見出し画像

『女神の継承』が残念モキュメンタリーだった話

粗筋

 タイ東北部、イサーン地方。土着信仰が色濃く残る土地で、女神バヤンに仕える祈祷師一族が居た。撮影班は当代巫女ニムを取材し、義兄ウィローの葬式へと同行する。
 彼女の姉ノイが嫁いだヤサンティア家は、代々不幸な死に方を遂げていた。このたびウィローが死に、更にはその娘ミンにも異変が起きる。ニムは、姪を苦しめているのは女神バヤンか悪霊かを探り始めるのだが…。


 ナ・ホンジン監督が製作・脚本!怪現象に襲われる少女を追う!…あらましを聞けば、映画好きなら「おっ!」と思う筈。何故なら、彼の前作『哭声』を多分に想起させるからだ。事実、

「『哭声/コクソン』のあと、祈祷師・イルグァンの生い立ちを描いて見たかった。」と話すナ・ホンジンの原案から本作の企画がスタート

パンフ、PRODUCTION NOTES

しているらしい。僕も期待値上げて観たんですが…微妙でした。モキュメンタリーとして、除霊ホラーとしてあんま出来よくねえんだ。以下、ネタバレしつつ語ります。


モキュメンタリー「もどき」

 今作はホラーの中で、所謂フェイクドキュメンタリー/モキュメンタリーと呼ばれるジャンルに当たります。誰かの撮った記録フィルム「という体で」進む、POV(手持ちカメラ映像)形式の映画。ホラーに必須の臨場感を醸し出せ、且つ低予算で撮れる。『ブレアウィッチプロジェクト』『パラノーマルアクティビティ』がドル箱ジャンルと証明したのち、ゼロ年代に大流行りしました。
 正直「いまどきモキュメンタリーかよ…」と思う節はあるんですが、面白ければ問題はない。ところが本作、モキュメンタリーの勘所を完全に外していました。

人為性とドキュメンタリー性

 日本一(世界一?)のモキュメンタリー作家として、白石晃士監督が居ます。氏の著書『フェイクドキュメンタリーの教科書』をザックリ語ると、こうなります。人為性を排除すると、リアリティのある嘘(モキュメンタリー)になる

無論、完全ノー編集のフッテージは観られたものではない。移動を上手く誤魔化しつつワンカット風にする、台詞録音はキッチリこなして不明瞭にしない…など、細かな努力あってこそのものだと語られている。

『女神の継承』に話を戻しましょう。この映画、同書に書かれているダメな例を、悉く踏んでしまっているのです。 

編集バリバリのフッテージ

 モキュメンタリーは、カットを多く割ってはいけない。特に、ラストで登場人物(撮影クルー)が全滅するホラーなら猶更である。何故なら編集が増えるほど、撮影者を越えたフッテージの編集者(映画の作り手)を感じさせてしまうからである。

白石監督は、上に挙げた著書で

シーンを飛ばすことでその場のスタイリッシュさとか、飛んだ感じの気持ち良さが出なければいけないのに、スタイリッシュにしたい演出意図ばかりが先立って、内容がおろそかになっている作品が多い。

とも語っています。なので、この手のPOVホラーでは前置きとして「これは○○にて発見されたビデオテープを、編集・加工したものである」などの字幕が出ることが多いです。

 さて、『女神の継承』。まー…これが編集多いんだ。序盤の平和なシーンは良い。昼間に撮った素材を夜に編集し、集積していったと解釈できるからだ。ところがミンの奇行がエスカレートし、てんやわんやになってもカット割りは上手く、劇映画らしいBGMやSEが付く。儀式がクライマックスに達し3地点それぞれに異変が起きるに至っては、カメラはひっきりなしにカットバックする!
 なるほど、「劇映画」なら緊張感を煽る、良い手法だろうね。…でもその編集、誰がやってんだ?君ら最後、全滅するよね?

モキュメンタリーと脱構築

 黎明期のモキュメンタリー/POVは、観づらさMAXの映画が多かった。そのため後年になるにつれ、編集の凝った作品も登場した。でもそうした映画では、「建前を守るための口実」を設けていた。ジャンルとしての、脱構築をしていたのです。

 例えば、『ヴィジット』。主人公姉弟は最後に生還するのですが、彼らが編集する=自分の体験に向き合うことで、成長したのをメタ的に示していた。
 或いは『グレイヴ・エンカウンターズ2』。こちらは逆に全滅エンドなのですが、このフッテージが映画として流通する=霊がこの世界に解き放たれると示す、これまたメタ的な面白さを持っていました。

『女神の継承』は、2021年のモキュメンタリーを追求してねえんすわ!ジャンルが下り坂になった後でも、PC画面完結映画、スマホアプリやZOOMを扱った映画、ドローンカメラを使った映画など、POVは新しいことを模索してきた。
 一方の今作は、

・悲鳴を上げて森に逃げる=『ブレアウィッチプロジェクト』
・一旦視界から消え、大音量と共に現れる=『パラノーマル』シリーズ
・悪魔憑きの美女がカメラににじり寄る=『REC2』

など、どこかで観たような構図ばかり…。「タイ×土着信仰×悪魔憑き」という設定はフレッシュなものの、ジャンルとしての新鮮味はありません。

カメラマンの存在

 この映画、カメラマンの存在が都合良過ぎです。ある時は透明に(劇映画らしく)なり、別の時はキャラクター化(モキュメンタリーらしく)なります。一貫していない。

 先ず、透明化について。周りの反応が薄すぎだろ
 撮影に好意的なニムは別にしろ、ノイは(当初)ニムの祈祷師仕事に批判的だった割に、撮影クルーをほぼ気にかけない。ミンが職場で発狂し一同がドヤドヤと踏み込む際にも、誰もカメラ目線にならない。オープンバス上でミンが客と諍いを起こす時にも、無遠慮に撮影を続けるカメラを誰も押しのけない。劇中、カメラに「撮影止めろ!」と言うシーンはたったの2回だけです。
 撮影位置に関しても、首を傾げるシーンがありましたね。因縁の地であり、除霊会場となるヤサンティア紡績工場跡地に一行が踏み込む。ニム、祈祷師リーダーのサンティらがゆっくり廃墟を進んでいく様を「階上から」撮るのです。…それって、撮影クルーが
「俺ら先行ってるんで、合図したら上がって来てください」
って段取り決めてるってことじゃないですか。劇映画の見え方と、ドキュメンタリーの差をあんま理解してないような…。

 今度は逆に、キャラ化について。終盤、除霊が失敗して悪霊が猛威を振るい始めます。ミンのみならず、沢山居た祈祷師グループも狂暴化し、撮影クルーらを襲い始める。悪魔系POVが、ゾンビ系POVになる…この転換自体は面白いんですが、個人差があるんですよ。これが問題。

 この映画、超自然的な現象に関して理屈は特に示されません。でも、終盤で祈祷師全員が感染し、撮影クルーが正気なワケは分かります。「POV形式でゾンビから逃げ隠れする画が見せたい」ってメタ上の要請でしょ?
 モキュメンタリーで作り手の都合が透けて見えるだけで興ざめなのに、そこで展開されるのが上述したようにジャンル内で散々擦られて来たネタだけ…。せめて、カメラマンが発狂して殺戮ゾンビ撮影野郎になる一人称視点があったら、多少はフレッシュだったと思いますが。

「護符で守られてる」「気づかなかった」で
カメラマンの都合よさを笑いに転化した、傑作POV

モキュメンタリーと字幕

 細かい点ですが、字幕についても。
 モキュメンタリーにおいて、字幕は有効な手段です。Jホラーの演出家、小中千昭はこう言っています。

 黑バックの字幕を強制的に読ませる事は、ドラマの流れを切断する。…(中略)…今観ているのは、(普通の)ドラマではない、という事を観客にサインとして時折強制的に送るのは有効な技法なのだ。…(中略)…
 個々の現象が起こった日時、時間をはっきり特定し(つまり捏造し)、字幕として提示した。これもまた固有名詞と同じく、疑似的なリアリティを生成するためだった。

『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

本物っぽく見せるギミックなんですね。何度も例に挙げた『パラノーマルアクティビティ』においても、

印象的な画面が出ます。『女神の継承』においても、終盤で定点カメラ映像にこの手法を使っているんですが…「儀式○○日前」ってテロップが出るんですよ。
 これは、上手くないですよね。だって、儀式当日までは大したことが起きないと分かってしまうから。多少の変事は起きるにせよ、撮影/除霊続行が不可能になる事態は起きないことを意味する。ゆえに、定点カメラを置いてから儀式までの1週間の映像は、タカを括って観てしまう。「どーせ、ここでは終わらないんだろ?」と。


除霊ホラーと信仰の揺らぎ

 POV要素は語り尽くしたので、除霊ホラーの側面について語って行きます。
 先に述べたように、ナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』も悪魔憑きについての映画でした。國村隼扮する「よそ者」の登場と時を同じくして、村を襲う錯乱事件。彼を信じるか、排斥するか…。主人公らは後者を選択してしまったがゆえに、よそ者は悪魔として顕現してしまい最悪の結果を迎えることとなる。
 信仰=二元論的な考え方が、モノ/人をありのまま見ることを妨げ、相手を神にも悪魔にも代えてしまう…。宗教の本質を鋭く批評した、秀逸なホラー映画でした。

 さて、『女神の継承』。この作品においても、ラストで信仰心の揺らぎが提示されています。作中で最も理性的に事態に対処するニムが、涙ながらに弱気を吐露する。
「今まで信じて来た。でも本当には感じられない、女神バヤンが居るかなんて…」
良いねえ。ベタだけど、悪魔祓い系映画では楽しいテーマですよ。でも、この映画に限っては上手くないんですよ。 

ストーリー上の起伏として

 上記の信仰心の揺らぎは、映画のラストに置かれています。これはストーリー上の装置として上手く機能しない。
 ジャンルの嚆矢たる『エクソシスト』、ホプキンスの怪演光る『ザ・ライト -エクソシストの真実』、デリクソン監督のいぶし銀『NY 心霊捜査官』…。それらの悪魔祓い映画では、物語の中途に置かれています。悪魔がか弱き人を傷つけているのに、神は救いの声に応えてくれない。信仰の脆さ、見返りの無さに苦悩しながらも、やがては克服し(或いは敗北し)結末を迎える。そこに、ドラマがあるワケです。

 一方の今作、劇中でニムの苦悩を大して描くでもなく、ラストで唐突に「どう?深いでしょ?」と提示するだけ。例えばこれ、伏線の答え合わせになるならまだ分かるんですよ。除霊が失敗したのがニムの心が折れたから、とかね。けれど、除霊の失敗はミンの部屋の封印をバカな女が勝手に開けたからであって…。
 意味ありげなフリして、大して考えてないオチなのが丸わかりです。

演出との齟齬

 この映画において、超常現象は存在します。そのため、上述の台詞をニムが吐くのは明らかにおかしい。

 エクソシスト映画において、神父がバンバン超能力を発揮する映画は…そう無いでしょう(アクション方面はさておき)。だからこそ、信仰の揺らぎが生じるワケです。
 一方の『女神の継承』では悪霊の憑いたミンのみならず、女神バヤン(とその巫女ニム)側も超能力を発揮します。”巫女熱”に掛かった女性は生理が止まらなくなる、卵占いでミンの行先を的中する、(成人男性でも拘束が困難な)ミンを不思議な縄や結界で大人しくする、プレ除霊で真っ黒な汚泥をミンの指先から絞る…。能力アリアリです。 

 だから、信仰心を揺らがせるのは「バヤンは本当に居るのか」という問いであっては駄目でしょう。悪霊がいかに強大であるかを見せ、比較として「何故私は、バヤンなんて非力な女神を信じて来たのか」と絶望させるとか。或いは、ノイとの確執・失われた青春時代を悪霊が懇々と説いて見せ、ニムを堕落させるだとか。
 ホラー映画において、全てを理に落ち付かせるのは無粋でしょう。それにしても、今作は細かな齟齬や穴が目立つように思えます。


 勿論、本作にも見所は沢山あります。置物!炎!舞!なハイテンション除霊ライブは『コクソン』譲りな一方、土着信仰と仏教的な「カルマが祟る」因縁譚を絡めたホラー観は、コクソンとはまた違った趣がある。
 何より、今作はビジュアルが良いですね。雨季に撮影された湿り気たっぷりの農村風景、苔むした洞窟祭殿と荒廃した紡績工場跡、ロウソクと糸が作り出す厳かな魔法陣…。エキゾチズムと懐かしさが混在となった、日本人好みのホラーです。

 …だとしても、モキュメンタリーとして観る分には(映画オタク的には)首肯しかねる部分が多いです。ジャンル的必然性がないなら、モキュメンタリー止めろよ。それ古臭いだけだぞ?

POVと言えば、白石監督の新作が8月末公開。『女神の継承』よりずっと低予算で、高尚な映画ではないでしょうが、白石監督なら裏切られることも無い筈。ぜひ、POV「だからこそ楽しめる」ディティールで、ホラーオタクを楽しませてもらいたいです。


 





 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?