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セナと泣き虫

本当にすっかり彼のことを忘れていた。

そんな薄情な僕だけど、若い頃の

僕の唯一のアイドルは

アイルトン セナ

というブラジル生まれの

F1レーサーだった。

到底、人間技とは思えないようなそのレーサーとしての類稀な才能や

記録以上に記憶に刻まれる名レースの数々

思い出しただけで、ゾクゾクしてしまうけど

やはり僕にとっての

アイルトン セナは

パドックやピットインで待機しているときの

まるで泣いているようにウルウルとした

でも、少年のようにキラキラとした

瞳の人

だった。

そして、見事にその瞳の中に吸い込まれた僕は

勝手ながら、セナのことを

分かったような気持ちになっていた。

なんて孤独な人なんだ

なんてピュアな人なんだ

なんて不器用な人なんだ

だから、そんなふうに無闇に傷つくんだよ

そう、あの時、僕は間違いなくセナに当時の自分の姿を重ねていたのだと思う。

そんなセナとお別れした日のこと

いまだに鮮明に思い出せる。

場所は家族旅行で行った先の和歌山の旅館だった。

日曜の深夜のいつもの時間に、家族を起こさないようにテレビごと布団をかぶって見ていたその小さな画面の中に映し出されたのは、僕が期待していた

サーキットを後陣を従えながら颯爽と駆け抜けるセナの勇姿ではなくて、

大の大人たちが本当に子供みたいに泣きじゃくっている映像だった。

その彼らの姿が何よりも

セナがこの世からいなくなってしまった

という事実を

雄弁に物語っていた。

もちろん僕も布団を被りながら、思わず脱水症状になるかと思うくらい

もらい泣き(号泣)した。

そして、気づけば、なんとあれから30年もの月日が経ってしまった。

僕はあの頃と変わらず、今もまださえない泣き虫人間のままだけど、

ひとつだけ嬉しい報告がある。

それは僕の仕事ぶりを見た複数の人から

「まるでF1レーサーみたいですね」

と言われるようになったということだ。

ちなみになぜ嬉しいかというと、

そんなふうに言われるのは、F1ライセンスどころか普通自動車免許すら持ってない僕だけれど、きっと彼が亡くなった後も僕はずっとセナに憧れ続けていて、あんなふうに生きれたらなあ、とずっと(無意識に)思い続けていたおかげだ

と思うからだ。

だから、あのときの僕はセナの孤独な佇まいに自分の姿を重ねてふがいない自分を慰めていただけだったけど、今の僕はちょっと違う。

正真正銘の天才だったセナの気持ちなんてもちろん凡人の僕になんか到底分かりっこないけれど、

それでも

彼はただ孤高な人なだけじゃなくて、他の誰よりも幸せな人だったということが今の僕には何となく分かるような気がするのだ。

それがなんだか嬉しくて、今ちょっと目がウルウルしている最中である。

もしかしたら、あの時のセナみたいな瞳に近付いていたらいいなあ、なんて思いながら(笑)

まあ、それはともかく、また今朝からコースに復帰して、この経年劣化でボロボロになったマシンを操って走り続けよう!

人生のチェッカーフラッグを受けるその日を迎えるまでね。



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