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スーパー戦隊が終わるとき

 スーパー戦隊の歴史が、終わろうとしている。
 今月の三日、スーパー戦隊シリーズの新番組「爆上戦隊ブンブンジャー」の放送が始まった。1975年に放送された「秘密戦隊ゴレンジャー」から数えて、48作目だ。現時点までに放送された第一話、二話を、私は見ていない(私はもう20年以上、スーパー戦隊を見ていない)。SNS等で視聴者の感想を漁ってみると、こんな言葉が目立つ。
「久しぶりに、戦隊らしい一話を見た」
 近年のシリーズが、いかに「戦隊らしさ」からはなれていたか、ということが、よく現れている。
 既に書いたように、私は20年前の「爆竜戦隊アバレンジャー」を最後に、スーパー戦隊を卒業した。毎年新たに製作・放送される作品のタイトルやメディア等で紹介される大まかな内容は知っているし、最初の一話・二話ぐらいは見ているが、最終回まで通年で見る習慣は、ここ20年絶えている。
 だから私の、近年のスーパー戦隊についての知識は、メディアを通じてのものや、今でも戦隊を見続けている人たちがSNSやブログ、5chの特撮板や特撮双葉といった作品掲示板に書き込んでいる意見や感想を通じて得たものであり、実際に番組を見た上でのものではない。
 私は、世間の人から見れば、「特撮オタク」「特撮マニア」といわれるタイプの人種に属する。「シン・ゴジラ」「G-1.0」「仮面ライダーBLACK SUN」「シン・仮面ライダー」「シン・ウルトラマン」という特撮作品を視聴し、いわゆる「三大特撮」に属さない、「牙狼」などの成人向け特撮や、1960年代から2020年代現在までの日本の特撮映像作品の歴史について大まかな知識を持っていることをもって「オタク」「マニア」と呼ぶことができるのであれば、私は特撮マニアであり特撮オタクだ。
 事実として、私は特撮が好きだ。仮面ライダーやウルトラマン、ゴジラなど、成人してから複数の作品を熱心に見た経験がある。しかしスーパー戦隊シリーズに関しては、成人してから私が全話を見た作品は、一つしかない。
 未来戦隊タイムレンジャー。
 2000年に放送された番組である。同作は、玩具売り上げが振るわなかった。
 そんな「戦隊のにわか」である私でも、これくらいのことは知っている。
 ここ10年程、スーパー戦隊は、玩具の売り上げが低下していることを。
 スーパー戦隊にとって、玩具の売り上げの低下は、すなわち本来の顧客層である子供たちからの人気の低下を意味していることを。
 この状況の中で、東映が「人気回復」を目指し、試行錯誤を繰り返しながら、いまだに大きな改善は達成できていない、ということを。
 このぐらい、ネットを使っていたら、大体わかる。
 もしかしたら、スーパー戦隊というコンテンツを真剣に愛している人たち、すなわち毎年番組を視聴し、ロボや変身アイテムなどの玩具を多々買い、映画やVシネクストやGロッソのヒーローショーなどにお金を使っている人たちにとっては、私がこういう文章を書いているという事実は、不快なことかもしれない。
「番組を見ることすらしていない、スーパー戦隊のファンですらないお前が、いったい何を語っているのだ。おまえは何様のつもりだ?」と、「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」の第一話に出てきた元卓球部員の高校生のように、怒りのあまりヒトツ鬼になってしまうかもしれない文章を、私は書いている。
 だが、ヒトツ鬼に変じてソノイに成敗される前に、落ち着いていただきたい。私のようなにわかだからこそ、語れること、理解できることがある。私は戦隊をほとんど見ていないが、仮面ライダーはいくつか見ている。「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダーカブト」「仮面ライダーキバ」「仮面ライダーDCD」「仮面ライダー鎧武」「仮面ライダーエグゼイド」「仮面ライダービルド」「仮面ライダージオウ」を見た。
 中学二年生の時に「仮面ライダーキバ」を毎週見ていた私でさえ、同じ井上敏樹脚本の特撮番組である「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」を最後まで見なかったという事実こそが、実は逆説的に「スーパー戦隊」の現在の問題点がどこにあるのか、を示している。
 従来5人が上限だったスーパー戦隊の初期メンバー数を9人にまで増やした「宇宙戦隊キュウレンジャー」(2017年)
 二つの戦隊が立場の違いから対立する斬新な作劇を一年間続けた「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」(2018年)
 人間一人とロボット四体という史上初のメンバー構成の戦隊であった「機界戦隊ゼンカイジャー」(2021年)
 平成仮面ライダーシリーズの礎を築いたベテラン脚本家・井上敏樹を起用した「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」(2022年)
 LEDウォールという最新技術を投入し、日本の児童向け特撮テレビ番組としては前代未聞の異世界表現を一年間続けた「王様戦隊キングオウジャー」(2023年)
 ここ数年、東映が、スーパー戦隊というコンテンツにおいて、「いままでとは違う」新機軸を、物語の面でも、映像技術の面でも積極的にとりいれる試行錯誤を繰り返していた。その中には、大人向けのドラマと同列に評価されてギャラクシー賞を受賞した「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」や、前作より玩具売上を上げた「ドンブラザーズ」のように、成果を出したといえる作品もある。また、「キングオウジャー」において「現代日本とは全く異なる風景の世界を、最新の技術によって実写映像として作り上げる」という挑戦を一年間続けたことは、東映作品、特撮番組という枠を超え、歴史的な意味を持つ達成であった。
 しかし、にもかかわらず、スーパー戦隊というコンテンツ自体の、商業的な人気は、回復していない。シリーズの最大かつ継続的なスポンサーであるバンダイが、満足するほどには。バンダイの社長自らが、「子どもたちの間で、戦隊の知名度が落ちてきている」と危機感を明言するほどに。
 東映の努力が実を結んでいないのは、物語や映像技術ではなく、「戦隊」という表現の形式自体が、既に時代に適合していないからではないか?
 わかりやすく言えば、戦隊は、社会から、飽きられてしまった。
それが最も妥当な現状分析であると、私は考える。
 現在、日本の児童向け特撮番組というジャンルには、「三大特撮」と呼ばれる三つのシリーズがある。ウルトラマンシリーズ、仮面ライダーシリーズ、そしてスーパー戦隊シリーズである。ウルトラマンシリーズは1966年放送の「ウルトラQ」から始まり、仮面ライダーシリーズは1971年放送の「仮面ライダー」に始まり、スーパー戦隊シリーズは1975年放送の「秘密戦隊ゴレンジャー」に始まる。
 スーパー戦隊は、日本の特撮を代表する「三大特撮」の中で、最も若いシリーズだ(ゴジラシリーズはこの三つとは、また別格の地位にいる、と思う)。
 こうも言える。スーパー戦隊という番組は、日本の特撮ヒーロー番組の完成形である、と。「昭和」という時代に限定するならば、だが。
 私は、1994年生まれだ。だから、現在日本で「特撮」と呼ばれるコンテンツが生まれた「昭和」という時代を、直接この目で見たことはない。私はデンライナーもタイムマジーンも持っていないから。スーパー戦隊が生まれた、1970年代という時代を、私はこの目で直接見たことはない。
 しかし、どんな時代であったかは、知っている。
 1971年の「帰ってきたウルトラマン」「仮面ライダー」の放送開始によって、日本の70年代は、「変身ヒーローブーム」となった。
 レインボーマン。シルバー仮面。アイアンキング。人造人間キカイダー。キカイダー01。変身忍者嵐。イナズマン。ロボット刑事K。ミラーマン。ファイヤーマン。恐竜戦隊コセイドン。宇宙鉄人キョーダイン。スペクトルマン。東映版スパイダーマン。
 実質的には三大特撮しかシリーズが存在しない今では考えられない程、多くのヒーローたちが毎年生み出され、毎週ブラウン管テレビの画面の中で悪と戦っていた時代、それが1970年代だ。
 この時代に、スーパー戦隊の第一作「秘密戦隊ゴレンジャー」は生まれた。「変身ヒーローブーム」の火をつけた「第二期昭和ウルトラシリーズ」及び「仮面ライダーシリーズ」が一度シリーズを休止せざるを得なくなり、市場から撤退したのと、ほぼ同時期に。
 この事実は、重要である。ウルトラマンと仮面ライダーという、二大人気ヒーローが一度退いた時期に、入れ替わるようにして登場したのが、スーパー戦隊だ。その後、ウルトラマンも仮面ライダーもほぼ新作が途絶えた1980年代という「特撮冬の時代」に毎年継続・発展を続けて日本の文化として定着したのが、スーパー戦隊だ。
 16年にも及ぶ空白期間を経てウルトラマンが復活し、「ウルトラマンティガ」「ウルトラマンダイナ」「ウルトラマンガイア」いわゆる「TDG三部作」が人気を得た時期、スーパー戦隊の玩具売上は大きな低下を示している。ウルトラマンに購買層を奪われた、とみるのが妥当だ。現在のスーパー戦隊の苦境の一因も、ここ10年間でウルトラマンシリーズが「ニュージェネレーションシリーズ」として人気復活を遂げたことによってもたらされたと私は考える。ウルトラマンに、人気を奪われているのだ。
 特撮ファン界隈は、とかくウルトラマンと仮面ライダー、もしくは仮面ライダーと戦隊を、ライバル関係として想定しがちである。しかし商業的な側面では、むしろ戦隊とウルトラマンこそが、ライバル関係にある、と私は考える。シリーズ三作目である「バトルフィーバーJ」以降、ヒーローたちが乗り込むスーパーロボットが登場し、巨大化した敵怪人と戦う、という展開を、スーパー戦隊は毎回の定番として組み込むようになった。このスーパーロボットの玩具は、戦隊の販売商品ラインナップの上で、最も重要な位置を占めている。一番売れる玩具なのだ。「スーパー戦隊の玩具売上の不振」という、バンダイが問題視する状況は、実質的には「戦隊ロボ玩具が売れていない」という状況を指す。「ゼンカイジャー」で「戦隊メンバー五人の内、四人がロボである。彼らが巨大化・合体することで戦隊ロボになる」という世界初の設定を選択したのも「ロボ」という存在をアピールしたかったからであることは明らかだ。売りたい玩具を劇中でアピールすることを販促(販売促進)と呼ぶが、ロボをキャラとイコールにすればキャラのドラマを映すだけで販促になるという計算が、おそらく白倉伸一郎プロデューサーの頭にはあった。
 戦隊は巨大ロボの販促を重視しているがために、敵との巨大戦を毎回のクライマックスとしている。そして「巨大戦を作劇上のクライマックスにしている」という点で、ウルトラマンと戦隊は同じなのだ。ウルトラにおいて販促されているのは、ウルトラマンや怪獣といったキャラクターたち、それに防衛隊のメカなのだが、これらが活躍するのはもちろん、「ミニチュア特撮の中での巨大戦」という、戦隊と同じフィールドである。特に「ウルトラマンZ」では防衛隊も巨大ロボットを使って怪獣に対抗していたから、戦隊との映像上の類似点はさらに増した、といえる。
 同じ「巨大な存在同士がミニチュア(最近はCGも使うが)の中で戦う」というシチュエーションを販促上最も重要な位置においているのだから、戦隊とウルトラマンの商業的な顧客層は、実質的には重なっていると私は見ている。そして「ウルトラマンギンガ」が放送された2013年から「ウルトラマンブレーザー」が放送された昨年2023年までの10年間は、「ウルトラマンシリーズが連続放送された年数」としては、史上最長である。ここ10年間で、ウルトラマンは一時期の停滞が嘘であるかのように市場の支持を回復し、それと反比例するかのように、戦隊の売り上げは落ちた。
 スーパー戦隊が、日本を代表する特撮ヒーローの一つであることは事実だ。しかし、その誕生と発展の歴史が、ウルトラマンと仮面ライダーという二大ヒーロー・コンテンツが市場から一時的に退いていた時期になされたこと、逆にウルトラマンと仮面ライダーが両方とも商業的には好調の時期(つまり今)には、戦隊は「客」を奪われてしまい商業的に苦戦すること、この二つもまた、事実なのだ。
 ちなみに、「ゴレンジャー」が始まった1975年は、昭和ゴジラシリーズが「メカゴジラの逆襲」を最後に、一度休止した年でもある。
 当時の子どもたちの視点から見れば、ゴジラも終わってしまった、ウルトラマンも終わってしまった、仮面ライダーも終わってしまった時期に、カラフルで派手でカッコいいヒーローとして颯爽とブラウン管に登場してくれたのが、「秘密戦隊ゴレンジャー」だったということでもある。
 子どもたちが熱狂したのは、当たり前だと私は思う。仮面ライダーは一人だけだったけど、ゴレンジャーは五人もいて、しかも毎週出てきてくれる。数多のテレビ・ヒーローたちが活躍した70年代においてでさえ、赤・青・緑・黄・桃というカラフルなコスチュームで色分けされた彼らは、とりわけ異彩を放ち、今からすれば野暮ったく見えるぶかぶかのスーツでさえスタイリッシュに感じられたのは、想像に難くない。
 79年の「バトルフィーバーJ」以降は、巨大ロボットを登場させることで、戦隊はミニチュア特撮という要素を取り込んだ。仮面ライダーのような等身大ヒーローのアクションと、ウルトラマンのようなミニチュア特撮という、いわば二つの美味しい食材を毎週味わえる豪華なコンテンツへと、戦隊は進化した。ウルトラマンも仮面ライダーも実質的にはいなかった時期に、日本の子どもたち、特に男の子たちの支持を盤石なものにした。1980年代という冬の時代に、同じ東映のメタルヒーローシリーズとともに、日本の特撮という文化を守り抜いた戦隊の功績は、偉大だ。
 しかし、上記で上げた「二つの美味しい食材を毎週味わえる」という戦隊の映像的な魅力は、今ではむしろ、作劇の困難さを生み出す枷になっている。
 日本において特撮と呼ばれる作品群は、基本的にはアクションもの、バトルものである。例えば不思議コメデイのように、平和な日常をメインに描く作品もあるが、三大特撮や怪獣映画など、一般的に「特撮」を代表すると見なされている映像作品は、すべて何らかの戦いを描いている。都市のミニチュアセットの中で怪獣と巨大ヒーローが戦うか、もしくは岩船山の採石場で等身大の怪人とマスクヒーローが戦うか、といった種類の違いがあるだけだ。特撮とは、基本的には広い意味でアクションものなのである。
 そして、アクションは、ストーリーと相性が悪い。
 用いる手段が巨大ロボットであれ銃であれ、あるいは鍛え上げた肉体から繰り出される拳であれ、ある存在Aとある存在Bが戦っている間、ストーリーは停滞する。映画批評において、アクション映画というものが格の低いものとみなされるのは、アクションと面白いストーリーというものを両立させることが困難だからだ。アクション映画というジャンル内での名作はあり得ても、アクション映画に名作なしといっても過言ではない。アクション映画は、視覚的な迫力ゆえに大衆的な人気を得やすく、しばしば大ヒットするが、ある程度の教養を持ち、物語に対してテーマ性やドラマ性、人間の心理への深い洞察などを求める層にとっては、幼稚な精神性の持ち主にのみ好まれる低級な娯楽だと見なされている。そしてその見方は、一般論としては正しい。
 基本的に、人間というのは成長と同時に単純なものよりも複雑なものを、見た目が派手で視覚的なインパクトだけが強いものよりも地味だが繊細なものを、激しく大きな音よりも無音と静寂を、物理的な運動よりも心理的な活動を描くものを好むようになっていく。アップテンポのBGMの中、終始画面の中で爆発が起こっているようなハリウッド製アクション超大作映画など、いい年をした映画ファンたちからは軽蔑の対象だ。「ハリウッド映画は馬鹿しか見ない」と彼らは言う。「あんなものは、映画ではない」
 戦隊は三大特撮の中でも、とりわけ「幼稚な精神性」へのアプローチによって市場での地位を築いてきた。仮面ライダーもウルトラマンも、そのシリーズの中で幾度か、完全に子どもを切り捨てた、一般的な大人にターゲットを絞った作品を作ろうとしてきたが(そして多くは無残に失敗したが)、戦隊は、そのような野心を、抱いたことすらない。せいぜいが、タイムレンジャーのように、「大人の鑑賞に堪えうる」色気を出すことが、たまにあるくらいだ。
「幼稚で悪いか。子ども向けで悪いか。俺たちは世の中で一番幼稚なちびっこが楽しめるものだけを作るのさ」
そんな開き直りを、戦隊からは感じる。カラフルな5人の、もしくは三人のヒーローが、並み居る敵どもをバッタバッタとなぎ倒し、クライマックスでは巨大なロボットに乗り込んで巨大化した敵を派手にやっつける。ここには、高尚さも文学の香りもドラマ性もない。ケチャップを大量にかけたオムライスのようなものだ。子どもが好むものだけを、つまり激しいアクションとスーパーロボットと視覚的にわかりやすいカラーリングを盛り付けることで、戦隊は子ども向け文化の中で、確かな地位を得た。作劇に大きな制約が付くという、代償と引き換えに。
 日本の特撮番組の歴史の中で、平成仮面ライダーシリーズの初期作品だけが、例外的に、子どもだけではなく一般的な成人層をも、視聴者として多く獲得できた。「仮面ライダークウガ」「アギト」「龍騎」「555」これらの作品を見れば、気づくはずだ。「仮面ライダーと怪人の戦闘する場面が、少ない」と。
平成仮面ライダーの、特に初期作品においては、変身して戦う場面以外の人間ドラマに、作劇上大きなウェイトが置かれていた。基本的に、平成仮面ライダーはアクションよりもサスペンスを物語の中核に据えることで、大人の目から見ても楽しめる作品を作り出した。アクションに力を入れなかったわけではないが、そのアクションにしても、例えばクウガやアギトでは「静寂」や「重さ」や、「痛み」といったリアリティが志向され、作劇上最低限の時間に抑えられた。アクションに力は入れたが、アクションを派手にすることに逃げなかった。それが大人の目から見ても、子どもだましに見えない、心に迫ってくる番組を生み出した。
 これが可能だったのは、仮面ライダーという番組で描く必要があるアクションが、仮面ライダーと怪人もしくはほかの仮面ライダーとのものだけであったからだ。ウルトラマンも仮面ライダーも、劇中で描くアクションはそれぞれ一種類だけだ。ウルトラマンならば、怪獣と戦うアクションだけ。仮面ライダーならば、怪人やほかのライダーと戦うアクションだけ。戦隊だけが、等身大で敵と戦うアクションとロボットが敵と戦うアクションの二種類を描かなくてはならない。アクションをストーリーの進行を阻害する障害物とみた場合、ウルトラマンや仮面ライダーの作劇にはそれぞれ障害が一つしかないのに、戦隊の作劇には障害が二つあるのである。
 しかも、玩具販促という、特撮番組が等しく課される義務は、この「障害」をできるだけ大きくすることを命じる。
 戦隊の、というか日本特撮の実質最大唯一のスポンサーであるバンダイは命じるのだ。
「もっとロボを長く映してください。戦隊ロボの玩具を売るために!」
 玩具販促と、作劇の対立。これは、特撮番組が玩具販売会社財団Bのスポンサードによって成立する限り、永遠に解消しない課題だ。販促を重視し、時間を長くとろうと思うならば、必然的に販促に貢献しない人間ドラマ、変身する前のキャラクターたちが長く映る部分は、可能な限り削り、スピーディなものにしなければならない。だがそれは、物語を犠牲にする行いだ。
 等身大戦と巨大戦の併存という戦隊の特徴が、作劇に与えるマイナスポイントはまだある。等身大戦で一度倒した敵が、敵側の何らかの手段によって復活・さらには巨大化するため、対抗して戦隊側が巨大ロボットに乗り込むという、戦隊の定番的な展開だ。邪悪な敵を倒すという物語上の目的は、五人の力を合わせた必殺バズーカの発射などによって、一度は達成されている。にもかかわらず、敵が復活し、またこれを倒すために巨大ロボで戦うのは、本質的にはただの繰り返しではないか。ストーリーの停滞どころか、ただの無駄だ。
 このように制約を抱えた戦隊の作劇には、大きな困難が伴うことは想像に難くない。優れたストーリーテーリングの技巧を持つ脚本家であれば、アクションによって圧迫された尺の中で面白い話を作れるだろうが、その能力がなければ、単に短くて薄い話を作るしかない。
 近年は一般向けの実写映像作品を手掛けることもあるベテラン脚本家の小林靖子がメインライターを務めた三つの仮面ライダー作品「龍騎」「電王」「オーズ」は、放送当時、玩具売上において高い結果を出した。しかし、同じ小林靖子作品であるにも関わらず、「未来戦隊タイムレンジャー」「特命戦隊ゴーバスターズ」は、玩具売上が振るわなかった。これは、小林靖子ほどの人物をもってしても、戦隊の作劇が、仮面ライダーよりもはるかに困難であることの証ではないだろうか?
 そもそも特撮番組は、玩具の売り上げ実績が、視聴率と同等かそれ以上に作品を評価する基準になるという点で、一般的なドラマとは大きく異なっている。作品に込められたクリエイターの切実な想いはどうあれ、日本の特撮番組は「バンダイの玩具のための30分のCM」として制作・放送されているのが現状だ。普通のドラマならば視聴率が高ければビジネスとしては成功作とみなされるが、特撮番組の場合は視聴率と玩具売上が正反対の結果となることも珍しくなく、そういう場合、特撮オタクの間では必ず意見が分かれ論争となる。どちらを基準に評価すべきか、という問題だ。あるいは、客観的に内容を見れば明らかに悪い点が目立つ作品を擁護したい人が、「売り上げを見てみろよ、高いじゃないか。玩具が売れているのだからこれは名作に決まっている!」などと主張するのも、特撮掲示板では見慣れた光景である。
 基本的に、視聴率が高ければそれは大人から人気が高い作品であり、玩具売上が良ければ子どもからの人気があると考えてよい。玩具を買うのは圧倒的に子供の方だし、実際にお金を出す側である親にしても、子どもが強く欲しがってもいない玩具を買うとは考えづらいからだ。玩具売上が高い特撮番組は、内容への評価はどうあれ客観的には、子どもの人気を獲得した作品である。平成仮面ライダーシリーズを見てみると、第二作目の「アギト」は視聴率が特撮番組としては異例の高さであったが、玩具の売り上げは悪かった。そして三作目の「龍騎」は視聴率こそ当時シリーズ最低であったが、玩具売上は当時シリーズ最高を記録した。アギトはクウガに引き続き大人の視聴者から人気を獲得した一方で、龍騎は子供の人気が高かったと考えられる。これは、当時子どもだった私の実感も入っているが、20年以上たった現在における「龍騎」に対する公式の態度-例えばオリジナルキャストを起用した続編や客演の多さや成人向けの商品展開―も、その証だ。当時「龍騎」の玩具を買った子どもたちが今、購買力を備えた成人になっているから、東映もバンダイも彼らをターゲットにした企画を作るのだ。無論「アギト」も不人気作ではないし、「ジオウ」でのアギトのエピソードにはなかなか力が入っていたが、私の印象としては「龍騎」ファンの方が、狙われているように見える。
 近年の戦隊の玩具売り上げ不振を、「子どもからの人気の低下」と見るべきなのは、これが理由だ。無論、「熱心に見てはいるが、玩具を買いたいとは思わない」と感じる子どもだっているだろう。私がそうだった。とはいえどっちみち、バンダイにしてみれば、そのような顧客層はいないも同然だ。さらにバンダイにとっては、「CM」としての役割を期待したほどには果たせない番組をスポンサードするメリットはない。まさに「(視聴者がバンダイの玩具を)多々買わなければ、(特撮番組は)生き残れない」のである。
 特撮番組は、そもそもジャンル自体が、玩具販売促進という義務を背負っており、中でも戦隊は、「等身大アクションと巨大戦の併存」というさらにきつい縛りをかけられている。このような縛りの中で、「バトルフィーバーJ」以降の戦隊が長寿シリーズとして存続することができていたのは、無論、制約の中でも子どもたちを楽しませるためのストーリーテーリングを目指した作り手の努力もあるだろうが、根本的には、「視覚的な華やかさ」というメリットが、作劇への制約というデメリットを上回っていた、ということが大きいだろう。
 ただしそれは、「昭和時代」という前提条件があったが故のことだ。
 昭和の特撮番組と、平成・令和の特撮番組は、一体何が違うのか。
 おそらくそれは、「一話完結」であるか、「連続ドラマ」であるかということだ。
 ウルトラマンにしても、仮面ライダーにしても、昭和の特撮番組の主流は、一話で完結するエピソード主義である。昭和のウルトラマンには、斬新な演出や優れたテーマ性などによって歴史的に高く評価されるエピソードがいくつかあるが、それらも「一話完結」という縛りの中で生まれたものである。例えばウルトラセブンの「ノンマルトの使者」や、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」などのエピソードが名作であることに私も異論はないが、しかし現在、配信やレンタルでこれらを前後の回と連続してみるとき、私は次のような疑問を抑えられない。
「どうしてモロボシダンも郷秀樹も、あんな事件に遭遇したのに、今までと同じようにヒーローとして戦うことができるのであろう?」
「ノンマルト」にしても「少年」にしても、本来ならば「ヒーローの正義」を揺るがす事件を描いたものであるはずだ。地球人がノンマルトを侵略したのであるならば、罪なきメイツ星人をリンチするような種族が地球人であるならば、その先には必ず「今の人類に、守るべき価値はあるか?」というヒーローものの根源的な主題が現れるはずだ。実際、これらの「名作」回はそのような主題を暗示したがゆえにこそ、名作たり得ている。しかしこの主題は、あくまでも「そのエピソード」でのみほのめかされるように提示されるにとどまり、次回以降も課題として引き継がれ、番組の最終回に至るまでテーマとして連続して追及されはしない。
 昭和特撮の基本が、「エピソード主義」だから、である。
 私は、録画機能も映像レンタルも、ましてやネット配信なんて影も形もなかった昭和時代の少年少女たちのことを思う時、彼らにとって特撮番組やアニメを見るということの「重み」に胸が締め付けられる。再放送の機会でもない限り、今見ている番組をもう一度後で見ることは決してできないのだ。一度見終われば、後は記憶の中にしか残らない物語。これは番組の側からすれば、たった一度の放送で子どもたちの心に鮮烈な印象を刻み込み、次週もチャンネルを合わせようと思わせなくてはならないということだ。そこで行われていたのは、作り手と受け手の真剣勝負ではなかっただろうか。そこでは、次週の放送まで興味を持続させるような連続劇の手法よりも、始めから終わりまで30分間で完結し、まるで映画を見たような満足感を抱かせる作りが求められたのであろう。前週からの続き物では、今週から始めた子どもには話が十分に理解できないし、来週に続く構成では、一週間のうちにたいていの子どもは内容を忘れてしまう。子どもにとって一週間は長いのだ。連続劇は、できて全二回の前後編が限界。
  本質的には、昭和の特撮番組とは、毎週30分で完結する「映画」の放送であったといえるだろう。「ウルトラQ」を見た1966年の子どもたちは、「盆と正月にしか見られなかった怪獣映画を、毎週テレビで見ることができるようになった」という例えで、その衝撃を語る。60年代、70年代の特撮番組創世記とは、「シルバー仮面」の等身大編の逃亡劇のように例外もあるとはいえ、基本的には「一話一話のエピソードで勝負する」作りが主流だったわけだ。その中でウルトラマンはSF・センスオブワンダー重視のエピソードを、仮面ライダーを筆頭とする東映特撮は痛快なカタルシスを重視するエピソードを作っていった。
  ウルトラシリーズの一期・二期には、政治的な寓話として読解可能なエピソードが多く含まれているが、宇野常寛がその著作「リトル・ピープルの時代」で指摘するように、昭和の仮面ライダーにそのような政治的な寓意を読み込むことができるエピソードは皆無といってよい。藤岡弘が主演した初代「仮面ライダー」の第一クールいわゆる「旧1号編」序盤においては、ショッカーによって強制的に改造人間にされてしまい、さらには殺人犯だとヒロインに誤解されてしまう主人公・本郷猛の孤独と苦悩という要素を強調したドラマチックな展開が志向されたが、すぐになくなり、撮影中の藤岡の事故というアクシデントによる主演交代などの路線変更を経てのちは、明るく痛快な娯楽活劇路線を「仮面ライダー」は進んでいった。「ゴレンジャー」に始まるスーパー戦隊シリーズも、この路線の延長にある。カラーリングによって個性づけられた5人のヒーローが恐ろしい敵をやっつけるというカタルシスを毎週繰り返すことで、人気を獲得したものであることは明らかだ。
 スーパー戦隊の歴史を振り返ってみると、このシリーズは「足し算」によって発展してきたのだと言うことに気づかされる。そもそも原点からして「ヒーローが一人ではなく、五人で画面に登場する」という、仮面ライダーに足し算をしたような発想から始まっている。その後、「バトルフィーバーJ」からは「毎回、ロボットに乗って巨大戦をする」という
足し算がなされ、1992年の「恐竜戦隊ジュウレンジャー」からは、「六人目の追加戦士が登場し、初期メンバーと関係性を構築する」という作劇の足し算がなされるようになった。
「バトルフィーバーJ」以降、ロボットが登場しない戦隊は制作されなくなったし、「ジュウレンジャー」以降、追加戦士やそれに類する存在が登場せず初期メンバーだけで一年間戦い抜く戦隊は、99年の「ゴーゴーV」を例外として制作されていない。一度足した要素が結果を出せば、以降のシリーズでもそれを踏襲してきたのが戦隊の発展の歴史だ。もちろんそれは、いまさら「巨大ロボを出さないことにします」「追加戦士を出さないことにします」などと東映が仮に主張しても、ロボや追加戦士関連の商品展開を行うバンダイが許さないから、という理由が最大であろう。
 一話完結という制約の中で、視聴者である子どもたちに鮮烈な印象を刻み込み、次週もまたチャンネルを合わせてもらうためには、5人のカラフルなヒーローというインパクトが効果的だったし、それが昭和の特撮番組の形態の完成形であったからこそ、ウルトラマンや仮面ライダーが人気低迷の結果市場から撤退したのちも、毎年途切れることなく放送を継続することができた。戦隊が継続して放送され、ロボットや、合体ロボットや、女性メンバーの一人から二人への増加や、追加戦士の登場という新要素をどんどん付け足し、発展していく中で、世の中は変わっていった。戦隊の地位を盤石のものにした前提を、揺るがす方向へと。
 録画機器の普及、映像レンタルサービスの普及、そして近年ではレンタルに変わり、ネット配信の普及。
 それに伴い、特撮番組もまた、変わっていった。映画のように一話一話のエピソードを完結させるよりも、一年なら一年、半年なら半年という期間の連続ストーリーを紡ぐことで、視聴意欲を持続させる作りが普通になった。もはや今では「ノンマルトの使者」や「怪獣使いと少年」のような善悪二元論を揺るがすような物語を「エピソードの一つ」として作ることを、視聴者は許してはくれない。そういう話をやりたいのであれな、「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダー555」のように、第一話から最終回まで使ってそれなりにテーマを追求してくれなければ、とりあえずの納得すらしてもらえはしないだろう。もちろん今のウルトラマンがそうであるように、一話一話のエピソードの面白さを重視する作り方が今でもすたれたわけではないが、それ+アルファとして「物語の縦軸」というものが、特撮番組には求められるようになった。特撮番組を一話から最終話まで連続して視聴するスタイルが珍しくなくなり、そういう視聴スタイルを選択する顧客の需要にこたえるのがビジネス上利益を生むのがわかりきっている以上は。この傾向は、近年の配信サービスの普及によってますます強くなっている。今、すでに半年以上放送が経過している「仮面ライダーガッチャード」に誰かが興味を持てば、日曜朝9時にテレビ朝日のチャンネルをつける前に、アマゾンプライムビデオで配信されている第一話から視聴を始める。配信という、レンタルと比較してもはるかにハードルが低い視聴手段の一般化(DVDを借りるためにレンタル屋へ出かける必要がないし、そのためのガソリン代もかからない)は、連続ドラマを作る制作側にとってはありがたい状況である。連続性の強い番組の持つ弱点は、第一話から最終回までの中途から見始めても、話を十分に理解できないがために、新規の視聴者を放送期間の中途時期から獲得するのが難しい、ということだ。獲得するためには、途中から見ても話についていけるような工夫が必要である。一番楽なのは、一話完結もしくは二話完結の個別のエピソードを重視し、物語の縦軸に重きを置かない作り方をすることだ。しかし、配信サイトで興味を持った番組を第一話から視聴する習慣が一般化すれば、制作側はそのような工夫にリソースをあまり割かずに連続ドラマを作れる。
 一話完結のエピソード主義から縦軸重視の連続ドラマへの特撮番組のつくり方の変化は、平成仮面ライダーシリーズの始まりによって決定的となった。ただしあらゆる変化がそうであるように、徐々に進行してきたものであり、戦隊もその流れの中で例外ではなかった。上記で触れた追加戦士という要素の導入が典型的だ。「恐竜戦隊ジュウレンジャー」が、戦隊の歴史上初めて6人目の戦士、ドラゴンレンジャー・ブライを出した時、彼ははじめジュウレンジャーの敵として現れた。嫉妬心と恨みから弟であるティラノレンジャー・ゲキと数話に渡って対立したのちに和解するというプロセスを経て、ブライはジュウレンジャーの味方となったのである。この数話に渡って描かれた対立から和解へと至る過程は、スーパー戦隊における初めての本格的な連続ドラマ展開であり、後の平成仮面ライダーへと通じるものであった。
 平成仮面ライダーシリーズにおいては「アギト」以降、仮面ライダーが複数出てくるのが恒例となった。「アギト」においては、主人公アギトと、G3、ギルスの三人は、別に毎回三人そろって怪人にライダーキックをするわけではなく、アギト/翔一の物語、G3/氷川の物語、ギルス/涼の物語が同時並行的に描かれた。三人のライダーたちは、それぞれの物語の中でお互いに出会い、ある時は対立し、最終的には共闘するようにもなったが、決して「チーム」になったわけではない。次作の龍騎では、コンセプトからして「13人の仮面ライダーたちによるバトルロワイヤル」という、対立を前提としたドラマが展開された。
平成・令和仮面ライダーシリーズにおける「多数の仮面ライダー=ヒーローを出すが、」決してチームの一員ではなく、個々を独立した存在として描く」という作劇は、アギト・龍騎二作によって確立したといってよい。そしてこれが、スーパー戦隊シリーズの、終わりの始まりであった。
 何故なら、平成ライダーの確立以降、「戦隊」は「仮面ライダー」の下位互換となってしまったからだ。
 歴史を振り返ってみよう。そもそも1970年代という「変身ヒーローブーム」の時代に登場したスーパー戦隊シリーズが高い人気を確立できたのは、「一人しか出てこない仮面ライダーと違い、5人ものヒーローが同じ画面に登場してかっこよく活躍する」という視覚的なインパクト・華やかさがあったからだ。逆に仮面ライダーシリーズが「複数の仮面ライダーを出す」という扉を開けてしまえば、この視覚的な優位性はなくなってしまう。さらに「毎週、戦隊メンバーが最後には全員そろって敵を倒す」というお約束を守る以上、戦隊の作劇について回る制約が、仮面ライダーにはない。多人数ライダー作品とは実質的には、複数いる仮面ライダーたちの関係性の変化で物語を進めていくタイプのドラマである。「アギト」「龍騎」「剣」「カブト」「鎧武」「エグゼイド」「ビルド」を見れば、明白だ。しかし戦隊においては、例えば五人組が対立して戦ったり敵陣営に寝返ったり、また和解して共闘したりといった展開を一年間続けることは、不可能である。「忍者戦隊カクレンジャー」では中盤で五人が一時的に分かれて旅をして修行をするということがあったし、「宇宙戦隊キュウレンジャー」ではヘビツカイシルバー/ナーガが「闇落ち」する展開が数話に渡って描かれたが、これらはむしろ例外で、戦隊の歴史を変えるような大きな流れにはならなかった。
 戦隊は、毎回クライマックスで五人がそろい踏みし、なおかつ巨大ロボットに乗り込んで敵を倒すという「お約束」によって人気を確立した。「アギト」以降の平成ライダーのような物語の複雑化には、そもそも踏み込めない。
「視覚的なインパクトと物語の複雑化」仮面ライダーのたどったこの発展が、戦隊の優位性を失わせた。平成仮面ライダー初期作の時期には、あえて「明るくて低年齢向けの戦隊」「シリアスで(子どもの中でも比較的)高年齢向けの仮面ライダー」という作風の意図的な差別化によって、戦隊の支持層とライダーの支持層を両方確保する戦略を東映は採用した。90年代までの戦隊はむしろその固定化されたパターンの中でも物語を複雑化し、幅広い年齢層を取り込める作劇を発展させており、その到達点が2000年の「タイムレンジャー」だったが、「百獣戦隊ガオレンジャー」以降の戦隊は、より低年齢層に特化した作風を続けていく。
 この「差別化戦略」は、ある時期までは有効だった。東映にとっての幸運は、ライバルである円谷が0年代に自滅してくれたことだ。90年代のTGG三部作で築かれた平成ウルトラマンの人気も、2004年の「ウルトラマンネクサス」が視聴率低迷を理由に打ち切られてから、失速する。2006年の「ウルトラマンメビウス」の放送を最後に、ウルトラマンシリーズは地上波で放送されない休眠期を7年間迎えることになる。このウルトラの空白期に、戦隊は人気を維持し、「炎神戦隊ゴーオンジャー」「海賊戦隊ゴーカイジャー」などの商業的ヒット作を生み出した。
 戦隊が、平成ライダーに唯一維持していた優位性は、巨大ロボットだ。ミニチュアセットの都市の中で巨大化した敵とロボットが格闘を繰り広げる映像のダイナミックさは、戦隊の人気の大きな部分を占めていた。ウルトラマンというライバルが、市場から退場していた間は。
 そもそも、戦隊の伝統的な玩具販売戦略は、「物語の上ではあくまでもおまけ要素である巨大ロボットの売り上げに、商業上は大きく依存する」という、極めて歪なものだ。仮面ライダーの主力商品である変身ベルトは、仮面ライダーの活躍を描く物語とリンクしているのだから、売れて当然だ。しかし、巨大ロボットは、本質的には「カラフルな集団ヒーローの活躍」という戦隊の物語と、無関係である。巨大戦がなくても、話は成り立つし、逆にどうせ巨大戦で決着をつけるのであれば、等身大のヒーローたちが戦う意味はない。
 ウルトラマンは、これとは大きく異なる。あくまでも巨大なウルトラマンと怪獣との戦いが毎回のメインであり、そのメインに向けて防衛隊や主人公、ゲスト的に登場する一般市民による人間ドラマが進行する。つまり戦隊の巨大戦というものが基本的には「おまけ」でしかないのに対して、ウルトラマンと怪獣との戦いには毎回、作劇上の意味が付与されているのである。
 これは「巨大特撮」が好きな人にとっては、戦隊よりはウルトラの方が面白く感じ取れる理由でもある。戦隊を見ても、等身大ヒーローのアクションという、特に求めていないものを見なくてはならないのだから。
 おそらく、巨大ロボットを廃止して、その分の時間をストーリーに当てれば、おそらく戦隊の抱える問題の大部分は解決する。スーパー戦隊シリーズのディープなファン向けに制作された「非公認戦隊アキバレンジャー」という作品では、巨大ロボットは登場しない(相当する存在はあるが、出番はほとんどない)。これは予算的な理由もあれば、大人のオタク向けであるために玩具販促の必要性がないからという理由もあるだろう。このアキバレンジャー、スーパー戦隊の熱心なファンでもない私が見ると、本家戦隊よりも面白いのである。その理由は、巨大戦を描く必要がない分、ストーリーに尺をとった結果、見やすくなっている、からだと思う。しかし、本家の公認戦隊において「巨大ロボットの廃止」という選択は、バンダイが許さないであろう。戦隊ロボを、売れなくなるからだ。
 ここ10年くらい戦隊が続けている試行錯誤が、どれも成功していないように見えるのは、おそらくはこういうことだ。「戦隊」という作品自体が70年代の誕生から90年代までの間に発展させてきた構造それ自体が、既に時代とあっていない現状においては、いかに物語に工夫をこらそうと映像技術を進歩させようと、根本的な解決には繋がらない。
「一話完結」という昭和の特撮番組の基本的な制約を前提とし、ライバルとなりうるウルトラマン・仮面ライダーシリーズの市場からの退場時期に人気を確立したスーパー戦隊。
 しかし時代が移り変わり、「連続ドラマ」であることを前提にした平成・令和の特撮番組の状況の中で、戦隊の優位性を維持していた「集団ヒーローによる視覚的な華やかさ」や「巨大戦の映像的なダイナミズム」は、新時代の状況に適応した形で復活した仮面ライダーシリーズ、ウルトラマンシリーズによってそれぞれ奪われた。
 これが、ここ10年、実際には、21世紀になってから20年以上のスーパー戦隊の歴史の概要であると、私は考えている。
 ウルトラマンも仮面ライダーも、昭和という時代に生まれながら、10年以上の空白期間を経たうえで、平成時代に復活した、という共通項を持つ。復活後第一作目がブームを巻き起こしたこと、その一作目が当時の新世代であった子どもたちとその親世代からは支持されつつも、それまでのシリーズに愛着を感じるオールド・ファンからは「あんなのはウルトラマンじゃない」「あんなのは仮面ライダーじゃない」という批判を、従来とは異なる設定や作劇ゆえに多く受けたこと、等、この二作には共通項が多い。しかし最大の共通項は、ウルトラマンシリーズや仮面ライダーシリーズの制作側からもファン側からも、「ティガ」「クウガ」の二作品が、偉大なる昭和の初代に匹敵するシリーズ中興の祖として位置づけられていることであることは、両シリーズに多少なりとも知識がある人ならば、異論はない事実であろう。
 スーパー戦隊には、「ティガ」や「クウガ」のような作品はない。シリーズ二作目の「ジャッカー電撃隊」と三作目の「バトルフィーバーJ」間の一年間を除き、戦隊の歴史に空白期間は存在しない。昭和時代から令和の今日に至るまで、切れ目なく続いてきたのが戦隊の歴史だ。それは、戦隊が日本の文化史において持っている地位の盤石さを示すものであると同時に、現在の苦境の一因にもなっている。
 ウルトラもライダーも、空白期間を経たうえで平成に復活するにあたり、時代に適合するための根源的アップデートが求められたが、戦隊にはそのような要求がなされたことはない。そのことでかえって、「戦隊とは何か?」という本質的な問いへの答えがわかりづらくなり、近年の迷走につながっている、と言ってしまっては、言い過ぎだろうか。
「仮面ライダークウガ」のプロデューサー、高寺成紀は、「語ろう!クウガ・アギト・龍騎」という本に掲載されているインタビューにおいて、「クウガ」制作時、「仮面ライダーの本質とは何か?」という問題設定を行い、次のような答えを出したと語っている。
「仮面ライダーとは、変身したヒーローと、変身しない人間とが、同じ画面の中で、共闘している、という光景にこそ本質がある。本郷猛や一文字隼人が変身する仮面ライダーと、滝啓介の関係がそうであるように」
 この答えから、高寺は「クウガ」劇中における主人公・五代雄介と刑事・一条薫の関係性を作り出したと、語っている。
 この考えには、異論のある「仮面ライダー」ファンも少なくないであろう。だが重要なことは、2000年に仮面ライダーシリーズを再開するにあたって、「仮面ライダーの本質とは何か」を制作サイドが考えざるを得なくなり、「たとえ大幅に設定を従来のシリーズ作品から変えたとしても、この本質を抑えているからクウガは仮面ライダーだ」という一応の回答を出したことであろう。
「クウガ」は事実、客観的な視点から見れば、それまでの仮面ライダーシリーズ、今では「昭和ライダーシリーズ」と呼ばれる作品群から、実に多くの部分を変えていた。昭和ライダーに基本的には共通していた「改造人間」という設定の変更は、その最たるものであろう。この変更は、「改造手術」という設定を児童向け番組で描くことが倫理的に問題である、という平成時代以降の放送コード上の要請が理由である、とするのが通説だ。
「ウルトラマンティガ」においても、従来のウルトラとは異なる設定の導入はなされた。それまでのウルトラマンは「光の国」と呼ばれる異星からの来訪者である、とする設定だったが、「ティガ」におけるウルトラマンは「古代文明の守護者・光の巨人の力を受け継いだ人間」=「人間ウルトラマン」であるとされた。
「光の星から来訪した宇宙人」「改造人間」などの、それまでのシリーズでは根幹に据えられていたこうした設定を変更することは、当時のオールド・ファンから激しく反発されたことは疑いようがない。しかし今現在のウルトラマンシリーズのファンや仮面ライダーシリーズのファンを見る限り、「ティガはウルトラマンだ」「クウガは仮面ライダーだ」とみなす見解が、多数派であるように見受けられる。彼らがそう考える理由、それは「ティガはウルトラマンの精神性を受け継いでいる」「クウガは仮面ライダーの精神性を受け継いでいる」というものだ。
 宇宙人や、改造人間であるなどという「設定」は、表面的なもの、形式的なものだ。それらよりももっと表現上の深いところに存在するもの、「精神性」とか「魂」とか呼ばれるものをきちんと踏まえているならば、例え表面上は異なって見えても立派に「ウルトラマンである」「仮面ライダーである」といえる、というのが、「ティガ」や「クウガ」を作った人たちの考えであったのだろうし、その考えをファンたちも受け入れた。それは、ティガによって始まった平成ウルトラマン及びウルトラマンニュージェネレーションの歴史と、クウガによって始まった平成及び令和仮面ライダーシリーズの歴史が証明している。だからこそ、クウガもティガも、新時代にふさわしくアップデートされた、シリーズ中興の祖であるとみなされている。
 翻って、スーパー戦隊はどうか。
 スーパー戦隊の「精神性」とは、「魂」とは一体、どこにあるのか?この問いに対する答えを、作り手側も受け手側も出せていないことが、最大の問題なのではないか。
 誤解しないでいただきたいが、私は仮面ライダーやウルトラマンと比較して、戦隊には精神性がないとか、戦隊は上面だけの軽薄なシリーズだなどと言いたいわけではない。個別の作品を分析すれば、作り手が込めた思い、魂と呼べるべきものはきっと見つかるであろう。でなければ、それなりの年齢に達したうえで、なお戦隊を熱心に視聴する人が、ここまで多いわけがないし、「未来戦隊タイムレンジャー」は、魂がこもった名作であったと私は断言できる。
 問題はむしろ、「タイムレンジャーの精神性」あるいは「ドンブラザーズの精神性」といった個別の作品に込められたものは語れても、「スーパー戦隊シリーズの精神性」「戦隊の本質」というものを語ることが、極めて難しい、ということにある。
「レッドが戦隊の中心カラーである」「戦隊は色分けされたメンバーによって構成されたチームである」「戦隊は巨大ロボに乗り込む」「戦隊には追加戦士がいる」といった要素は、「ウルトラマンは宇宙人だ」「仮面ライダーは改造人間だ」などと同様、表面的な形式に過ぎない(し、そもそもシリーズが続く中で徐々に追加されて定着していったものが多分に多い)。
「戦隊とは何か」という問いかけに対して答えようと思えば、そのような形式的なものしか答えられないという事実。
 これは逆に言えば「形式さえ守れば、どんな戦隊だって作れる」ということでもあるし、「戦隊という形式が、いかに優れているか」ということでもある。よい例が、「パワーレンジャー」シリーズだ。1993年にアメリカで始まったこのシリーズは、日本のスーパー戦隊シリーズの英語圏ローカライズであり、上記で触れたような「戦隊の形式的な要素」をほぼ踏まえているが、ストーリーという面では、日本のシリーズとの共通点はほとんどない。例えば第一作目の「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」は本家戦隊の「恐竜戦隊ジュウレンジャー」のヴィジュアル・イメージを使った上で制作されたわけだが、ジュウレンジャーたちが古代からよみがえった戦士であるのに対し、パワーレンジャーは現代のアメリカの高校生たちである。全くの別物なのだ。にもかかわらず、日本の「戦隊」を見た我々は、パワーレンジャーのことも、「戦隊」だと認識してしまうし、パワーレンジャーは「アメリカ版の戦隊」だと特撮オタクたちには呼ばれている。
 また、「戦隊のパロディ」が世の中にあふれているという事実も、その形式の使いやすさの証となるであろう。東映の本家以外に、各地の「ご当地ヒーロー」まで集めれば、いったいこの世にいくつの「戦隊」があるか、数えてみれば、数え切れなくてむしゃくしゃしてしまうかもしれない。
 戦隊は、一つの概念と化した。
 そんな言葉を、昔、5chで読んだことがある。
概念とは、形式なのだ。
 形式さえ守れば、どんな戦隊だって作れてしまう。
 逆に言えば、何を作っても、戦隊となってしまう。
 きっとこれが、一番の問題なのだ。
「キュウレンジャー」のようにメンバーの数が9人に増えようと(劇中では最終的に12人になったがそれでもなお)、「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」のように二つの戦隊が一年間を通じて戦おうと、「ゼンカイジャー」のようにメンバー構成を一人の人間+四体のロボットという変わったものにしようと、「キングオウジャー」のように舞台を異世界にして戦隊メンバーを全員王様という設定にしようと、それらは「今までにない、斬新な戦隊」ではあっても、「戦隊ではない」といわれるようなものにはなっていない。どれもこれも、戦隊にしか見えない。
 私が「にわかだから語れる戦隊の問題点」と以前書いたのは、こういう意味だ。戦隊ファン以外の世の中の多数派は、おそらく私がそうであるように、ここ数年続いている戦隊の試行錯誤・新機軸の導入に対して、「今度の戦隊は変わっているな」という感想は抱いても、「こんなのは戦隊ではない」とは思っていない。「戦隊という形式」を変えているようには思えないのだ。これは作り手の能力が理由ではなく、原理的に不可能である可能性が高い。形式を捨て去れば、戦隊は戦隊ではなくなるのだから。戦隊の本質は、形式にしかないと、現時点では断言するほかない。
 1970年代に誕生した「スーパー戦隊」という表現の形式が、誕生から半世紀を経た今、流石に時代に合わなくなり、変えなくては存続ができなくなっているような状況であるにもかかわらず、その形式を変えてしまえば、もはや既にそれは戦隊と呼べるものではなくなってしまうから、仮面ライダーやウルトラマンが行ったような「アップデート」が不可能、というジレンマに陥っているのが、現在のシリーズの現状である、ということだ。
 本質が形式にしか存在しないから、形式を変えることが「死」でしかないというジレンマ。
 しかし、形式を変えなければ、遠からず、戦隊というシリーズは終わる。 
 シリーズの終了。
 それは、流石に今年ではないだろう。だが「ゴレンジャー」の放送開始50周年に当たる来年、もしくは「ゴレンジャー」から数えて50作目にあたる戦隊が放送されるはずの、再来年2026年には、「戦隊の終了」が現実味を帯びてくると、私は予想する。その年にちょうどやめることができれば、きりがいいから。
 本当は、2011年の「海賊戦隊ゴーカイジャー」で終わらせるのが、一番美しかったと思うのだけれど。
 人気絶頂の時に終了させるのはシリーズとして最も美しい結末であったはずだ。
 もう、後の祭りだけれども。
 ただ、東日本大震災が起きたあの年に、あの時点でのスーパー戦隊の総括的な作品であるゴーカイジャーが、「最後のスーパー戦隊」として放送されていれば、それは「日本の戦後」の一つの時代の終焉を、象徴するものとして、歴史に刻まれたかもしれない。
 昭和に生まれた三大特撮の中で、一番若いコンテンツである戦隊は、そのまま「昭和特撮ヒーロー」の完成形であり、昭和という時代の完成形でもあったと思うからだ。それは、敗戦に匹敵するインパクトを日本に与え、「戦後史」に変わる「震災後史」の始まりとなったあの年に終わることが、最もふさわしかったように、私には思える。
 戦後とは、本質的には、昭和という時代だったのだから。
 令和にして、ようやく我々の前で、昭和は、終わろうとしているのかもしれない。
 スーパー戦隊の歴史が、終わろうとしている。
 その歴史が、ついに終わりを迎えた時、私たちは、50年近い時間を、日本の文化を守り続けてきた彼らカラフルな戦士たちの名前を、墓碑銘として刻まなければならないだろう。
 秘密戦隊ゴレンジャー
 ジャッカー電撃隊
 バトルフィーバーJ
 電子戦隊デンジマン
 太陽戦隊サンバルカン
 大戦隊ゴーグルV
 科学戦隊ダイナマン
 超電子バイオマン
 電撃戦隊チェンジマン
 超新星フラッシュマン
 光戦隊マスクマン
 超獣戦隊ライブマン
 高速戦隊ターボレンジャー
 地球戦隊ファイブマン
 鳥人戦隊ジェットマン
 恐竜戦隊ジュウレンジャー
 五星戦隊ダイレンジャー
 忍者戦隊カクレンジャー
 超力戦隊オーレンジャー
 激走戦隊カーレンジャー
 電磁戦隊メガレンジャー
 星獣戦隊ギンガマン
 救急戦隊ゴーゴーV
 未来戦隊タイムレンジャー
 百獣戦隊ガオレンジャー
 忍風戦隊ハリケンジャー
 爆竜戦隊アバレンジャー
 特捜戦隊デカレンジャー
 魔法戦隊マジレンジャー
 轟轟戦隊ボウケンジャー
 獣拳戦隊ゲキレンジャー
 炎神戦隊ゴーオンジャー
 侍戦隊シンケンジャー
 天装戦隊ゴセイジャー
 海賊戦隊ゴーカイジャー
 特命戦隊ゴーバスターズ
 獣電戦隊キョウリュウジャー
 烈車戦隊トッキュウジャー
 手裏剣戦隊ニンニンジャー
 動物戦隊ジュウオウジャー
 宇宙戦隊キュウレンジャー
 快盗戦隊ルパンレンジャー
 警察戦隊パトレンジャー
 騎士竜戦隊リュウソウジャー
 魔進戦隊キラメイジャー
 機界戦隊ゼンカイジャー
 暴太郎戦隊ドンブラザーズ
 王様戦隊キングオウジャー
 爆上戦隊ブンブンジャー

 非公認は、流石に外しておいた。
 
 

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