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またまた3日坊主の日記になるのかな?

日記、というとおとなになってからは、書き始めても、いつも3日坊主で終わってしまっている。何年かたって、その3日間の出来事をふと読むと、「あー、そうだったな~」と感慨深く思うので、自分の歴史?をふり返るのに絶対書くべきだといつも思うのだが、やっぱり続かない。
おとなになったら、やはり辛いことが多いから、それを書き記すのが、またまた辛い行為、ということで続かないのかもしれない。これはまさに二重の辛さだ。でも、それを乗り越えてこそ、自分の経験を字というカタチにして表現していけるんだろう。

小学校から中学2年ぐらいまで、日記を書いていた。好きな男の子がいて、「今日、A君と廊下ですれちがって、目が合っちゃった。」とか、そんなことを書いていた記憶がある。
人間、日記をつけるのに、ときめきが必要なのだろうか。
中学校の転地学習のとき、同じ部屋で泊まっていたクラスメートに自分の日記を読んで聞かせたことがある。「日記つけててえらいねー」とすごく褒められた。
日記をつけるだけで褒められるのだと、そのときは素直にびっくりした。

このnoteでの投稿も、「日記風に」ということではじめたが、またまた3日坊主で終わるのか…?
A君に出会った時のような、ときめきがこの日常生活に現れて書き続けるだろうか?
でも、おとなになったら恋愛じゃなくても、いろんな意味での「ときめき」があるかもしれない。もしかしたら、悲しみも苦しみも、ある一種の「ときめき」として、日記を書くきっかけになっていくかもしれない。

書きたいことは実際いっぱいある。
ただそれが、自己満足で終わるのか、他の方々に読んでいただける程のテーマなのか内容なのか、それはよくわからない。

転地学習の時、日記を書くことを褒めてくれた友だちを思い出して、「書くことに意義がある」と思いながら、自己満足で書いていこう。

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