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「言う」こと、「正しい」こと、「信じている」こと

うちの弟一家は、お互い言いたい放題だ。
傍から見ると、ケンカしているようだが
当の本人たちは言うだけ言って、あとはケロッとしている。
私は比較的、場を荒らしたくないので
思ったことを抑えるタイプだと思っていたが
言える人には言っているそうだ。
自覚はないのだが、自覚がないくらい
自然と思ったことを口にしているのかもしれない。
家族や親しい仲間、そんな人たちに。

一方で、これを言うと傷つけてしまうかな、とか
そんな気遣いから言えないこともある。
言えずに溜め込み、もやもやしてしまうのだが。

韓国ドラマを見ていて、なにに憧れるって
思ったことをストレートにぶつけ合っているところだ。
あれだけ言えたら、気持ちいいだろうな、
そんなふうに何度思っただろう。

が、韓国人とてそんな人ばかりではない。
『サムダルリへようこそ』を観ていて
思うことを言わずに抑えてきた人を見つけた。
高校時代に母親を海の事故で亡くした主人公ヨンピルだ。
彼は、その事故により悲しみを引きずる人たちのために
「我慢する」ことを選択をしてきた。
大好きな人たちを守るため
つらいことも、好きなことも
相手に対する感情をすべて心のなかに閉じ込めていた。
が、そのことが逆に悲しみから抜け出せない理由だと気づく。
そして、ある日、父親に対してこう宣言する。

「これからは父さんに全部言う。
つらいことも、我慢していたことも……
それが守る方法だ」

言わないことが、やさしさと思いがちだけど
言うことで、お互いの心が守られもするんだなぁ。

ところで。
ある起業家の話だ。
「パパが言うことはいつも正しいの?」
そう娘から訊かれた彼は、こう返したという。
「いいや、いつも正しいわけではない。
でも、パパがおまえに話すことはすべて
パパが信じていることだ」

素敵じゃないか!
正しいか、間違っているかで
人は物事をとらえがちだ。
正しいことを言いたい。
正しいことをしたい。
そうなると、がんじがらめになり
お互いに言い合いになる。

でも、「信じていること」なら
お互いに尊重できる。
そして、
人は「正しい」ことをやるとは限らないが
人は「信じた」ことは不思議とやるものだ。
逆に言えば、「信じた」こと以外、やろうとしない。
人が動くのは「信じた」ことのみだ。
「正しい」より、「信じている」のほうが強いのかもしれない。

「好き」もそうだよなぁ。
「好き」に正しいも間違いもなく、
「好き」はただ「自分が信じている」ものだ。

先日、友人と話していたときだ。
「絵が描けたり、楽器が弾ける人って
いいな、うらやましいなと思う」と言うと
彼女はこう言った。
「え、描けばいいじゃん。弾けばいいだけじゃん」
ぐさっと、刺された。
確かに、描けばいいだけ、弾けばいいだけなのだ。
「上手い下手とか、描かない人が言うこと。
描けば、その人の絵になるんだから」
さらに、ぐさっと刺された。
たぶん、私は絵を描く気も、楽器を弾く気もなくて
ただ憧れているだけだったのだ。
描きたいなら、とうに描いているはず。

上手いとか下手に縛られることと
正しいとか間違っているに縛られることは
さして変わらない気がする。
相手を傷つけるとか傷つけないとかも
もしかして同じかな。

相手が傷つかないように気遣うことも大事だけれど
自分が「信じている」ことなら、
伝えてもいいんじゃないか、
伝えたほうがいいんじゃないか、
そんなことを思いながら
『サムダルリへようこそ』を観ている。



「正しい」は強要
「信じる」は選択



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