見出し画像

地理Bな人々(24) 中島ノート⑪ ワジ・フレデリクス 

「ナミブ砂漠か。」
「うん。」
「変わってるわね。死後に散骨する人って時々聞くけど,たいてい海とかじゃないの? しかも生まれ故郷でもなんでもないわけでしょ?」   
「まあ,そうだね。でも,旅の最後に“最古の砂漠にぐるりと回ってもどりたい”って書いてあった。」
「ぐるり,ってどういうこと?」
「さあ,分からない。それで,ナミビアから先生が持ち帰った砂がこれなんだ」といって僕は小さなガラスの瓶を取り出した。   
「こんなに赤い砂なんだ。ラトソル※1じゃないのに?」
 牛乳パックのストローを口にくわえたままミドリは言った。    
「いや,ラトソルなのにサラサラしてるから珍しいってことなんじゃないだろうか?」     
「砂漠か。見てみたいな。日本に生きている限り砂漠って絶対見られないものね。」     
「え,でも鳥取砂丘があるじゃない?」                       
「ねえ,水野君,砂丘と砂漠って全然違うでしょ。日本には砂漠はありません※2。」   
「え,あ,そうか,そうだった。」 
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 
NOTE⑪ ワジ 
 
ソーサスフレイを午前10時に出発。
ナミブ砂漠の心臓部から数日ぶりにウィントフック※3へ向かう。
灌木が点在する荒涼とした大地が2時間ほど続く。
途中何度かオリックス※4の群れを発見。  
 
小高い丘陵を超えて見通しのよい下り坂に差し掛かると,前方に後部車輪が宙に浮いたまま止まっているトラックを発見。 

 数日前はただの小さな谷だった場所に川が流れていて、運転席が半分水没してしまっている。 
 運転していた2人のオバンボ※5の若者が話しかけてくる。オバンボ語は全く分からないが,ひとりは英語が堪能だった。
「ウイントフックまで乗せてもらえないか」。
 こちらはドライバーのロジャーと俺だけなので,後部席は空いている。
 快くOKした。
 
 気付かなかったが,このあたりでは昨日数年ぶりの大雨が降ったらしい。
「昨日一日で37㎜も降ったんだぜ」と後部席の一人が興奮気味に言う。
 ふーん,と素っ気ない返事をすると,彼らは急に不満気な表情に変わり
「おい,聞いてるのか? 37!37㎜だぞ!」と繰り返し言ってくる。
 一日で37mmの降水など日本ならニュースにすらならないくらいの話だが,年間降水量数ミリのナミブ砂漠では10年分の雨がたった一日で降ってしまったような大事件なのだ。
 
 その雨でワジ※6(水無し川)に水が流れ出したというわけだ。  
 数年に一度の集中豪雨の破壊力はすさまじい。
 あっという間に深さ数メートルの谷を形成し,それが数百メートル,場合によっては数キロも続く。
 一度作られた谷はその後しばらくは変化しないから,サハラ砂漠などではラクダを連れた隊商の道標になる。地図帳にはその痕跡がいくつも残っている。アフリカやオーストラリアの広大な砂漠には主要なワジが点線でちゃんと表記されていて,大きなワジには立派な名前さえ付けられている。
 
 もし,ワジを移動中にパラパラと雨が降り出したら,急いでラクダ達を谷底から垂直方向に移動させ少しでも高い場所に逃げなければならない。
 何の前触れもなく鉄砲水に襲われてラクダもろとも濁流に飲まれて数キロ離れた場所で遺体で発見,などという事態になりかねないからだ。
「砂漠の民の死因で最も多いのは溺死である」
というパラドクスを聞いたことがある。
 さっきのトラックの姿を見たらそれも納得だ。
 
 俺達の乗る4WDは時速80㎞ほどで快調に進んだ。
 少し眠かったが,時折小さな窪地にタイヤが取られ大きく車体がジャンプするので居眠りはしばしば中断した。
 
 運転手のロジャーは運転中も片手でショートメールを送ったりしている。
 ヒヤヒヤさせられるが,滅多に対向車ともすれ違うことはない。
 ロジャーは,今のはメールじゃなくてちょっとした支払いさ,という。
 
 サブサハラ※7における携帯電話サービスは急速に普及している。
 
 インフラの整備が遅れた国では従来型の電話線による通信網が整備される前に携帯電話が出回るようになったので,それが爆発的に普及しているのだ。各家庭に電話線を引く膨大な作業に比べれば,アンテナ1本設置して周囲に電波を飛ばすほうがはるかに簡単だ。
 ダイヤル式の電話など彼らは一生見ることはないだろう。
 
 カーナビの横に小さな男の子の写真が張り付けてあった。
「ロジャーの息子かい?」
「そう。フランクっていうんだ。かわいいだろ?」 
「ああ。フランク・フレデリクス※8から取ったのか?」  
「そうだ,その通り! お前,何でそれを知っているんだ?」    
「アトランタオリンピック。生中継で見たよ。2着だったけど素晴らしい走りだった。」
「オレはあのレースを見て息子の名前を決めたんだ。」   
    
 1996年夏季オリンピック。陸上男子200m決勝。
優勝したマイケルジョンソン※9が驚異的な世界記録(当時)19秒32を出して話題となったが,2位となったナミビアの英雄フレデリクスも堂々の19秒68だった。彼の記録は今もアフリカ記録として残っている。
 「あんな風に足の速いカッコイイ男になってほしくてな。でも,名前ってのは皮肉なことにそいつの欠けているモノを表しちまうよな?」と彼は笑う。
 
 確かに。
 人が大声で何かを連呼する時,それらの欠乏を意味している。     
――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 ラトソル
熱帯地域に分布する成帯土壌。鉄やアルミニウムの酸化物を多く含み,赤色をしているのが普通。
 
※2 日本には砂漠はありません
砂丘は風などの作用で砂が打ち上げられ小高く堆積した「地形」を表す用語で,砂漠は以前は「沙漠」と書き,雨が降らない「気候」を意味する語が元になっている。我々は砂漠という文字から巨大な砂山を連想しがちだが,世界の砂漠の8割は,砂ではなく岩石や礫で構成されている。日本は降水量が世界的に多い国であり,ケッペンの気候区分の乾燥気候(B気候)に属する地域はなく砂漠はないのだが,砂漠「のように見える」場所は各地に存在する。特に日本海の沿岸部には冬の強いモンスーンによって海から打ち上げられた砂が数十mにも堆積した海岸砂丘が発達している。最も有名なのが鳥取砂丘であるが,新潟県や東北地方の日本海側(秋田・山形・青森)の沿岸部にも海岸砂丘が発達している(地P177)。
 
※3 ウィントフック
ナミビア共和国の首都かつ最大都市。標高1600mに位置する高原都市。ケッペンの気候区分ではBS(ステップ気候)。ナミビアはビジネスなどでは英語が使われているが,ドイツ系も総人口の6%を占め,ドイツ語もある程度通じ,日常的には隣国南アフリカ共和国の公用語の1つであるアフリカーンス語が広く使用されている。
 
※4 オリックス
アフリカ南部に生息するウシ科の鯨偶蹄目。ナミビア周辺の数カ国のみに生息。

※5 オバンボ
ナミビアの総人口の約3分の1を占める多数派のオバンボ族のこと。他の主要民族にはカバンゴ族などがあり,ともに,コイサン諸語と呼ばれる,我々には聞き馴染みのない吸着音を特徴とする独特の母語を話す。オバンボ語のテレビニュースを見るとまるで二人のアナウンサーが同時に話しているかのように聞こえて興味深い。
 
※6 ワジ
普段は水流がなく,降水時に水流がみられる河川のこと。涸れ川(かれがわ)ともいう。通常は交通路として使用されることが多い。ワジ周辺の地域では,地下水面が高くオアシスが形成されているところもある。
 
※7 サブサハラ 
サハラ砂漠以南の地域を指す。アフリカ大陸はアラブ系住民が居住する北アフリカと,ネグロイドが多く居住するサハラ以南の地域(サブサハラ)に大きく分けて論じられることが多い。 
 
※8 フランク・フレデリクス
ナミビアの元陸上短距離選手。1967年ウィントフック生まれ。オリンピックに3回出場し銀メダルを4つ獲得した。2004年競技を引退し,IOC(国際オリンピック委員会)の委員となった。なお,2023年にボツワナのデボゴが19秒50のタイムを出したため,現在はフレデリクスの記録はアフリカ歴代2位である。

 ※9 マイケル・ジョンソン 
アメリカの元陸上短距離選手。1967年テキサス州生まれ。独特のピッチ走法が特徴で,200m,400mを主戦場とし,世界選手権で8個,オリンピックで4個金メダルを獲得,両種目とも世界記録を更新した(当時)。1996年アトランタオリンピック男子200mで樹立した19秒32のタイムは当時「この先100年は破られない」と言われたが,2008年北京オリンピックにおいてウサインボルト(ジャマイカ)が19秒30で走りこれを更新した。現在の世界記録はウサインボルトの19秒19(2009年)である。   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?