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【続き】俗世は学びの宝庫

↑の続きになります。


まずはじめに露見してきた私自身の本心は、

「コイツらとは極力、関わりたくない」
といった、私の許容範囲の狭さによる、
シンプルな拒絶反応です。

色んな人がいるのだから、価値観の違いを
尊重して上手くやっていこう。

という考えを基盤にはしていたつもりですが
まだまだ自分の常識の枠組みでジャッジしているんだな、と痛感しましたね。

「自分はこんな人間たちとはレベルが違う」人を見下す感覚も顕著に現れてきました。

どんな人であっても、
神の前では皆、平等である。

という意識を今まで心がけてはいましたが、
いざ職場で心に負荷がかかると、
本当はまだ言葉に酔いしれているレベルで、
腑には落ちていなかったと気づきます。

従業員のあまりの低俗さに、
「こいつら、何のために生きているわけ?」

と、もう彼らの存在そのものに疑問を感じ、
存在の否定すら厭わない気分にもなりました

「存在を与えられたこと。
それだけが、その存在の価値の全てである。」

と頭では理解していたつもりですが、
ハートにまでは、まだまだ浸透しきっては
いなかったようです。

このように、自分の理想とする顕現精神と、
自分の現在の精神との乖離を、俗世の労働はより浮き彫りにしてくれました。

この俗世は、

自身が未だ受容できていない自身の本質の
一部を、自分の真正面に向き合わせてくれる

苦しくも素晴らしい学びの場だと言えます。

しかしスピリチュアル系の方々からは、

そんな波動の低い所に居ないで、
もっと波動の高い所に行ったら?
あなたの波動も低くなってしまうよ。

というような声も聞こえてきそうですが、
ごもっとも。と思う反面、私の考えは
それとは異なる部分もあります。

なぜなら、前提として、
この世は、不快なことを享受し、
そこから学びを得る世界
だからです。

もし違うのであれば、
なぜ、私たちは天国(霊界)から地上(地獄)に生まれてくるのでしょう?

イヤだと感じることが魂の経験にとって悪い
ことなら、ずっと天国にでも居れば良いの
ではないでしょうか。

世界の聖者は蓮の花を人生に例えています。
淀んだ水から美しい花が咲くと。

自ら進んで苦しみの渦中に入る必要は無いと私は思います。

ですが人生の流れの中で自然と与えられた
課題は、魂の必然的な試練である、
というのが真実なのではないでしょうか。

だから、今の仕事を辞める気はありません。
(当然、現実的な生活が理由でもありますが)

もし、今の職場から脱獄できる日がきたら、
その時にはきっと、その道が自然と示される
ことでしょう。

私が田舎に逃げてきた時のようにね。

ちなみに職場でイジメや嫌がらせの行為は
受けていませんので、その点は安心?して
頂ければと思います。

あ、そうそう、肝心の仕事自体は、
責任は当然あるものの、
とっても簡単&楽チンですよ🤭

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