まで拡大すると,権威主義や全体主義となります。『良いリーダーのもとに素直な人びとが結集して良い社会を作る』。これが一番危険です。

 戦前のファシズム,あるいは共産主義もそうです。カルト宗教なんかも同じです。いまのイスラム原理主義もそうです。民族派の人たちが主張するような社会になったら,また昔の全体主義に逆戻りしますよ」(『週刊金曜日』より)。

 補注)この批判は統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の宗教的主張にも完全に当てはまる。ところが,この統一教会に支持・援助されて国会議員や地方自治体の議員に当選した者たちが,明治民法と抱き合わせ心中に失敗したごとき精神状態に呪縛されたまま,封建遺制的な家・家族観を昂揚させているとなれば,21世紀におけるまさに奇観である。

 三輪宮司は,改憲について「日本の独自性とか,妙な伝統とかいったものを振りかざして,現代の人類社会が到達した価値を捨ててしまう可能性があるような憲法なら,変えないほうがよい。日本会議の改憲案は世界の共通価値と離れ,時代錯誤の原理主義と権威主義に満ちている」と語る。

 神社本庁は目下,日本会議と連携して改憲運動を活発化させており,今〔2016〕年の年始にも傘下の神社の一部で改憲賛成の署名運動を展開していたが,三輪宮司によれば,「ほとんどの神社の宮司は,本庁から書類が来ているのでそのようにしているだけ」という。事実,本サイトの記者が年始に都内神社を取材し,職員に聞きこみをしたさいには,「神社庁のほうで決まったことで……」との答えが複数聞かれた。

 g) 要するに,神社界全体が,いや,たとえ神社本庁の傘下の神社であったとても,けっして日本会議らが企む明治復古的な改憲に諸手を上げて賛同しているわけではないのだろう。むしろ,三輪宮司が『週刊金曜日』で解説しているように,国家神道が “偽りの伝統” であることを熟知している宮司や職員の多くは,安倍政権による改憲に内心危機感を覚えているのかもしれない。

 だが,神社本庁は近年,個別の神社の人事に対して強権的な介入を繰りかえすなど「傘下神社への締めつけを強化している」(全国紙社会部記者)との声も漏れ伝わってくる。参院選後に安倍首相が着手するとみられる憲法改悪の前に,1人でも多くの神社関係者が日本会議,神社本庁に反旗を翻して欲しいが,残念ながらそう簡単にはいきそうにないだろう。

 註記)以上に参照したリテラの「本文記事」は,つぎから引用。
     http://lite-ra.com/2016/06/post-2296.html
     http://lite-ra.com/2016/06/post-2296_2.html
     http://lite-ra.com/2016/06/post-2296_3.html


 ※-3 菅野 完『日本会議の研究』扶桑社新書,2016年5月をめぐって

 以下に引用する記事「出版差し止め要求に波紋…『日本会議の研究』著者が怖れていたこととは?」は,『週刊プレイボーイ』のウェブ版では,2016年5月16日11時00分((2016年6月3日 18時04分 更新)に掲載されていた(原文の引用は末尾にかかげた註記から)。

 その記事では,『日本会議の研究』の著者である菅野 完(たもつ)自身と,本書出版に関する事情が解説されている。

 --安部内閣の閣僚の多くが,その関連組織(日本会議議連)に所属し,政策にも大きな影響を与えているとされる,保守系市民団体「日本会議」。この組織の実体に迫った一冊の本がいま,大きな注目を集めている。それが菅野 完(たもつ)氏の著書,『日本会議の研究』(扶桑社新書)だ。

 発売前から重版が決定し,発売直後から品切れが続出。中古本市場では一時,定価の十数倍もの値段がつく一方で,出版元には「日本会議事務総長・椛島有三」の名義で,直(ただ)ちに出版の差し止めを求める申し入れ書が届くなど,当の日本会議もカンカンのご様子。まさに話題騒然だ。

 渦中の菅野氏がこう語る。「こうして,この本(『日本会議の研究』)に大きな反響をいただくことは大変ありがたいことですが,実をいうと少し怖い気持もあります」と,菅野氏は現在の心境をこう話しはじめた。なにか身の危険を感じているのか?

 「いえそうではなくて,私がこの本のもとになった扶桑社の情報サイト『ハーバー・ビジネス・オンライン』での連載『草の根保守の蠢動(しゅんどう)』を書き始めた当初は,『単なる陰謀論にすぎない』という見方をする人が多かったにもかかわらず,こんなに売れている。

 ですから,どういう人がどういう目的で,この本を読んでくださっているのかが,まだわからない。それが怖いというのが正直なところです」それとは逆に胸をなでおろす出来事もあったという。

 「昨〔2015〕年2月から連載を始めて,週プレも含めていくつかの雑誌で日本会議に関する記事が組まれ,私と同じ問題意識をもつ人が増えていることは感じていました。しかし,その一方で新聞やTVはこの問題について沈黙を続けていた。私が参考にした資料や取材でえた情報の多くは,大手新聞の政治部記者ならしらないはずがないのに,なぜ彼らはこの問題に触れようとしないのか?

 補注)安倍晋三の思考方式が日本会議風であるという1点は,たしかなのである。この政治・事情を顧慮すれば,ここで菅野 完が指摘する奇妙な言論界の現象,「大手新聞の政治部記者ならしらないはずがないのに,なぜ彼らはこの問題に触れようとしないのか」という疑問は,簡単に氷解するはずである。いま〔2016年段階のことだが〕はその程度の新聞記者たちが圧倒的な多数派である。

 参考文献)途中になるが,マーティン・ファクラー『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』双葉社,2016年。ファクラーの本は,2020年に公刊したつぎの著作もある。

 たったひとりで走りつづけるマラソンのように『もしかしたら自分は大きな勘違いをしているのでは?』という不安と,この1年ずっと闘いつづけてきたのです。その意味では,今〔2016〕年3月に朝日新聞が日本会議の特集記事を掲載して,『ああ,俺は間違ってなかったんだ』とホッとしました。日本会議からの『出版差し止め申し入れ』も,ある意味そうでしたが」。

 1年近く前,本誌が菅野氏への取材をもとに特集記事を掲載した当時は,まだ名前すら一般的にしられていなかった「日本会議」の存在。それがなぜいま,これほど注目を集めているのか?

 そして安倍内閣が推進する憲法改正への動きを支える,この団体は一体どこから生まれたのか? その主要メンバーが学生運動時代から影響を受ける新興宗教団体とは。

 月曜発売の『週刊プレイボーイ』22号(2016年5月16日発売)「これが憲法改正を陰で支配する『日本会議』の正体だ!!」よりでは,菅野氏へのインタビューを通じて,日本会議の正体と影響力の実態に迫っているので,是非ご覧いただきたい。
 註記)http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20160516/Shueishapn_20160516_65330.html?_p=2


 ※-4「国家神道の成立とその背景」-宮司 三輪隆裕「国家神道の成立とその背景」『青洲山王宮日吉神社』2013年1月26日-

 以下〔三輪隆裕の言〕は,IARF世界大会が1996年に韓国円光大学で開催された折に,国家神道についての基調講演として発表したものです。その後,『中外日報』の巻頭に載せていただきました。

 補注)『中外日報』とは日本の宗教・文化専門紙である(つぎのネット・住所を参照されたい)。なお,以下の引用では若干,文書をよみやすくするために補正をくわえた。

 --文中に,江戸時代の修験者数が17万人との記述があります。当時の修験者は,世俗の生活をしながら,ときに先達となって人びとを山岳に導いていました。この数字はその後,金峰山修験本宗の田中管長によってずいぶんとりあげていただき,話題となりました。

 1) 国家神道の成立とその背景。

 国家神道を語ることを神社関係の学者に望むことはむずかしい。

 その原因の第1としては,国家神道の言葉そのものが占領軍による日本研究のなかから導かれたものだからといって,これを語ることを拒否する態度があります。

 その原因の第2としては,国家神道の概念規定が不明確なため,神道の基本的な属性あるいは民族のエートスとしての天皇信仰の否定に踏みこむことを恐れる姿勢があります。

 もっとも,民族のエートスといえる〔ものが本当に国家神道にあるか〕どうかは,はなはだ疑問ですが。

 私は,学者ではないので,通常しられていない事実を積み重ねて新しい結論を導くようなことはできませんので,ごく常識的な歴史事実の積み重ねによって,全体の流れを説明するといった方法で,国家神道を語りたい。

 最初に国家神道を規定します。

 明治政府の手によって作り出された,法制度的には宗教でないとみなされた「神道の制度と体系」を国家神道と呼びます。しかし,一般に国家神道と呼ばれるものは,しばしば,日本を戦争に駆り立てた狂信的な神国思想を準備したものとされます。ここでは,それに当たるものはなにかということにも注意をもちたいと思います。

 明治時代は,日本の近代化をしゃにむに推進した時代でありました。したがって,前近代の特徴ともいうべき迷信的な世界観と慣習を打ちこわして,近代合理的な考え方を生活の基礎とすることを促すことが大事でした。

 また,明治は,統一国家としての日本を作り上げることが格別必要とされた時代でした。したがって,国民に意識統一のためのシンボルを提供するとともに教育をおこなうことが,なによりも必要でした。

 この要求を満たすための手段として作り出されたものの重要なひとつが,国家神道であります。

 2) もう少し細かくみていきます。

 江戸時代のなかごろから国学という学問が現われます。俗に3大人といわれる,賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤あるいは荷田春満を最初に入れて4大人というのでしょうか。ともかくそういった人たちが,日本の古典である『古事記』や『日本書記』の研究によって,日本の固有の精神や生活,政治制度に至るまで研究し,復古思想を唱えたことが,封建制度の体制を変革する思想・イデオロギーを準備します。

 ここで彼らは,現状の日本が仏教や儒教といった外国の学問に侵されて,本来の日本精神を失っていると考えます。当時の神社は,ほとんどが仏教と習合し,シンクレチズム(syncretism)ですね,神社にお坊さんが入りこんで,実権を握ったり,神社には必らずといっていいほどお寺や仏像がくっついていました。

 これは当時,権現といって,仏教のなにかの仏様が日本の神様となっていらっしゃるという思想が一般的であり,それぞれの神に相当する仏が境内にまつられたり,仏教の神名,いい方が妙ですが,インドの神様の呼び名で神社を呼んだりしていました。そして,お寺には,同様に神社が一角にまつられておりました。これをその寺の鎮守といっていました。

 私の神社は,江戸時代,境内にお薬師様を斎っておりました。また,山王宮と称していました。山王とは,山王権現,つまり山の霊魂が神として出現したというほどの意味です。津島神社は天王,八坂神社は祇園と呼ばれていました。祭神の須佐之男命は,仏教でいう,祇園精舎の守り神の牛頭天王と考えられていたためです。

 日本では,仏教が,聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来,本来の伝統宗教である神道,そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに,さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教,占いや呪い,そして仙人思想をもっている道教を合わせ,それらが,1千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。

 補注)筆者の住む〇〇市にも寺社がたくさんあるが,そのなかには,お寺のすぐ横に小さい神社がくっついているかたちで「存在(共生)している寺院と神社」もみかけることができる。

 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか? 私はよくイメージが湧かないのですが,少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教はご承知のとおり,江戸幕府の手で戸籍管理を任され,檀家制度を整備しますので,大変強い力をもっていました。

 しかし,民衆の宗教的な情念は,私は,山岳信仰・修験に強かったのではないかと思っています。呪術・占い・修行による超能力の獲得,霊界との交流,こういったことを内容とする修験は,明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。

 修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが,これは逆に,修験が民間信仰のなかでいかに勢力をもっていたかの証ではないかと思います。この当時,修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人,お坊さんの数も,神職の数と大差ないはずですので修験者の多さが理解できます。

 3) 国学は,文献によって,学問を成立させましたので,現実妥当性の薄い結論を導きます。

 当初,倒幕は,国学が提唱した,尊皇つまり天皇への敬愛と攘夷つまり異物の排除という二大思想に貫かれていましたが,結局,明治政府は,開国という近代化の道を選択しました。しかし,攘夷の思想はその後,臥薪嘗胆,あるいは和魂洋才となって,最後は,日本がアジアの盟主となって西洋文明と対決するという思想に結びついていきます。

 一方の,尊皇については,藩ごとにわかれていた日本を統一国家とするために,天皇を国の中心に据え,その意味では,尊皇は達成されましたが,国学者の説いた王政復古は達成されず,王道政治ではなく,近代的な法治国家の国家元首としての天皇の名による官僚政治が始まりました。

 しかし,思想としての王道論(皇道論)は,現在もなお神社界や右翼の思想に根強く存在しており,この王道政治と現実の法治との矛盾や意識のズレが,大東亜戦争に入っていく日本政府の無責任体制を作り上げたと考えられます。

 補注)安倍晋三君〔元首相〕の口にした「戦後レジームの否定・脱却」はどうやら,明治期への回帰を願っていたらしいが,21世紀の現段階において,それもアメリカ国への従属体制にどっぷりはまっているままの日本国が,それも「ペリー開国」当時の日本にまで戻れるわけがない。その意味では支離滅裂というか,本当に意味不明であった。

 在日米軍基地をただちにすべて撤去できなければ,安倍晋三君のいう「戦後レジームからの脱却」は,これから何十年が経ってもとうてい不可能事である。いまから,戦前の時代にこの国を戻せるわけはないのだが,その空想を口先だけといえ,ただし「本気で唱えられる」そのクソ度胸だけは買える……。

 ここで,神社を管理する組織の変遷を考えてみます。当初,神武天皇創業の昔に帰るとして考えられた王政復古は,具体的に,明治元〔1868〕年,世俗政治を司る太政官と並び,神祇官を設置することから始まりました。

 しかし,明治4〔1871〕年には神祇省に格下げされ,明治5年には教部省となり,明治10〔1877〕年には,内務省社寺局となり,明治33〔1900〕年,社寺局を神社局と宗務局に分離し,宗務局はのちに文部省に移管されます。

 すなわち,どんどん組織が,世俗政治の組織に比べ,縮小し,下位におかれるとともに,神社は,宗教と分離され,内務省の管理下におかれていくことが判ります。

 明治政府は当初,神祇政策として,祭政一致・神仏分離・大教宣布を大きな国策としましたが,それらの国策を進言した神道の活動家達は,明治3〔1870〕年には政府中枢と対立し,しだいに追放されたり,地方へ追いやられたりします。[王政復古の大号令]を起草した玉松 操や矢野玄道,角田忠行などがその例です。

 祭政一致は文字どおり,神祇官と太政官を対等のものとする考え方ですが,近代国家に妥当するはずがありません。神仏分離はすでに幕末,神儒習合神道と復古神道の流行により,薩摩・水戸・岡山の諸藩では排仏がおこなわれ,明治元年,神仏分離令が発せられるとともに,神社より仏教色を廃する排仏棄釈の運動が起こりました。

 宮中の祭祀も仏式から神道に変わりました。しかし,当然,仏教側から反発が起こり,とくに,長州の討幕派へ資金援助をした真宗西本願寺からの反対に考慮し,わずか数カ月後に太政官は排仏を犯罪と見做す告示を致します。また,別当職の還俗も認められました。

 大教宣布は,三条の教憲( 1 敬神愛国の旨を体すべきこと,2 天理人道を明にすべきこと,3 皇上を奉戴し朝旨を遵守すべきこと)にもとづき,天皇が国の中心であり,日本は神の国であることを判りやすく国民に教育する運動ですが,これは,当初,国学者や儒者,神主によりおこなわれ,のちに仏教界の希望により僧侶をも動員しておこなわれようとしますが,遠からず無理であることが判明します。

 その後,このような国民教育は,学制の制定とともに,教育勅語と小学校初等教育のなかでおこなわれるようになります。

   明治2年 宣教使の職制を定める。明治3年大教宣布の詔勅。
   明治5年 教部省設置と三条教憲設定,仏教参加。
   明治8年 神道事務局設置,明治9年黒住教,神道修成派の独立。
   明治15年 神官教導職分離,神官の葬儀関与を停止。
        神宮教,出雲大社教,扶桑教,実行教,神道大成教,
        神習教が独立。
   明治17年 神仏教導職の廃止。
        神道大教,御嵩教,金光教,天理教をくわえ,神道
       十三派という。

 明治2〔1869〕年には社寺領の上知命令が出され,神社を国家の宗祀として神宮以下神社の世襲を廃し,神社の社格制度を定めます。また明治3〔1870〕年,氏子仮改め制度の新設がおこなわれ,氏子守り札が明治4〔1871〕年より実施されます。明治6〔1873〕年には廃止され,近代的な戸籍制度が成立します。

 仏教の大教宣布参加に功績のあった真宗僧侶の島地黙雷は渡欧し,各地の宗教事情を視察し,明治6年に帰国ののち,政教分離・信教自由の論を立てます。このとき島地は,建白書のなかで「神道は皇室の治教,惟神の道であって,宗教ではない」とします。

 この説は,明治の開明派の政府要人の考えと相通ずるものであり,結局,明治政府は神道を宗教より独立させ,国家の宗祀として内務省の管轄下にて制度化することは,先に述べたとおりです。

 明治10〔1877〕年前後の佐賀の乱・神風連の乱を経て,西南の役にいたるあいだに熱烈な復古主義者は排され,明治12〔1879〕年には「府県社以下祀官祀掌の等級を廃し,身分取扱は一寺住職同様たるべし」との太政官通達が出されます。

 すなわち,官国幣社と府県社以下はここで,確実に分離されていくのです。明治17〔1884〕年には神官の宗教的行為が禁止されます。しかし,府県社以下の神官の葬儀関与などは黙認されていきます。

 4) ここで,神道事務局神殿に奉斎する祭神の論争について触れておきます。

 明治12〔1879〕年,神道事務局の神殿に幽世の主祭神出雲の大国主神を合祀するかどうかで神道界に大論争が起こりました。当時は,神官が神道を国の宗教として認めさせようとしていたことが,それで解ります。この後,神道のセクト的分裂を避け,神道を非宗教として祭政一致の国是を守ろうとする考えの神道家も出てきます。丸山作楽がその例です。

 明治15〔1882〕年に教導職から分離された神官は,宗教活動を禁じられます。さらに,明治19〔1886〕年の神社改正案では,神宮と靖国神社を除く官国幣社への資金援助を,10年をもって打ち切るとされます。これは,神社を非宗教とする一方,政教分離の合理思想にもとづいて神社と国家をしだいに分離していこうとする考えを示します。これは,明治天皇によって15年に延長され,さらに神官の運動によって,のちに資金援助が少額とはいえ,続けられることになります。

 明治23〔1890〕年の帝国憲法制定とその後の教育勅語の発布は,明治の近代国家のひとつの完成をみることになりますが,神社の問題は,引きつづきこの国の喉に引っかかった骨のようなモノでした。

 神官たちは国家の宗祀とされた神社が,社寺局として寺院と同じ扱いを受けるのは間違いであり,明治の始めに戻り,神祇官を再興させるべく,広範な運動を明治20年代に起こします。

 明治33〔1990〕年,神社局を作ることにより,この問題はいちおうの決着をみます。しかし,熱田神宮の宮司が,県の課長にふんぞりかえられるほど神官の権威はありませんでした。政府はひたすら「神社の非宗教化」と「神官の公務員化」と「神社の形骸化」を促進します。

 明治39〔1906〕年内務省は悪名高い神社合祀令を出します。当時19万余あった神社は,明治42〔1909〕年までに4万3千の神社が合祀によってなくなります。この後も合祀が続き,最終的には昭和13年で11万社です。たとえば三重県では714社となります。

 しかし,愛知県は3521社,新潟県は5366社,こういった県は合祀が住民の反対でうまく進まなかった県です。和歌山は473社,南方熊楠が反対したわけが解ります。なお,現在,宗教法人格をもつ神社は8万2千,内2千は単立〔の神社〕です。

 官僚は神道を国家の礼典と解し,神社を歴史的な偉人の記念堂のようなものと解し,神官の思想的な表明を禁止し,政教分離の近代国家を作ることに熱心でした。しかし,祭政一致になる明治の建国思想より演繹される国体観念は,公教育や教育勅語の渙発によって全国民的な常識となった。

 だが,それは結果として,社会の経済的な窮乏と腐敗により,在野の狂信的な神道思想を胚胎させることとなります。多くの昭和初期のテロ事件の実行者が “こうした神国思想,皇道思想の持主” でありました。

 5) 以上みてきたように,戦前の日本の国家神道と一般に呼ばれるものは,単に神社の制度や組織の問題ではなく,国家そのものに成立当初から存在していた観念が,とくに公教育を通じて国民に徹底され,作り上げられたエートスであったといえましょう。

 大日本帝国は近代合理主義の制度と組織をもちながら,神勅による皇位を絶対のものとする天皇を中心に立てたことにより,けっして民主国家になることはできず,唯我独尊的な神国思想に走り,西洋流の植民地主義と日本流の同化支配によって,アジアの国々をあるいは併合し,あるいは間接支配しながらアジア諸民族のリーダーとなり,たまたま同盟国となったドイツとイタリアを除く西洋列強に戦いを挑む道を選択したのです。

 その時代は和魂洋才といいながら,日本に伝統的な,多様性を尊び,異質なものを柔軟に受け入れるよさを忘れ,発想も西洋的な絶対的な考えに走り,ついには激突してしまったのではないでしょうか。

 神道の立場からみれば,本来宗教で有るべきものが,なりゆきで宗教でないことになり,神社や神道の本来有している生き生きとした生命力が損なわれ,政治的に利用された,不遇な時代であったといえましょう。しかし,一般に当時の神官のガリガリの復古主義,あるいはことなかれ主義にはみるべきものはありません。宗教者として他に進むべき道があったように思います。

 しかしなお,現在の神社界の指導者のなかには,戦前の国家管理時代への郷愁がみえるのは残念でなりません。

  以上 1996,4,26(韓国におけるIARF世界大会の講演原稿)
  註記)http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66

 --安倍晋三政権の国家宗教思想的な背景には,ここまで話題にしてきた日本会議が控えている。このことは明々白々の事実である。民主主義とは無縁の「政治感覚」しかもちあわせない自民党議員(民進党に同類はいくらでもいるが)たちに,はたして,この国のまつりごと(政)にたずさわる資格があるのか?

 盛んに「戦後レジームからの脱却」を力説してきた安倍晋三君ではあった。けれども,賊軍神社になり下がった靖国神社(明治期に確立した国営神社であったが,いま一宗教法人)に参拝することの「歴史的に堕落・腐敗した意味」を,彼に理解しろといってもとうてい無理である。

 この日本国首相は,明治以来の「歴史(日本史)に無知のまま」,しかも21世紀における現実の政治にたずさわっていながら「戦後レジームからの脱却」だけは念仏のように唱えてきた。この姿に反映されている実相は,末恐ろしくなるほどに程度が悪く(知識・情報がないこと),低水準(品性・品格も欠けていること)である。

 --すでにだいぶ記述が長くなっている。以上の記述に関してもっとも適切な参考文献がある。ここでは,つぎの2著者の5作を挙げておく。

 赤澤史朗『靖国神社-せめぎあう〈戦没者追悼〉のゆくえ-』岩波書店,2005年。
 赤澤史朗『象徴天皇という物語』筑摩書房,2007年。
 三土修平『靖国問題の原点』日本評論社,2005年。
 三土修平『靖国問題の深層』幻冬舎,2013年。
 三土修平『頭を冷やすための靖国論』筑摩書房,2007年。

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 以下のアマゾンの通販を通して,参考文献的に紹介する本のうち,

 宮島みつや「現役の神社宮司が『日本会議や神社本庁のいう伝統は伝統じゃない』『改憲で全体主義に逆戻りする』と真っ向批判」『LETERA』2016.06.01 07:00,https://lite-ra.com/2016/06/post-2296.html は,

 つぎの最初に挙げる本,著者が「『リテラ』神社問題取材班」となっていているこの本のなかに収録されている。


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