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映画「カラオケ行こ!」17回目、および18回目を見た後の私的な覚え書き。



⚠ネタバレしかない。 
⚠オタクの私的な覚え書き。 
⚠オタクの妄言多謝。 
⚠「カ!」原作は、映画前に一度読了済みだが、原作との違いをあーだこーだ言うつもりは一切なし。 
⚠「ファ!」未読。



映画は、できれば、午前中に観てしまいたいオタクです。
朝イチとかにやってると、めちゃめちゃ嬉しい、朝活派なもんで。

映カ!もロングランとは言いつつ、19時以降の回しかなくなってきて、観終わったあと、幸せの余韻に浸りたいのに、帰って、すぐに寝ないといけない、自分の生活スケジュールに嫌気がさす…
まぁ、社畜なんで、致し方ないっちゃあ、致し方ないんですが。
なので、ハッピーエンドな映画ならば、朝イチに観て、その日1日を幸せな気分のまま、ずっと過ごしたい。
草彅さん主演の「ミッドナイトスワン」を観たあと、3日間くらい、延々と鬱状態を引きずったので、バッドエンドの作品は、ちょっとトラウマになりかけてるしな。


映画軸での、狂児というファンタジー893、いわゆる、カタギではない人間の再現度について。
・肩で風を切って、歩く感じ。
・煙草を吸う時、猫背みたいに丸まる背中。
・合唱コンクールの看板を見る、立ち止まった、その肩を内側に張る姿勢。
多分、その姿勢が、入れ墨を一番綺麗に魅せる姿勢じゃなかったかな…
その筋の人と、嫌でもわかってしまう、独特な佇まい。
ミナミ銀座の薄暗い路地裏から、ポケットに手を突っ込んで、大股で、ズンズン迫ってくる感じ、強烈な肩パンくらっても、びくともしない体幹。

♪少年時代を歌い終わったあと、少しの静寂の合間→♪紅の出だしの前に、正装なジャケットを羽織るのに、わざわざ、座ってる聡実くんの目の前を横切る細い腰と、ゴツい腕時計をはめた、骨張った手首の感じ。
普段、暴力という爆発的な体力を使ったとしても、汗ひとつ、顔色ひとつ、変えなさそうな男が、ぐったりとやつれた姿に、にじみ出る色気。
常に、夜の匂いがする男。

狂児が纏う夜の雰囲気とは、全く真逆な、明るい場所の象徴のような、合唱部のシーンについて。
元・合唱部員の皆様の記事を見ると、そうそう、こんなんだったと、懐かしむ方々とは別に、コンクール出場ありの強豪校出身の方々は手厳しい感想で分かれていて、同じ合唱部でも、部活にかける熱量や精神的ストレスは全く違うんだなと、しみじみ。
私も中高と元・合唱部で、中学時代は公立の女声三部、高校は私立の混声四部でしたが、どちらもNコンや朝日の予選には、かすりもしない弱小だったので、ももちゃんセンセのような、ゆるい感じの部活の空気感については、懐かしみのほうを強く感じました。
でも、言われてみれば、聡実くんが所属している中学校の合唱部は、本番の舞台と同じく、部室に部員が立つ段差がちゃんと設置されているし、顧問とは別にコーチがいるくらい、代々、金賞をとっている強豪校っぽいので、やはり、そこはファンタジーらしく、軽めな演出なのかなと。

中学3年の時、合唱にすごく熱心な男性の音楽教師が異動になり、代わりに、まさにももちゃんセンセみたいな、若めな女性の音楽教師が赴任してきて、当時、私の親友ポジの子が部長やってて。
その子は小さい頃から、ずっとピアノやっていただけあって、その女性教師よりもピアノ演奏が上手いこともあり、経験値の少ない教師のことを受け入れられず、事あるごとに、和田くんみたいに反発していて、あぁ、こういう空気になるよなーと、あの時の居心地の悪さを思い出して、毎回ちょっと、ソワッとした心持ちになる。
あの頃に感じていた、なんとも言えない、居た堪れなさみたいなモノの空気感の再現度は、すごく見事だなと、毎回思います。


既にもう何回か、覚え書きにて前出している、聡実くんと狂児の出会いについて。
【ファーストコンタクト(first contact)異なる文明または種族間における、個人または組織間の最初の相互接触のことである。-Wikipedia】
まさに、異なる世界観の2人。
市民ホールの階段の中段にて、得体の知れない男に追い詰められた聡実くんが、息を飲んで、恐怖に固まるところ。 
何回見ても、あそこは、普通に怖い。
狂児の、にやあっていう、粘度のある笑顔のせいか、その笑ってない、空っぽのビー玉みたいな目のせいか、どっちだろうなーと思っていたら、何回か見てる方の記事にて、音声ガイドの存在を知り、初めて利用してみて、自分自身の恐怖の根源が、ようやく判明。

音声ガイドによれば、あそこの狂児、聡実くんを「舐めるように、見る」ってなってて…
うわぁ…完全なるアウトや…
聡実くん、逃げてー!
聡実くんの身の危険を、本能レベルで感知した結果、あそこの狂児が、ずっと怖いんだなと、腑に落ちました。
良かった良かった…え?
良く、はないやろ…舐めるように、やで…
やっぱり、目つき、ヤバいねんて…
あかん…狂児、怖すぎる…(震撼)


映画軸の聡実くんは、最初から狂児の存在を、893で大人だと理解しているし、狂児が亀の傘を届けに来たていで、カラオケに誘ってくるところでも「友だちちゃうねんからカラオケなんて行きませんよ。大人が子どもを誘いますか普通」と言っている。
そのあとの時間軸では、段々と、狂児という酷くアンバランスで、危うい魅力の男に引き寄せられていってしまう、聡実くんの心持ちとしては、友情的なモノよりも、憧れや思慕のほうを感じてしまうのは、やはり、腐ったオタクだからか。

一方、狂児の、聡実くんへの接し方を見ていると、自分に歌を教えてくれる、尊敬するべき「先生」だったり、夜道の一人歩きを心配しなくちゃいけない「子ども」だったり、くだらないことを言いあって笑い合う、気心知れた「友だち」だったりする。
その都度、狂児の感情の起伏が、リズミカルに変化していくので、観ているこちら側としては、この893、情緒不安定すぎんか…と、いつも理解不能に陥る。

常に無表情、真顔がデフォの聡実くんの心情を、ずっと一緒に過ごすうちに「ヤクザが説教すんなって顔」と、わかるようになった狂児。
けれど、映画を見る部の栗山くんと聡実くんの、互いの目を見れば、だいだいのことが分かる、という関係性では、決してない。

聡実くんと狂児が、共に過ごした時間と、その濃度的なこともあるだろうけれど、映画軸の聡実くんは、多分、狂児の目を見ても、その深いところにある、本当の感情を読み取ることは、かなり難しいのではないだろうか。
それだけ、狂児という男が、自分の気持ちを隠すことに長けている大人という、聡実くんがどう頑張っても、縮むことのない2人の年齢的、時間的な距離感が、聡実くんを苛立たせている気がする。

この映画のキャッチコピー「青春も、延長できたらいいのに。」からすると、公的な括りは、青春映画なんだろうし、狂児にとっては、もう一度、それこそ、中学生の頃に戻っての、何も考えず、友だちと、じゃれあうような、聡実くんとの青春なやり取りなのかもしれないが、映画のなかで、聡実くんは、それを「ちゃうわボケ!どこをどう見たら、くっさい青春やねん!」とブチ切れて、否定する。
映画を見る部の栗山くんが言うように「巻き戻せない」モノはある。

カラオケと、合唱。
最初から、噛み合うはずはないのだ。
聡実くんも、きちんとわかっていて「僕が渡した冊子は合唱用なんで、カラオケの役には立ちません」と言っている。
ももちゃんセンセが言う「合唱は独りでやるものやないからね」、この台詞の通り、まさにカラオケとは正反対であり、カラオケが個性を際立たせるものならば、合唱は大人数で没個性の歌声を追求していく、歌唱法とも言えるだろう。
だから、狂児は最初から、教えてもらう相手の選定を、基本的に間違えているのだけれども、運命的とも言えるタイミングで、天使の歌声に出会ってしまった。
自分が無意識化で、ずっと求めていたモノを見つけてしまった男は、もう、ソレしか、目に入らなくなったのかもしれない。
市民ホールの薄暗いロビーで、その子どもを待ち伏せるほどに。

この映画は、聡実くんと狂児の噛み合わなさで成り立っている話だと解釈すると、やはり聡実くんと狂児の、互いを想う気持ち自体も最終的にズレているのが、聡実くん側に立ってしまうと、ひどく切ない気分になる。

合唱祭当日、狂児の事故を知り、聡実くんが市民ホールから走り出し、残された和田くんが「やったるわ。逃げた部長のぶんまで」という台詞がある。
聡実くんが、声変わりという壁にぶつかり、今までのように綺麗なソプラノが出ず、うまく歌えないから、合唱祭のソロから逃げたという面もあるとは思うけれど、もう、この時点では、聡実くんは、お母さんに「どうせ、うまく歌えへんと思う。それでもえぇかなって」と言っていたように、その事実をきちんと受け止められている。
誰でもない、狂児という男の言葉によって、中学生の聡実くんは、きちんと成長期を受け止められたのだ。
聡実くんは、3年間の集大成である合唱祭よりも、うまく歌えない自分も、また自分自身だと、教えてくれた狂児を選ぶ。
聡実くんのなかでは、今まで大事にしていた歌よりも、もっと大事な、自分にとって、失くしたくない人を、ただ選んだだけのような気がする。
逃げ、というより、優先順位的に。

漫画原作の二次的な作品=実写化について、原作と比べてとか、現実と比べてとかを逐一、あーだこーだ言うつもりは毛頭ないけれど、続編にあたる『ファ!』が、聡実くんと狂児、2人にとってのバッドエンドだったとしたら、どんだけ鬱になるか…今から、自分の情緒が恐ろしすぎて、震える。
なので、原作についても、まだちょっと読まない選択肢を貫く所存(メンタル大事に)


最後、名前について。
狂児が言う「生まれたそばから、人生の歯車が狂ったわ」という台詞は、自分自身が893になった諸悪の根源というか、根本的な理由みたいな位置付けで、聡実くんに話しているけれど、真面目に生きようとしても、どうしても、まるで世界の強制力のように、自分自身ではどうにもならない、逃れられない大きな流れのなかに、身を任せた結果としての「今」の自分だという説明は、被害者的な思考として、まぁ、理解できる。
けど、それは、あまりにも他人のせいにしすぎな気もする。
だって、自分が本当に嫌だったなら、ヒモになることも、893になることも断固拒否できただろうし、そこの流れに、流されてしまったのは、確実に狂児の意思も少なからず含まれており、100%、狂児の祖父が面白半分に付けた、名前のせいだけではないだろう。
そういう環境的なモノを考えると、狂児の執着心のなさ、流されやすさ、空虚感を感じてしまうし、なんというか…聡実くんを見つけられて、ほんま、良かったなぁ、と思う。

自分の背中の彫り物の「鶴」という絵柄を選んだのは、狂児自身だろうから、絵柄の意味も、きちんと知った上で、選んだんだろうけど、やっぱり、狂児のなかでの「自分とは正反対のモノ」への、無意識的な執着は、かなりのものだし、無意識化で、それこそ、ずっと、手に入れたかったモノ、だったのではなかろうか。

鶴の絵柄が象徴する意味: 「幸福」「慶事」「天国」「清廉潔白」「節操」「長寿」

生まれた瞬間から、歯車が狂った自分とは、全く違う、正反対の、真っ白で、真っ当なモノ。
ずっと、欲しかったモノと、運命的に出会って、ソレを、天からの『お告げ』やと思った男の、無意識化での執着心。
こちらも、こちらで、意識してしまえば、かなり拗れそうな案件な気がする…
既に、舐めるように見る、だけで、終わらずに、まとわりついてる、からな…(公式が最大大手の法則)