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いかなる極悪人も、自分を悪人だと思う人はいない。(D.カーネギー)

黒豹コメント:

今回は、小説を書く上で避けて通れない「悪人」について考えてみました。

拙作ですが、記憶が飛ぶほどの地獄を見せつけられた少年が、暗黒の世界で生き抜いていくノワール小説を書いたときでした。
※ ノワール小説は暗黒小説と訳され、犯罪者、言い換えれば悪人を主人公とし、悪の視点から見た世界を描く小説。
殺人を重ねる主人公は悪人であることは確かなのですが、書き進めるうちに、本当の悪人は、善悪を越えた世界に存在するというところに行きつきました。

『善と悪の世界にボーダーはない』

ある有名なホラー作家の先生から、悪人の描き方についてお話を聴いたことがあります。

「狂人は書いても変態は書いてはいけない」

人がどう思おうがかまわず突っ走る悪人を狂人と定義し、変態とは読者に不快感を抱かせる犯罪者と説明されておりました。
確かに、先生の代表作を読んでみると、これでもかと残酷極まりない悪人がたくさん登場しますが、不思議と不快感は残りません。

多くの物語は、善と悪の対立構造の中で闘いを展開し、ハッピーエンドまたはバッドエンドに持っていきます。読者に不快感を持たせずに、ほとんどは、悪は滅びるという心地よい読後感を導き出す作業。

しかし現実の世界は、
『善と悪の世界にボーダーはない』

混沌とした現代社会は、毎日のように塗り替えていく凶悪事件の様相を見ても、もはや善悪の世界を乗り越えて「悪人」の存在を露にしております。

表題は、悪人の本質について、
人間関係研究者 D・カーネギーが結論付けた言葉。

こうなると、悪を描くことはますます難しくなります。
また、凶悪事件の顛末を見ていると、カーネギーの言葉は、悪人と言うよりも人間の本質をついているようにも思えます。

私たちも、信号無視や飲酒運転など、いとも簡単に法の網にかかります。だが、本当の悪人は法で裁くことができないところに存在する。言い換えれば、返り血を浴びないところでほくそ笑んでいる。

土壌を改良しない限り、無差別殺人と言う名の雑草は増え続ける。

今は弱い者がより弱い者を狩るという構図となっており、それをコロセウムのようにワインを片手に上から眺める人々がいる。だが、いつか対極となる本当の悪人が出現したときは、弱者が流した血の色を思い出すでしょう。

昭和の渋谷、任侠界の伝説的組長の言葉。
「俺たちは何でもするけど、人を裏切ることだけはしねぇんだよ」
この言葉は、常在戦場を生き抜く者の矜持でもあり、組織を維持するための掟なのかもしれない。

自分も、小説(らしきもの)を書き始めて、
それまで隠されていた自分の未熟さや醜さがぼろぼろと出てきました。
同じ文章でも、報告書や論文と違い、小説は書き手の人格の裏の裏までさらけ出すことになります。たとえ売れなくても、己の本質を知るという点で、他では得難い収穫があります。

もしかしたら自分は悪人なのかもしれない、また、悪人になり得るかもしれない、という戒めは、いつも持ち続けたほうがいいかもしれませんね。

伝説の侠客のように、人を裏切らず、本当の「悪人」になることだけは避けたいと、日々修行を重ねているところであります。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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