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異能β-14:  キャプテン・ナイスって誰 !?

 ある有名ドライバーの別名。キャプテン・ナイスとは1967年頃、アメリカのテレビドラマの主人公。丁度その頃のアメリカ・レース界に結構な速さでレースを席捲したドライバーがいた、そのドライバーMark Donohueの綽名

 日本Can Amで来日した時、Auto Sportsの誌面には「名手ウォルト・ハンスゲンの弟子として60年代半ばに台頭、66年に新興ペンキー陣営にエースとして加わる。 (中略) 何に乗っても速い多才ぶりを発揮、安定性も抜群。」と書かれていた。

 2014年の12月、今は無きミスタークラフトでGMPのPenske Racingのセット箱を購入したのがミニカー泥沼に引き込まれた切掛。結構な価格であったが、Penske好き、Donohue好きで購入、収集しだしたらこのセットは一寸チャチだと感じたが、それも収集癖を炙り出した一石だったのだ。

GMPのSUNOCO T-70 Lola 3 Car Set
1/43のセット、上の2台は同じDonohueが駆ったMcLaren M6AとLola T70 Coupe
下段の真ん中の車と上の右の車は同じモデルといったら!

 M. Donohueは1937年3月18日の生まれ、1972年のIndy 500 Winner、および1973年のCan Amチャンピオン。1975年、F-1 Austria GPの予選中にクラッシュ、意識はあり、会話も可能であったが、ヘリコプターの高度変化による血栓産生が原因の脳塞栓で3日後に逝去、38歳であった(これが教訓となり以後ヘリコプターでの救護には酸素マスクを付ける様になったとのこと)。

 New Jersey州のHaddon Township(ハドンタウンシップ)で誕生、Rhode Island州のBrown大学で学び、機械工学の学士を取得した(これがRoger Penskeの目に留まり、以後Penskeは工学部卒で学士となったAl Holbert等と仕事をして種々のアイデアを得たらしい。昔、仲間であったJim Hallも工学部出身でその影響を受けた様だ)。

 一般に名前が知れる様になったのは前述のWalt Hansgenのprotégé(弟子・子分・子飼い)になり、1965年のSebring 12hにFerrari 250LMで参戦したのが最初。

1/43 某名人の手作り、最初のLola T70 MECOM RacingのZerex Splでもある
写真では向かって左がW. Hansgen、右がM. Donohue
1/43 Spark(SP)製、65 Sebring 12h 参戦車
この車もMECOM Racingの所属

 1966年にW. Hansgenと共にFord MK-2の開発に従事、W. Hansgenが事故死したため、その葬儀の時にR. Penskeに声を掛けられ、彼のTeamに属することとなった。
 1966年にSUNOCOがスポンサーとなったLola T70で活躍、Can Amの最初のシーズンは優勝1回でJohn Surteesに総合優勝を攫われ総合2位であった。翌67年はUSSRCのチャンピオンとなった。

1/43 SP製 USSRCの67年チャンピオン SUNOCO Spl

 しかしCan AmではMcLarenがM6Aを開発、Donohueは総合4位で終わった。68年はMcLarenがM8Aを開発、Penskeはワークスの予備McLaren M6Aを獲得し、Bridgehamptonで優勝したが総合3位で終わった。シーズンが終わった後、日本Can Amに参戦しDNFであったが、レースでは主役であった(noteの「事実は小説より奇なり-8 ‘68日本Can Am」を参照されたい)。

1/43 Marshe Models(MM)製のM6A、奥は最初の塗装、手前はその後の塗装
手前のモデルは日本Can Amの参戦モデル、ドアに「サンスペシャル」の文字がある

 69年、新たにLola T163を獲得したが、全く期待を裏切られ、M. Donohueは無得点で終了(note 「レアモデル列伝-17 牙を研ぐ前、Lola T163」を参照されたい)、この後は72年にPorsche 917/10の開発まで待たねばならなかった。

1/43 MM製

 1967年、Trans-Amに参戦、彼が駆ったChevrolet Camaroは12戦で3勝。68年の同レースでもCamaroで参戦したが、ボディ軽量化の問題で一悶着を起こした(ボディ・シャーシを薬品処理)。70年には車をAMC Javelinに変更、レースでは3勝しシリーズ2位、71年には10戦7勝でAMCにとって初のチャンピオンを獲得した。

1/43 SP製 奥は68年、手前は69年のChevrolet Camaro
1/43 英国Boss Models   AMC Javelin

 70年代、SUNOCO Teamとしては、米国内のGT Carのレースにも積極的に参戦、73年のDaytonaやWatkins GlenにはPorsche RSR 2.8で参戦モデルも見ることができる。

1/43 奥はminichamps(MC)製のPorsche911 RSR 2.8 Donohue / G.Follmer @Daytona 24h
手前はSP製のRSR 2.8 Donohue / A.Holbert @Watkins Glen

Sportscar World Championship:SWC
 Le MansのFord VS Ferrariは1964年から始まり68年まで続いた。66年DonohueはPsul Hawkinsと組みFord Mk-2で参戦、予選11位で決勝は5時間でDNF。67年はB. McLarenと組んでFord Mk-4で参戦、予選1位であったが決勝では4位で終了した。

1/43 SP製 66年のFord Mk-2   M.Donohue / P. Hawkins DNF

23.10.14に上記モデルに別のメーカーから同モデルが発売されたので、購入した。
Make upという販売店が併設したEIDOLONEという超高額(日本製には関わらず30,000円を超える、上記Spark製は7,000円少々)で精密さも群を抜いている。
                               2023.10.15

1/43 EIDOLONE製、フロントやリアの作り等々目を見張る
1/43 Ixo製 67年 Ford MK-4  M.Donohue / B. McLaren 予選1位で決勝4位

                          (2023.08.16 追加)  

 69年のLola T70 CoupeによるDaytona 24h優勝については、note「レアモデル列伝-14  傷だらけのローラ」を参照されたい。
70年代のレースはSUNOCO Ferrari 512Mで参戦。
ボディからシャーシまで全てバラバラにして航空機用の機材を用いて組み立て直した車は、Porsche 917と対等に戦える唯一の車と言われたが、如何せん1台のみでは多数の917と戦えるものではない。記録は大したことがないが記憶に残るレース好きの面々の脳裏に染み込んでいる様だ。

1/43 SP製、69年Daytona 24h
奥はスタート前、手前は優勝時、左前方のクラッシュの修理跡が生々しい
1/43 Look Smart製 Ferrari 512M @ 1971 Le Mans

 1968年、Indy Car Raceに参戦、手始めにSUNOCO Eagle Mk-4でIndianapolis Motor SpeedwayのTest dayとRiversideのRex Mays 300(1968年USACの最終戦)に出場し手応えを得た様だ。 

1/43 SP製 Eagle Mk-4 @Riverside

 1969年、Penske RacingはIndy 500に参戦(その後Donohueが死亡した後も参戦を続け、R. Penskeは今や生きるレジェンドとなっている)。69年は決勝7位で新人賞を獲得、70年には決勝2位となった。72年、McLaren M16 Offyで遂に優勝を勝ち取ったがその時、彼は162マイル(261km/h)を持続させた。

1/43 SP製 McLaren M16 Offyで72年のIndy 500 優勝

再びCan Am参戦
 1971年、PorscheはPenske Racingにレースを含めた開発を委託、彼等はPorsche 917-10を開発しCan Amに再度参戦、Donohueが開発中に事故で両足を骨折、代わりにTrans-AmチームメイトであるGeorge Follmerが、917-10テストを引き継いだ。

1/43 手前MC製の917-10、奥TSM製の同製品
奥のTSMはL&Mのデカールが付録で付いていて自分で貼る様にと
タバコ製品のデカールまで規制されるとは、MCは無視したか、モデルは文房具と同様許可されていると考えたのか(興味のある方はnote 「重箱の隅をつつく-4タバコ広告規制」を参照されたい)

R.Penskeは直ちにPorsche 917-30の開発を開始。空力のボディを改良し、出力を約1,100から1,500 bhpに調整できる5.4ℓのターボチャージャー付き flat-12エンジンを完成させた。  
 1975年8月9日、Donohueは917-30をアラバマ州TalladegaのTalladega Superspeedwayでの世界クローズコーススピード記録に挑戦。 2.66マイル(4.28 km)の長円の楕円形のコースで平均速度は時速221.120マイル355.858 km / h)であった。 この記録はMichigan International SpeedwayでRick Mearsによって破られるまで、11年間その記録を保持し続けた。

1/43 SP製 世界記録挑戦車
1/43 MC製 左はLA Times GP & Riverside 1973の優勝車
右はPorsche 917-30の優勝車セット

 その後、世界的な石油危機によりアラブ石油禁輸の結果、SCCAがCan-Amレースに燃料制限を課すようになり、PorscheとMcLarenはシリーズから撤退し、第1期のCan Amは終了した。

F-1参戦
 F-1参戦はIndy参戦でMcLarenを駆ったことによるのか?。1971年にMcLaren M19A でMcLaren Teamから参戦。優勝は無いが、表彰台は初戦の3位があり、獲得ポイントは8点であった。

1/43 SP製 71年の初戦に3位入賞、幸先が良いと感じたが

 Penske TeamはPC-1を作成し1974年のCanadian GPに初参戦、予選は24位であったが、決勝は12位、このシーズンは1ポイントも獲得できず。75年からはフル参戦が開始された。最初の一時期はPC-1で参戦、多くのチームが採用していたFord cosworth engine DFVを搭載、First National Bank of the Cityがスポンサーとなり、第7戦のSweden GPで5位初入賞となったが、10戦目よりMarch製のシャーシのMarch Ford 751が使用、12戦のAustria GPまで戦い、そのGPの予選で大クラッシュに見舞われた。直様ヘリコプターで病院まで搬送されたが、その輸送法に上述の様な欠陥がありそれが元で逝去となった(1975.08.19 38歳)。

1/43 奥 MC製のMarch Ford 751 @1973 手前は上述

 Penske Teamは1976年のAustria GPでJohn Watsonにより唯一の勝利を挙げたが1977年にGermany のATSがチームを買収、チーム名も変更された。

 それ以来R. PenskeはF-1には参戦していない。現在なら助かる状態であったのに愛弟子とも言えるMark Donohueを失ったのがその理由かも知れない。

 息子David DonohueはRacing driverとなり、1997年の北米ツーリングカー選手権のチャンピオンであり、Le Mans 24hやSebring12hで活躍している。
 2022年、58歳でPikes Peak International Hill Climb出場模様がYou Tubeで見られる。                                                                                                                                   2023.08.12
                            2023.08.16 改変
                            2023.10.15 改変

1/43 SP製 David Donohueが駆ったPorsche RS Spyder 2015
No.6はDonohue家の番号!!

参考文献
日本の名レース100選 ‘68 日本Can-Am Vol.005、平成18年4月23日発刊 
三栄書房

Michael Argetsinger MARK DONOHUE His Life In Photographs 
David Bull Publishing Phoenix AZ 2009

Pete Lyons CAN-AM Motorbooks International Publishers US 1995


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