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異能β-13:続 Can Am黄金期のMcLaren・Racing

 McLaren Racing Limited(以後の文章で、McLarenの単独表記はTeamを指す)は1963年にBruce Leslie McLaren (1937.8.30―1970.6.2)により設立された。Teamは1966年より開催されたCan Amで1967年から5年連続で総合優勝を獲得した。
 CanadaとAmericaで行われたCanadian-American Challenge Cup、スポーツカーによるレースで、エンジン排気量は2.5ℓ以上(上限なし)、技術面の自由度が高いのが特徴だ。そこではFRPモノコックフレーム、オートマチック・トランスミッション、空力装置(固定式や可動式スポイラーやウイング)、負圧利用のダウンフォース等々様々なアイデアが出され、レースが走る実験室と称されることもあった。特にその第1期(1974年までの9年間)はLola、McLaren、ChaparralをメインにFerrariやPorscheも加わり、果ては日産やトヨタも参加を画策していたのだ。大排気量マシンの豪快なレース展開が人気を集め、「賞金総額世界一」を謳う報酬にひかれて一流ドライバーも数多く出場し人気を高めた。本項ではその中で最も成功したMcLarenを中心に話を進める。

 Can Am以前
 
米国では元々モータースポーツは盛んであったが、1950年代頃まではヨーロッパのFerrari、Lotus、Maserati、Porsche等が多く走っていた。

 中でもBahamasの首都Nassau Speed wayで行われたレースは賞金も高く、これらの車に米国のFord、Corvette、Scarab、Chaparralも加わり人気を集めていた、特にChaparralとMecom Racing Team(MRT)が主役でB. McLarenは未だ準主役であった。(興味のある方は拙文「異能β-1:John MecomとZerex Special」を参照されたい)

1/43のモデル群

 Modelは全てNassauを走った車、左のNo.1は61年Nassau Trophy優勝のDan Gurneyが駆ったLotus 19(下の写真を参照)、その後のNo.14は同じRaceで7位であったBob Holbertの駆ったPorsche 718 RS、後列(No.14以外は全てMRT)の左No.00は63年Tourist Trophy優勝のAugie Pabstの駆ったLola MK6 GT、No.77は同年のNassau Trophy優勝のAJ Foytの駆ったScarab MK4、No.50は同年Roger Penskeの駆ったChevrolet Corvette Grand Sport、No.00は64年参戦のChevrolet Corvette、中列のNo.1は64年のNassau Governor’s Trophy 2位、AJ Foytの駆ったHussein-Dodge Zerex Special、その隣のNo.6は同じRaceで優勝したR. Penskeが駆ったChaparral 2、Husseinの前列の2台はNassauの写真で最も有名なNassau Trophyを走ったChaparral 2A(No.65) & 2C(No.66)、2Aは優勝のHap Sharp、2CのJim Hallは事故で遅れて21位に終わった。

 60年代初頭、米国の西海岸を舞台にしたレースは人気を集め、F-1で米国GPに来たヨーロッパのレーサー達も多数参加する様になり、更に人気を増した。特にChaparralはその独特な形状と革新的なアイデアで、1965年のSebring 12時間で総合優勝するなど人気の的であった。

 Bruce McLarenはニュージーランド出身、1959年のF-1 ChampionであるJack Brabhamの伝手でCooperに加わり1959年からF-1に出場、最終戦の米国GPで優勝した。その時の22歳は2003年にFernando Alonsoが塗り替えるまでの43年間に渡って最年少記録でもあったのだ。その後Cooper-Oldsmobile等で米国のロードレースでも走る様になった。

Last race for the Cooper-Oldsmobile was the Goodwood Tourist Trophy 1964(参考写真)

 1963年、B. McLarenはTeddy Mayer、Tyler Alexander等によりBruce・McLaren・Motor・Racingを設立した。最初はタスマンシリーズ等でCooperを走らせていた。
 2座席レースカーは64年にM1A、66年にM1B、67年にM6Aを製作し米国とヨーロッパのレースに出場した。
23.09.11、1/43のモデルを発見したので追加した

1/43 MM製(参考モデル)

 M1A
 
1964年9月、自製レーシングカーを企画していたB. McLarenは英国のTrojan Cars Ltd.に製作を依頼、Oldsmobile製4ℓエンジンを搭載したM1A、いわゆるMcLaren・Elvaが完成した。

 No.2はRiversideに出場し予選で2位のタイムを獲得した車、No.5はNassau・Trophyに出場し決勝2位になった(1位はChaparral)車、外見上の特徴はFront Windowの下にSpare tireを押し込んだ点だ。

1/43 No.2とNo.5はSpark製(SP)、No.77はMarsh Models製(MM)

 国際自動車連盟(FIA)の規約では、最低重量や燃料タンク容量等と共にSpare tire装備、Luggage space 確保が義務付けられ、ヨーロッパではこの頃の2座席スポーツカーはSpare tireをどこに置くかも設計上の肝となったのだ。America Sports Car Club(SCCA)は、FIAの規定している改造部門を付則J項のC部門に第7グループとして加え、FIAとは決別し新たな定義とし、Can Am Carが発足した。手前のNo.77はD. Gurneyが駆った車でFIAと決別した後のモデル(MM)、奥の2台はFIA準拠のモデル、一目見ての違いはFront Windowの下にSpare tireが無い点、ただそう改造してもChaparralやLolaには敵わず大した成績は残せていない。

 M1B
 
1966年、M1Aを基に高速走行時のリフトを減らすボディワークや強靭構造の再設計によりM1B(Elva社からは市販上Mk-2の名)を製作、エンジンをGM社製に変更し、トランスミッションもZF社製を採用、Nassauのレースに出場し、Governor's Trophyを制した。更にCan Am最初のレースでは2位入賞を果たした。最初の年、総合優勝はLolaを駆ったJohn Surtees、B. McLarenは総合3位の成績であった。
 Modelは数年前からSpark(SP)のカタログには載っているが、未だ発売はされていない。入手したものはMMの3台。赤いNo.4は66年St. JoviteでB. McLarenが駆った車。No.88はMasten Gregory(65年のLe Mans優勝者)の駆った車。両車の外見上の違いは右フロントフェンダーの冷気取り入れ口の有無。No.62は日本Can Amに参戦したJohn Cannonの車。Can Am本戦で1勝は素晴らしい。(興味のある方はnote拙文「事実は小説よりも奇なり-6 たかが1勝、されど1勝」をご一読願いたい)

1/43 MM製の2台
1/43 MM製 John Cannonの車、日本Can Amにも参戦した


 M6A/B(1967年)
 1967年McLaren勢による独擅場となった歴史は、M6Aが全6レース中5レースを征したことから始った。これを皮切りに、B. McLarenとDenis Hulmeによる独走劇を繰り広げる「Bruce・and・Denies・Show」(1969年シーズンは2人で11戦全勝)として知られるようになり、この年はB. McLarenがChampionになった。
 Robin Herdが設計を手掛けた、モノコックのシャーシ、エアロダイナミクスの原理を応用したグラスファイバー製のボディワークは、それ以前のマシンとは根本的に異なるマシンであった。M6Aは、ニュージーランドのナショナルカラーであるオレンジイエローがボディカラーに採用された初のマシンでもあった。エンジンは530bhpを発揮する6.0リッターのGM社製V8エンジンが搭載されたが、重量はわずか590kgしかない。1967年6月19日完成し、Mosport Parkで開催されたレースで、D. Hulmeは、1ヶ月前にF-1のCanadian GPでJim ClarkのLotusが出したタイムよりも1.6秒も速いPole Position Timeを叩き出した。

1/43 No.4はSP製、No.5はMM製、同じ車でもModel Makerによる色の解釈の違いが分かる

 M6Aは後日技術パートナーのTrojan Cars Ltd.で製作され、プライベートチームにも供給された。これはM6Bとして15台が販売された。この両車の違いは、シャーシナンバー(CN)を調べるしかない。なおCNは2と13が欠番で50-17まで付けられている。
 モデルはSP、MM、Minichamps(MC)、GMP等から発売されている。

 筆者的に好きなモデルはR. PenskeのSUNOCO Teamが断トツだ。McLarenから最初にM6Aを譲り受け独自の改造を行った、M. DonohueのSUNOCOカラーの車は、ChaparralのJ. HallやLolaのJ. Surtees等と、時にはMcLarenにも丁々発止の戦いを挑み、67年の第2戦でM8Aが2台ともDo not Finished(DNF)した後に優勝し、2位1回、3位2回で総合3位のシーズンを終えた。

1/43 右の白台座のモデルが日本Can Am参戦車、ドアに「サンスペシャル」と書かれている

他には、D. GurneyのMcLeagle(CN:M6B 50-10)(Gurneyによる改造が大きく、M6Bより50kgも軽量でMcLarenとEagleの造語)(Wingのない車(MM)、前後Wingを着けた車(SP))。

1/43 奥SP製、手前MM製
minicar magazineに掲載したM6群

 青色のNo.52はCarroll Shelbyが購入し日本Can Amに持ち込み優勝したPeter Revsonの車(SP)(CN:M6B 50-11/12)、68年の他のレースではRoad Americaで4位、BridgehamptonはDNFであった。

 赤色のNo.11はLothar Motschenbacherの車(CN:M6B 50-03)、68年はUSRRCとCan Amの12戦に参加、左のオイルクーラーの目立つRiverside (SP)モデルで5位、Laguna Secaで2位が最高位、5月からオイルクーラーの無いBridgehamptonモデル(MM)でも8月のMid-Ohioでの2位が最高位。

 金色のNo.99は68年のLaguna Secaに出場したMoises Solanaの車(CN:M6B 50-04)(SP)でこのレースではDNF、同年のUSRRC Mexico Cityのレースで優勝、Riversideで5位の記録がある。

 minicar magazine掲載後に購入したModelがある。Joakim "Jo" Bonnierが購入したMcLaren Elva M6B(CN:M6B 50-15)(MM)、68年8月11日のGP Swerige で2位、Road Americaで18位、BridgehamptonはDNF、EdmontonでもDNF、Laguna SecaでもDNFであったから、日本Can Amで3位になったのは大いに誇ることであろう。

1/43 MM製 非常にレアなモデル、eBayでもこの購入の前後で見たことがない

 68年の最終戦後に行われた日本Can AmでNo.52のPeter Revsonの駆ったM6B Fordが優勝したのは奇跡のようなものだった。その後このM6BはShelby RacingからHolman Moody(H&M)に売却された。H&M が7ℓ超のFordエンジンを積める様改造したのがこの車。そのため名称を429erとしたとのことであったが、最終的には8.1ℓの494 big block Fordで戦った。このウイングなしの車は69.08.31 Elkhart Lake で行われたRoad Americaで予選3位 であったが、決勝は何かの理由でdid not attend(DNA:エントリーはしたものの不参加)のモデルである。この後ウイングが装着されたが、第10戦、69.10.26に Riversideで行われたTimes GPで予選6位 決勝3位が最高位の成績であった。

1/43 MM製 このウイングがないモデルは Elkhart Lake で行われたRoad Americaの参戦車
1/43 MMのウイングが付いたモデル(参考モデル)

(興味のある方はnote「レアモデル列伝-16 Ford 429'er」をご一読願いたい)

M8A(1968年)
 
67年に大きな成功を得たMcLarenが68年に作り出した車がM8Aだ。新たな設計によるもので、M6Aとの最大の変更点はエンジン、排気量が7ℓになった。この620bhpエンジンをストレスメンバーとして設計、潤滑システムをドライサンプとし、エンジン本体をより低めに搭載したのだ。エンジンのパワーアップに伴いタイヤ幅の拡大、燃料タンクの容量増等でモノコックの幅が拡大された。スタイルはより角張り、ホイールベースも延ばされたにも関わらず、各パーツの軽量化で重量は650kgに抑えられたのだ。

1/43 MC製 このモデルはあまり人気が無かったのか(プライベートに販売されなかったからか)
このモデルとNo.4のモデルしかない、昔は1台だけで良いと考えこれしかないのだ
長く延びたエアファンネルが目を惹く

 戦績は第2戦で前述の様に、M. Donohueが優勝、土砂降りの第4戦はJ. Cannonの古いM1Bの優勝があったが、McLaren Teamは6戦中4勝し、総合1・2位を得た。

 このM8Aの市販型がM12。モデルではSPのカタログにL. MotschenbacherのM12が記載されているが、現在まで未発売。
 モデルではChaparralが2Gと2Hの間(2Hの完成前にDriver契約していたJ. Surteesを走らせる目的)にM12を走らせた記録があり、MMからモデルが発売されている。M12 Chaparralともいわれ、最初はウイングなし、その後ウイングが付けられたが優勝は無い。

1/43 MM製 手前のNo.11は最近やっと入手できたモデル、これでSPからは発売されないであろう

M8B(1969年)
 69年は新型を開発せず競争力の高いM8Aを改良したM8Bでレースに参戦。一番大きな外観はダウンフォースの向上を追求したハイウイングを採用したことだ。このウイングはリアサスペンションに直接作用し、タイヤの接地力を高めた。またエンジンは680bhpを発揮する7.1ℓGMエンジンとなった。
 戦績はB. McLarenが全11戦中6勝で総合1位、D. Hulmeが5勝で総合2位と、この年のCan Amの完全制覇であった。

 モデルは総合1位となったNo.4のB. McLaren車。特徴はハイウイングと共に、フロントタイヤが巻き上げるエアを逃すホイルアーチが大きくなった点だ。

1/43 手前 MC製、奥はハイウイングが禁止された後のロウウイングのM8C(GMP製)

 1970年、ハイウイングが禁止となり、L. MotschenbacherのM8C(市販型のM8B)(GMP)は、こんなローウイングの車で参戦した。このシーズンのL. Motschenbacherはシリーズ総合2位となっている。

 No.54はminicar magazine発刊後に購入したモデル、プライベートで参戦しているOscar Koveleskiのモデル(MM)。ボディ上面のスロットカーのコースが彼の職業を表している。

1/43 MM製 プライベートだがCan Amには結構参戦している

M8D(1970年)
 
1970年6月、B. McLarenはM8Dのシーズン前のGoodwoodのサーキットでテスト中、高速走行中にマシンのリア・ボディワークが脱落、クラッシュしたことによる事故死となった。悲劇から誕生したM8DはMcLarenの粘り強さの象徴となった。B. McLarenの死からほぼ2週間後、Mosportで開催されたシーズン初戦のグリッド上に2台のM8Dが並んだ。B. McLarenのポジションを引き継いだのは友人のD. Gurneyで感動的な勝利を収めた。またM8Dは10戦中9勝を挙げ、この年D. Hulmeは自身2度目となるCan Am Championの座に輝いた。

 第4戦からD. Gurney に替わりPeter GethinがNo.7を付けて交代、第6戦でCan Am初優勝を遂げたが、優勝はこれ1回のみに終わり、シリーズは3位、彼は大排気量車の操縦がやや苦手とのことであった。
(興味のある方はnote「事実は小説よりも奇なり-6 たかが1勝、されど1勝」をご一読願いたい)

1/43 MC製 手前D. Hulme、奥P. Gethin車

 この年、ハイウイングは禁止されM8Dは、その低いリアウィングから「バットモービル」という愛称が付けられた。ローウイングでもカウル一体のエッジによって空力は有効に作用。7.6ℓに拡大されたGM社製V8エンジンは、最大出力680bhpを発揮した。

 黄色のNo.2は71年の第10戦、Riversideに参戦した、George Follmerのモデル(MM)、予選は4位であったが、決勝9位はガス欠となったらしい。

1/43 MM製 Riversideに参戦した、George Follmerのモデル

 同じ車の色違い、黒いNo.2は第9戦のLaguna Secaに参戦した、Vic Elfordが駆って予選9位で決勝では18周にStater Motorの故障でDNFとなったらしい。

1/43 MM製 Laguna Secaに参戦した、Vic Elfordモデル(参考モデル)

M8F(1971年)
 この年もMcLarenは素晴らしい走りでChampionとなった。M8FはM8Dよりも大きく重い車であったが、設計者のGordon Coppuckはさらに優れたダウンフォースを得る空力設計で競争力を得たのだ。M8Fのエンジンは8.1ℓのGM社製V8エンジンで最大出力は700bhpとなった。1971年に新たにワークス・ドライバーとなったP. Revsonは10戦中5勝を、D. Hulmeは3勝を挙げた。

 モデルのNo.7は、総合1位となったP. Revsonの車(MC)。M8Dまであったドライバー横のエアインテークがボディー横に変更、上面がスムースになり、より大きくなったリアウイングに大量の空気を運べる様になった。また長さの異なるラムパイプが目立つ。

奥 1/18 Tecno Models、手前3台は1/43 No.7はMC製のP. Revson車
No.11はJ.Cannonが駆った車、No.22はFrancois Cevort車いずれもMM製

 翌72年の話題は、F-1 Tyrrell でNo.2ドライバーであったFrancois Cevortが参戦し、1年落ちのM8Fを駆り第6戦のDonnybrookeで優勝したこと。この車は71年にP. Revsonが乗った車。Young American Racing Teamに売却され、F. Cevortが駆って活躍したが、73年のF-1最終戦 米国GPの予選で事故死した、29歳の惜しまれる死であった。(興味のある方はnote「事実は小説よりも奇なり-6 たかが1勝、されど1勝」をご一読願いたい)

1/43 MM製

2023.09.02に筆者の新しい記事「レアモデル列伝-32 種々の本に1枚の写真もない(?)モデル」を掲載した。
 第1期のCan Am最終戦でMcLaren M20で優勝の経験があるScooter Patrick(M20の項で記載)が駆った前年のM8Fである。戦績は大したことはないが、車はF-1でよく見るインダクションポットを備えた姿が珍しいが、ただそれだけなので、大手のメーカーは作らず、MMの製品でキット・プロ製作者のモデルでありeBayで購入したもの。

1/43 MM製、後述でも記載されているScooter Patrickが駆ったM8F

M20(1972年)
 1972年世界耐久選手権の規定変更をうけ、耐久レースに出場できなくなったPorscheがCan Amに本格参戦した(ワークスの運営はPenske Racingが代行)。GM製V型8気筒エンジン勢(7〜8.5ℓ、750〜900bhp)に対して、ターボチャージャーを装着した5ℓ水平対向12気筒エンジンは公称1,100bhpのパワーを発揮(後に5.4ℓに拡大し、ピークは1,580bhp)。
 この年、新しく設計されたM20の最大の特徴はフロントからサイドに変更されたラジエーター。エンジンが拡大され出力も増したが、自然吸気エンジンとライバルのPorscheエンジンとの差は明らかであった。
 多くの場合、M20は1周であれば互角に戦えたが、レースの距離に苦戦を強いられた。初戦のMosportでD. Hulmeが1位を獲得、第3戦Watkins Glenで、McLarenが1-2 Finishとなったが、それはMcLarenのCan Am最後の勝利であったのだ。
  Minicar Magazineの記述では4台モデルについて行ったが、今回は8台と倍に増加はフリークとしての性(さが)が目覚めたともいえる。

1/43 MC・SP・MM製の各車

Minicar magazineの記載は72年のワークス、No.4 P. RevsonとNo.5 D. Hulmeの車と、ワークスが撤退した73年のNo.73 David HobbsとNo.96 Mario Andrettiの車。72年の両車と違いはフロントのブレーキ冷却用のインレットの有無、このNo.5は初戦を戦った車でフロントのフラップの下にインレットがあるのだが、冷却効果の問題で2戦のRoad AtlantaからはNo.4の様にフロントフェンダーに変わった。73年のM. Andrettiの車はターボチャージャーを装着し1,200bhpを発揮したが、操縦性が悪く予選は8位で同じM20ながら自然吸気エンジンのD. Hobbsより後方で決勝は15位で終わった。D. Hobbsの車は第2戦から出場、第3戦では予選4位、決勝は2位となっている。M. Andrettiの車と比較すると、ターボの有無とリアウイングの高さが異なり、D. Hobbsの方が高い位置にあるのはモデルを比較して分かったのだ。
 筆者はM20を最初D. Hulmeの車しか購入していなかった。次にM. Andrettiの車を購入し、4台とも欲しくなり、残りの2台は世界中を探してeBayのオークションでやっと入手した、やはり興味のある車は予約の段階でチェックをしないと、とんでもない金額が掛かるのが身を以て知ったしだい。

 minicar magazineの発刊後、eBayをみて購入した4台を解説する。
 後列のNo.3はInterserie(1970年に始まったヨーロッパを拠点とするモータースポーツシリーズ)のNurburgringに参戦したHelmut Kellenersの車、SPのM20のデカールを剥がし、塗装をし直して、MM製のデカールを貼って作ったモデル。

1/43 SPの改造モデル

 No.73は2台ある。前列右から2台目は前回あったモデル(SP)、前列右が右端は新たに購入したBlack Label (MM)、2台を比べると、フロントのラベルに細い赤線で四角に囲まれたモデルは、73年最終戦のRiversideのモデル。正面からみると分かるのだが、リアウイングの高さが低くなっている、その装着の為か、空力の為か後部の構造も異なるのはモデルを2台並べないとわからない。

1/43 左SP製、右MM製、2台を並べないとウイングの高さの違いが分からない
Laguna Secaまではこの後部
最終戦のRiversideのモデルはウイングが低くなりその支えの形が変わった

 前列左端のNo.8は、74年8月、第5戦 Elkhart Lake に参戦した Scooter Patrickのモデル(MM)、 第6戦がキャンセルされた74年のCan Am第1期の最終レース、ここにはワークスのM20もPorscheも不出場のレースであったが、予選3位、決勝1位はプライベート参戦では素晴らしい結果といえる。(興味のある方は「note」「事実は小説よりも奇なり-6 たかが1勝、されど1勝」をご一読願いたい」)

1/43 MM製

 後列右端はCan AmでD. Hulmeが最後に駆ったモデル(MM)、隣のNo.4と比べると1番の違いはカラー、SPとMMのデザイナーの感性違いなのか興味が湧く。フロントに銀色の飛び石傷防止のダクトテープという強力ガムテープが貼られている点も他車と異なる。(興味のある方は「note」「レアモデル列伝-24:Denis Hulme最後のCan Am車」をご一読願いたい。

1/43 MM製 D.Hulmeの最後のCan Am車

編集後記 
表題に「続」となっているのは、2020年8月にvol.312、9月号として出版された、minicar magazineの特集に「Can Am黄金期のマクラーレン・レーシング」が掲載された続編である。わが前編のFerarriの場合は台数が4台増えただけであったが、今回は倍近くになったので文字数も11,000字となった。前編でも書いたが大きいカラー写真が掲載できたのでほぼ満足である。しかし、minicar magazineが廃刊になったのは残念ではある。
 DNAの訳が分からず、Face Bookで疑問を呈示、結構な反響があり、did not attendと分かったのは幸いであった、DNAで検索するとデオキシ・リボ核酸が多数であり、did not attendに行きつかなかったのはまだまだ修行が足りないと実感した次第である。

minicar magazine誌

2023.09.02、新たなM8Fについて加筆した。
2023.09.11、Cooper-Oldsmobile  Goodwood Tourist Trophy 1964のモデルを発見、参考モデルとして追加した。

参考文献
・Terry O'Neil, The Bahamas Speed Weeks Veloce Publishing  USA、 2006
・Dave Friedman, McLaren Sports Racing Cars MBI publishing USA、2000
・Complete Archive of McLaren M6B、Racing Sports Cars (2002-2022)
・Pete Lyons, CAN-AM Motor books International、1995
・秋山敏夫、特集⚫ Can Am黄金期のマクラーレン・レーシング minicar    magazine vol.312:4-10、2020

一部改変
2023.09.02 
2023.09.11

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