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事実は小説よりも奇なり-8       ‘68日本Can Am

 その現場にいた友人は、目撃の衝動を切掛けにモータースポーツのジャーナリストになろうと決意した。

 その現場をテレビで見るしかなかった筆者がその画像を思い出しながら、その頃のレースカー事情を考察した。

 「ワールドチャレンジカップ富士200マイル」が正式名称だが、
多くが日本Can Amと言った。
 1968年、北米から10台の怪物マシーンが富士スピードウエイを来襲、10台の日本勢が向かい撃ったが、北米組が日本勢を圧倒。

 予選はMark DonohueとPeter RevsonのMcLaren M6が圧倒的に早くM.Donohueが1分16秒81と彼1人のみ16秒台、2位のP.Revosonが0秒3の差であった。3位のJerry Titusと4位のChuck Parsonsも17秒台であり、日本勢のトップは10位 長谷見昌弘の1分24秒とトップとは8秒の差があった。

「サン スペシャル」がこのレースを表す、1968年11月23日@富士スピードウエイ(参考写真)

 なお、この予選にはJim HallもBruce McLaren、Denis Hulme、Chris Amon、Lothar Motshenbacher等のCan Am常連の名前がない、D. Hulmeは最初から来日は出来ないことがわかっていたが、他のメンバーは来日メンバーに名を連ねていた。しかし、68年の最終戦のLas Vegasのレースでは先ずB. McLarenとC. Amonが接触事故を起こし、更にその後にJ. HallとL. Motshenbacher等の多重事故で両者入院の羽目になり目玉のChaparralとFerrariが大破となったためである。なお、公式の文書には22台が名を連ねている、ここにはワークスMcLarenやChaparralはないが、結構な名もある(後述)

 レース当日の11月23日は晴れで12.8℃、湿度63%、東風3〜3.5m/Secと好条件。Stirling Moss運転のペースカーによるローリングスタートのもと13:30開始となった。
 最初はM. DonohueがリードしP. Revsonが追うという予想通りの展開、その後燃料補給等でピットインの度に先頭が変わる。それが崩れたのはM. Donohueの67周ガス欠によるピットイン、漏れたガスに引火し本人も軽い火傷を負いリタイヤとなったため。以後はP. Revsonがラップタイムを落としながら完走し優勝。優勝して一番喜んだのは、本戦のCan Amで1勝しかしていないFordエンジンが勝利、付き添ったCarroll Shelbyであった様だ。

 それでは、私の持っているこのレースモデルを元にNo.毎に考察する。

☆ No.1はSam Posey (サム・ポージー)  エントラントはAutodynamics Lola T160

 1968年の第1戦はCaldwell D7で出走、この車はCan Am誌の多くに1枚は写真がある程、それはド・ディオン・アクスルという特殊なサスペンションを持った車のためだ。Caldwell D7はSam Poseyが駆って67年の第1戦から68年の第1戦まで7戦の内5戦を戦ったマシン。予選は15-21位と中団で、68年の第1戦予選15位スタートで10位フィニッシュが最高位と全く活躍していない。
 1968年の2戦目からPoseyはCaldwellからLola T160に変更、同年4位と5位を1回ずつ獲得(5点)で総合9位となっている。ノンタイトルを含めれば、日本Can Amで2位が最高の結果ともいえる。

1/43 Marsh Models(MM)製、これはCan Am最終戦のモデル
日本Can Amとはステッカー類が一寸異なる

それではSam PoseyはそれだけのDriverかといいうと、結構活躍している。
1969年のLe MansにT.Zoccooliと共に駆り総合8位となった。(なお、この車は65年にM.Gregory / J.Rindt組がFerrariでLe Mans優勝したFerrari最後の車)
 1971年、Ferrari 512MのドライバーにSam Poseyの名を見る。(Le Mans 3位は512Mの最高の成績)
 1975年のSebring 12hでB.Redman / H.Stuck等4人でBMW CSLを駆り優勝している。Sam Poseyは燻銀のDriverともいえる。
 2022年の消息ではスポーツ・ジャーナリストとして活躍している様だ。
(拙書 「レアモデル列伝-9  Sam Posey & Caldwell D7」をご一読願いたい)

☆ No.3、 Al Unser(アル・アンサー)  STP Special  Lola T160

 当時のAuto Sport誌には1968年Indy 500の勝者の弟として紹介されているが、現在はIndy 500 4勝(彼の息子のUnser Jrも2勝)、85年のDaytona 24h 優勝とUnser一族のトップに立つ。
 この車は本来Mario Andretti用の車、M. Andrettiは11月10日のLas Vegasで12位ながら完走しているが事情があってエントリーせずA. Unserが代役としてエントリーしたものと推察される。
 モデルは1/43 Lola T160 STP - Andretti / Unser  1968  Marsh Models(MM) resin kitを20.02.24購入、フィニッシャーに組み立てを頼む予定にあったが、2020.12.12のeBayに完成車が出品されオークションで購入したもの。
 結果は予選8位で決勝10位であった。

2020.12.12 eBayで購入の完成車

☆  No.6はMark Donohue(マーク・ドナフュー)、Penske Racing エントリー McLaren M6A

 このレースの大本命であった車、Can Amでこの車は1勝しかしていないが、上位入賞の常連車。市販型のMcLaren M6は製作をトロージャンが行った M6Bであるが、この車はワークスで使用された3台の内の1台でM6Aが正式名称である。これをSUNOCOのRoger Penskeが改造したのでワークスの1年落ちでも競争力は抜群、予選ではただ1台の1分16秒台であった、しかし67周でピットに入った時ガスに引火しDNF。
 M. Donohueが紙面に顔を出す様になったのは、Lola T70の発表後だろうか。65.09.05にRoad America 500 mile、師匠のWalt Hansgenと共にMecom RacingのT 70(フロントのエア・アウトレット上にオイルクーラーが鎮座している)のコクピットに座り結構多くの写真が残っていた(拙書 「異能β-1 ZerexとMECOM」をご一読願いたい)。M. Donohueは1968年USRRCとTrans-Amのチャンピオンで彼のBest Yearでもある。人気の車種で種々のモデルが発売されているが、Spark(SP)と(MM)のモデルが大部分、このレースのモデルも発売されているのはその所以であろう。

1/43モデル 左はMM製、右はSP製、両モデルとも左右ドアに「サン スペシャル」と書かれている

☆  No.7は勝 常時(本名:塩沢勝臣)イマイA-1・デルフォード
 
 このドライバーや車についての詳細は不明、ドライバーは第1回日本GPに日野ワークスで参戦、車の名称のデルはその後デルコンテッサ等で名を知ることができる。ドライバーはこのレースのコーディネーターである塩沢進午さんの弟。車はこのレースのためにLotus 30に架装したものでモデルにはなっていない。予選19位・決勝は2周で最初のDNF、モデルにならないのは当然であろう。

レースカーモデルで探し出した写真、日本Can Amの車はフロントの形が一寸異なるが(参考写真)

 ☆  No.9、Joakim "Jo" Bonnier(ヨアキム・ボニエ ジョー ボニエ)  McLaren Elva M6B

 スエーデン貴族出身、1956年からF-1に参戦、1959年のオランダGPでBRMを駆って初優勝(彼にとって唯一のF-1勝利)、1968年にはHONDA F-1のRA301でメキシコGP 5位入賞、1964年にはLe Mans 24hで総合2位、 1966年Chaparral 2DでPhil Hillと共に2Dでの唯一の優勝を勝ち取っている。1972年、Le Mansでレース中事故死(42歳)した。Can Amには68年の1年のみ参戦、初戦と最終戦のみ完走であったがシリーズ0点、日本Can Amレースの3位が最上の成績であった。

モデルはMM製でも非常に珍しく68年Las Vegasのモデル、eBayのオークションで落札したが、これ以前も以後も見たことがない。予選7位で決勝3位。

1/43 MM製 このモデルもCan Am最終戦のモデル、日本Can Amとはステッカーが一寸異なる

 ☆  No.10、Chuck Parsons(チャック・パーソンズ) Lola Simoniz Special

この話の肝でもある。(別項のレアモデル列伝で詳細を記載する)
この文章の元は22.10.16に完成していたのだが、このモデルの完成を待って23.05.13に手元に届き直様書いた次第。
C. Parsons(1924 年 2 月 6 日 - 1999 年 1 月 3 日)は 、アメリカのスポーツカーレーシングドライバー。彼はSCCAとUSSRC の競技会に参加し、その後Can Am シリーズのドライバーになった。当時の多くのドライバーと同様に、Daytona 24 h(69年のDaytona 24hではM.Donohueのコ・ドライバーとして参戦し、SUNOCO  Lola を優勝に導いた。〔拙書 noteの「レアモデル列伝−14  傷だらけのローラ〕を参照されたい)やLe Manns 24h等に参戦、同じ年にCan Amシリーズにも参戦した。
 1966年頃はMcLaren M1-C等でCan Amに参戦していたが、68年にLola T160に乗換、70年にはT 163に変更、最終的にはMcLaren M8Dで参戦した。

1/43 MM製改造のこのレース仕上げモデル、フロントの「サイモナイズ」で分かると思う
Donohueの「サン スペシャル」と同様

このレースでは予選8位、決勝ではスタートと同時に4位に上がり、2周目には3位になったが、61周でDNFとなった。

☆    No.11、Pedro Rodriguez(ペドロ・ロドリゲス) 角栄スペシャル(Lola T160)

 第1回日本GPに出場した安田銀治がオーナーで角栄団地がスポンサー、角栄と書いてあるが元総理とは無関係、創業者の角田さんの角と商売が栄えるから付けた様だ。ドライバーのP. RodriguezはF-1優勝2回を誇り、68年はJ.W.TeamのFord GT 40でLe Mans総合優勝、70〜71年は同チームのPorsche 917 を操り連戦連勝であったが、71年7月に事故死(31歳)した。

 このモデルは日本Can Amの実車モデル。予選15位、決勝ではスタート直後6台を抜いて2周目に9位を走ったが4周でラジエーター破損によるオーバーヒートが原因でリタイアとなった。eBayのオークションに出品されたが、世界では「角栄」なんてスポンサーの車、それもあまり人気のないLola T160、誰も手を上げず結構安価で入手できた、この車は拙書「レアモデル列伝」に出しても良かったが、この項に出せたのは幸運といえる。

1/43 MM製、「角栄」ステッカーの車はある年代の日本人にしか分からない

☆    No.16、George Follmer(ジョージ・フォルマー) Lola T70 Ford

 G. Follmerはアリゾナ出身、Can Amの前身であるUSRRCの65年チャンピオン。Follmerは前戦のLas Vegasで2位に入っている。B. McLarenもJ. Hall・M. Andretti・Chris Amon・L. Motshenbacherも事故で遅れたりDNFとなり漁夫の利を得た様なものだが、Can Am開始からLola T70で頑張り切ったご褒美の様なものだろう、この車は結局38周で冷却ホース破損によりDNF。このモデルはどこを探してもない、ある日Face Bookで1/24のスロットカーにそのモデルを発見したのは偶然だが、こんなことが嬉しい。

Robby Mauer作(とされる)、1/24 Slot Car、日本Can Amの前戦のLas Vegasのモデル
非常に綺麗に作られている(参考モデル)

☆   No.17、Jerry Titus(ジェリー・タイタス) McLaren Mk6B Chev.

 前戦のLas Vegasで3位入賞、67年のTrans-Amチャンピオン、68年Can Amシリーズ8位だからモデルがあるだろうと探したが全く見当たらない。
 ニューヨーク出身で最初はトランペット奏者、レース雑誌の編集者を経てレース活動を開始、66年にShelby AmericanからTrans-Amに参戦し前述の様に、67年チャンピオン。1970年、Road Americaで行われたTrans-Amで予選中に事故を起こし、18日後に死亡した(41歳)。

 Jerry Titusで検索したら、筆者が持っているCheetahにモデルがあった、他には67年のTrans-Amのムスタングしか見当たらなく、M6Bは全く掛からなかった。実車は予選3位であったが24周でガスケットが吹き飛んでDNFであった。

日本Can Amでの写真(参考資料)

23.09.04、何の気なしにFBを見ていたら、68年のRiverside(日本に来る2戦前)に参戦していたTitusのM6Bの写真があったので、ここに貼る。この時の戦績は予選10位で決勝は13周遅れの13位であった、因みに優勝はB. McLarenのM6A。

日本にくる2戦前、ほぼ同じで来たと考えられる


☆  No.22、高橋国光 大京スペシャル  Lola T70

 エントラントは角栄スペシャルで紹介した、安田銀治でスポンサーが大京観光、最初は安田銀治が自身で出走するつもりで予選を走り、1分27秒61で16位であったが急遽高橋国光が駆ることになり、予選なしの最後尾20位の位置からの出走となった。この車は68年の日本GPで安田銀治が駆って出走、予選16位であったが決勝ではDNFとなった車。日本Can Amでは決勝の1周目、高橋国光は5台を抜いて14位を走っていたが、角栄スペシャル同様オーバーヒートで4周目DNFとなった。

 モデルは日本GPを走ったNo.11、色は同じだが日本GPではリアスポイラーが付いていなかったか、他のモデルをみても同じなのでリアスポイラー無しで走った様だが、このレースでは大京観光と書かれたスポイラーが付いていた。

1/43 EBBRO(EB)製、日本GPのモデル、リアのスポイラーは初めから無い
日本Can Amの写真(参考資料)、リアに大京観光のスポイラーが付くNo.22

☆   No.27、長谷見昌弘  No.28、酒井正、Lola T70 Mk3

 
エントラントはタキ・レーシングで同チームからはNo.27を駆る長谷見昌弘と共にNo.28 酒井正も出走、車は耐久レース仕様。2台の差異はNo.とフロントのV字色で長谷見は黄色、酒井は白色、No.28はライトにも白の塗装が施されている。
 予選は長谷見が日本勢トップの10位、酒井が11位で決勝は長谷見が51周まで6位に付けていたが、最終的には57周完走となっている。しかしDNFのDonohueは67周走っていてその性能差は如何ともし難い。酒井は68周走り決勝は7位であった。

1/43 Tenariv製 フィニッシャーが組み立て注文したデカール類でこのレース仕上げとした
1/43  EB製 台座にあるように68年日本GPのモデルをフィニッシャーが改造
No.27とNo.28はVの色だけではなく、スポンサーも一部異なる、後部下27はTAMIYAで28はコカコーラ
その他同じスポンサーでも貼る位置や大きさ等異なる

☆    No.31〜35、TOYOTA 7

 No.31・34・35はフロントが平、No.32・33はフロントが尖っているタイプ。ドライバーは番号順に鮒子田寛、福沢幸雄、大坪善男、細谷四方洋、川合稔でEBから市販されているのは、No.31・34・35である。予選は31・32・33・35・34の順で決勝は福沢のNo.32が68周を走り4位、33の大坪が5位、34の細谷が6位、31の鮒子田が8位、35の河合が9位であった。3ℓでよく戦ったともいえる、これを切掛にTOYOTAは5ℓの新車を作ることになった。

 EBの3台はフロントが平なタイプ、No.31はエアファンネルが他の2台と異なり長い。先が尖っているタイプの日本Can Amモデルは発売されていない。
 日本GP等のモデルで発売されているので型はあるはずだが、あるいはその後死亡した福沢の版権や死亡の裁判等の問題等があったのか不明である。しかし1/20ではあるが某フィニッシャーがバンダイの製品を改造して発表している。綺麗に制作され、欲したが作者は既に鬼籍に入っていて叶わず、許可を得ずに参考資料としている。

1/43 EBから発売されている3台
No.31と他の2台はエアファンネルの長さが異なる、Can Am車を参考に長くしたか
1/20 バンダイ製の改造モデル、某フィニッシャーの力作(参考モデル)

☆  No.52は優勝したP. Revson(ピーター・レブソン)のMcLaren M6B、 エントラントはShelby Racing Co. Inc.

 P. Revsonはレブロン化粧品の御曹司、60年代の欧州挑戦はお遊びと見られていた様だが、米国に帰った後は真剣に取り組み大勝利は得られなかったが結構な成績を残した。
 日本Can AmではDonohueとポールポジション争いで僅かな差で2位ながら、Can AmではMcLaren M8Fで71年のシリーズ・チャンピオン。(DonohueはPorsche 917 / 30 KLで73年シリーズ・チャンピオン) Fordエンジンは本場のCan Amではたった1勝のみだがこのレースではShelbyワークスが特別に手を入れたか、壊れずに優勝、このレースに追随したShelbyを喜ばせた。74年3月22日F-1テスト中に事故死(35歳)は早すぎる死であった。
 モデルはSP製のこのレース仕上げ

1/43 SP製、他の同車と比べ、リアタイヤにオーバーフェンダーが付き、
左リアタイヤ前にエア・アルトレットがある

☆    最後の出場車はNo.62、John Cannon(ジョン・キャノン) McLaren Bartz Chev.

 J. Cannonについては拙書 「事実は小説よりも奇なり-6:たかが1勝、されど1勝」のJ. Cannon項に詳しく記載した。今回駆ったMcLaren M1-CでCan Am本戦で1勝は伊達ではない。このレースでは予選9位で決勝は54周まで6位を走ってたが、55周目に事故でDNFになってしまった。
 この68年は本戦でシリーズ6位であったのは立派だ。なおAUTO SPORT Deluxeのフォトあらかるとに「売りたし‼︎ 360万」の写真がある、結局買った人はいなかったようだが、69年からはMcLaren M6Bで参戦していた。

モデルの車(MM)製でLas Vegas参戦のモデルの様だ。

1/43 MM製、こんな時代遅れの車で本戦1勝は素晴らしい

☆  出走台数は19台だが、Race Resultsによればエントリーは22台であった。エントリーはしたもののDNSとなった車が3台あった、先ずNo.22としてChrlie HayesのMcKee Mk 10 Oldsmobileが書かれている、この車が参戦すれば、McLarenでもLolaでもない車が花を添えるとも考えられたが、68年の最初は結構良い成績を残し、期待が持てた。しかしその後、エンジンやフレームの調子が落ちて、最後の方では参戦もできなかったので致し方ないか。なおMcKeeに興味のある方は拙書「レアモデル列伝-15:青い楔 McKee」をご一読願いたい。

1/43   MM製 これが出走していればもっと盛り上がったか!

 次は、No.98、George Eaton RacingエントリーGeorge McLaren Elva Mk-3(Mk-1C) Ford、George Eatonは1945 年生まれ、著名なイートン家の一員であるカナダのレーシング ドライバー。1968年から70年までCan Amに参戦し、69年にはCan Amでトップのカナダ人とされていた。68年ではまだJ. Cannonより下位のドライバーであったが、69年はMcLaren M12を駆って、第1戦から参戦、予選4-6位が定位置でシリーズ5位。70年にはBRMのワークス入りでBRM P154を駆って第2戦で決勝3位となった頃までは良かったがその後はDNF続きでシリーズ20位となり最終戦を待たずにCan Amから撤退した様だ。68年の日本Can Amは参加の予定であったようだが、自前のM12熟成で日本に来るどころではなかった様だ。

McLaren M-1C(参考写真)

 3人目はNo.72、Katsuhiko NakamatsuエントリーのChevrolet Corvette Stingray 2-seaterとなっているが、人物も車も不明。レース用のChevrolet Corvetteの使用は1966年が最後でその後のレース用の写真はない、そんな古い車で本気にレースに参加するつもりだったのだろうか、疑問だ。

編集後記:始めの方に書いたが、下書きはほぼ6ヶ月前にできていた。しかしNo.10、Chuck Parsons  Lola Simoniz Special は元のモデルの大改造(レアモデル列伝で記載予定)したのと、デカール類も作成依頼し、出来上がりが大幅に遅れた。その他諸々の影響で2023.05.14掲載となった。しかしフィニッシャーからこのLola Simoniz Specialと共に滝レーシングの滝 Lola 長谷見モデルも譲られ、更にこの記述に花を添えて頂けた。  
23.09.04追記Jerry Titusの記事があったので追記した。   23.09.04改変

参考文献

日本の名レース100選 ‘68 日本Can-Am  Vol.005、平成18年4月23日発刊、三栄書房

Pete Lyons CAN-AM Motorbooks International 1995

’68-日本・CAN-AM アルバム AUTO SPORT Deluxe、 昭和43年12月10日発行、三栄書房

Race Results Fuji Can Am 200 miles、Racing Sports Cars (2002-2022)

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