なぜおカネを取るのに、お寺はお守りを『頒布品』と呼ぶのか
おはようございます。お寺職員の慈岳です。
お寺でよく使われる『頒布品』という言葉。『頒布』とは売ることではなく広く配ることを意味し、宗教界以外でも時折聞きますよね。それらには本当の無償での頒布もあれば、おカネと引き換えの頒布もあります。
後者において、おカネ取るのになんで『商品』じゃないんだ?と思われる方もおられるでしょう。そこでちょいと、理屈をこねくり回そうというのが今回の趣旨。
●『頒布品』という言葉のナゾ
『頒布品』とは広く配る品のことで、『配る』は割り当てること。『おカネを取って』とも『おカネを取らずに』とも、辞書には書かれていません。商品は頒布品の仲間と言えるものの、交換や売買の目的物です。頒布品=商品というわけではありません。
分かりやすく言わんかい!と思った方は、以下の会話文を。
参拝客「こんにちは。些少ではございますが包んでまいりました。お寺の役に立ててください」
お坊さん「本日はようお参りです。こちらの御朱印帳、よろしければお使いください」
どちらの行為もそれぞれ独立した『財物の施し』で、本来あるべき姿です。参拝客は御朱印帳をよこせと言わずにお布施しましたし、お坊さんは代金をよこせと言わずに御朱印帳を頒布しました。喜捨や財施などと呼びます。
では、次のケースではどうでしょう。
参拝客「御朱印帳ください。いくらですか?」
お坊さん「はいどうぞ。3,000円です」
この場合、参拝客はおカネの代わりに御朱印帳、お坊さんは御朱印帳の代わりにおカネを求める『取引』を介しての頒布ですね。双方が合意すれば売買契約成立となり、出したモノに対する見返りを、お互いに得ることとなります。
あまりお寺と縁がない方は、お寺も『商売』だと思っておられるかも知れませんが、実は喜捨も日常的にけっこうあり、私らも御礼やお土産として頒布品を渡したりしています。
おカネをお寺に、モノを参拝客に渡す手続きはどちらも同じ。しかし、そこに『見返りを求める心がない人』もおられるので、お寺ではお守りその他を『頒布品』と呼ぶのです。
●頒布品の『代金』は、定価ではなく最低額
喜捨は自分がしたいだけして構いません。それなのに、なぜお寺が頒布品に値段を設定するかと言いますと、1つは参拝客のため、2つはお寺のためです。順番に行きましょう。
1つ目。
現代日本の参拝客は資本主義経済社会にいますから、何かを頼むときは『相場』を気にします。お寺から「お気持ちで」と言われても、お互い様精神や経済リテラシーの高い人ほど、いくら包めば良いのか分からず困ってしまいます。なので、分かりやすくするためにお寺は値段を提示しています。
2つ目。
頒布品を作るにも経費が掛かります。お守りでしたらお札を作っている紙代や印刷代、書き手の人件費、お守り袋の布代やヒモ代、縫製代、拝むお坊さんの生活費……などなど掛かり、タダで作るのは不可能です。そのため、赤字になるような金額ではお守りをお授けしづらいのですね。
この2つの理由に喜捨の原則を加味しますと、頒布品に付いている値段は『お授けすることが可能な最低額』という結論が見えると思います。
つまり、お守り授与に1,000円が示されているからといって、必ず1,000円のお納めでなければならないということはないわけですね。1,000円以上であれば1万円でも1億円でも、納めたいだけ喜捨をすれば良いのです。
現代日本では、ご葬儀でも御朱印でもお寺側が金額を示すことが一般的です。しかしそれは『定価』ではありません。お寺でおカネを納める行為において、『提示額を下限とし、上限はない』と考えると分りやすいかなと。
●お寺へ送金するときは手紙や電話で使途を教えてね!
頒布品から離れますが、こちらにも触れておきましょう。
お寺には時折、事前事後の連絡なくおカネだけが振り込まれたり、現金だけが入った書留が届いたりすることがあります。何のおカネなのか分からないときは過去帳首っ引きで調べ、それでも分からなければ連絡手段をフル活用して、送り主に使途の確認を取ります。
詳細は割愛しますがお寺の経理は複雑で、御朱印帳頒布は課税、御朱印授与は非課税など、いろいろ仕訳がありまして。無言でおカネだけ送るとお寺から鬼電が掛かってきたり、突然手紙が届いたりするという事態に陥ります。一筆箋や電話とかでいいので一言使途をお知らせになってください。
『坊主丸儲け』などと揶揄される私らですが、宗教法人の経理は一般企業と変わらないか、それ以上に厳しいです。伝票ひとつ書き方を覚えるだけでも大変です。アヤしい伝票は税理士さんから1件も1円も漏らさず詰められます。
喜捨を含めてお寺へ送金される際は、何のおカネか必ず教えてください。
ご協力のほど、どうぞ宜しくお願い致しますね。
おわり(合掌)
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