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子供で始まり子供で終わるジュブナイル映画、『SABAKAN サバカン』

粗筋

 1986年、長崎。何不自由ない家庭に育つ小5の久田は、貧乏で向こう気の強い同級生・竹本に誘われる。”ブーメラン島”にイルカが来てるらしい、一緒に観に行かないか、と…。二人はママチャリに乗り込み、峠を越えた先の海を目指す。
 ひと夏限りの冒険が始まった。


 勿体ない!脚本さえ良ければ…!M中です。

 どうでも良い映画って、特に感情動かないじゃないですか。僕の場合、先週観た『TANG』とかそうなんですけど。
 半面、良いところも悪いところもある映画は、「完成度高かったらなあ…」と歯噛みすることが多い。特に、長所がずば抜けているほど悔しい気持ちになる。
 ということで、そんな映画『SABAKAN サバカン』を紹介します。


子役演出が神レベル

 邦画界で屈指の演出力を持つ是枝監督は、「子役の演出がうまい」作品をこう特徴づけています。

(『フロリダ・プロジェクト』は)背中から入るんですよ。普通の映画は顔の見える正面に周りがちなんですが…カメラは子供を背中せなかで追っかけていく。

ラジオ「アトロク」より、「是枝裕和監督と語る子役の演出がうまい作品とは特集」

『サバカン』も、まさに子供視点に貫かれた映画です。冒頭、護岸コンクリを歩くさまを踵だけで捉えたショットに始まり、宿題に打ち込む場面では手元からゆっくりカメラが引いていく。分かりやすい台詞を、分かりやすい表情で表現する「テレビ的な無粋さ」が微塵もない。

 今作、白眉と呼べるシーンが2つあります。
 ひとつは、冒険に赴く早朝。家族が未だ寝静まる午前5時に、そろりそろりと階下へ降り準備をする。階段を踏みしめる足元、水筒を締める手つき…全てが映像的で瑞々しい。
 特に、ママチャリを慎重に動かすショットは素晴らしい。スタンドが跳ね上がる音で驚く…。凡百の映画なら”はっと身を竦ませ、渋面で顔が歪む”ところを、自転車の動きと息を呑む声だけで表現する。…ふつう思いつかない演出ですよ。

 或いは、クライマックスのシーン。電車に運ばれていく竹本、追う久田。ホーム端まで追いかけ、とぼとぼと改札を潜り、迎えにきていた父親の胸に飛び込む。この一連の動きを(ほぼ)背中だけで撮り切る
 帰宅時の母親との抱擁、晩飯のカメラ位置(それまでは横からの画角だった)も、全てバックショット。安易に泣き顔で共感を誘わず、背中で語らせています。

 子役の演技・演出にかけては近年の邦画で段違いでしょう。それだけにねえ…。

ジュブナイル映画として

 原作本を未読なので断言はできないんですが…『サバカン』のプロットは『スタンド・バイ・ミー』の丸パクです!流石にこれは擁護できん!

・物書きの主人公が、ひと夏の冒険を振り返る
・才能はあるが内気な主人公
・荒っぽいが友達思いの相棒
・一日がかりでなら行ける距離に、珍しいものが出現したので見つけにいく

これだけなら偶然の一致で済むんですが、

・不良からその情報を盗み聞く
・後に、その不良らと対決する
・最高の旅をした友人とは、その後疎遠になってしまう
・PC画面の原稿「どれだけ年を重ねても、あの夏を忘れることはないだろう」が、完全にパクリ

…ちょっとはディティールずらせよ!

 『スタンドバイミー』はジャンル最高傑作だから、真似する気持ちはわかる。しかし、『サバカン』に決定的に足りないものがあります。子供の成長です。本作は「子供で始まって、子供のまま」終わっている。これはジュブナイル映画として、大きな欠陥なのです。

振り返れば大人がいる

 この映画、困ったときは必ず大人が現れて救ってくれます

・不良に絡まれたときは、通りすがりのイケメンが叩きのめす
・チャリが壊れたら、美女が修理してくれ飯もくれる
・イケメンと美女はカップルで、帰りはトラックで送ってくれる
・みかん爺に至っては、散々迷惑かけたのに暖かく送り出してくれる聖人

は~分かってねえわ~。子供だけの冒険なんだから、子供だけの力で問題を解決してこそでしょ??
 不良に絡まれるのは駄菓子屋の向かいの空き地なんだから、店に石を投げこんで店員を引っ張りだす、とかさ!或いは自転車が壊れた時は、自転車屋でお手伝いをして(温情ありきだとしても)修理代にしてもらう、とかさ?        

 機転と忍耐を発揮してこその少年冒険譚でしょうに。大人に助けてもらうならば、それは子供期を抜け出ていない。

考えなしのギャグ

 今作の「甘やかし感」を端的に示しているのが、ギャグ要素です。この映画は旅=外部の世界においても、日常風景と同じようなギャグを出して来る。
 例えば、不良との対決シーン。イケメンが不良を震え上がらせた後、竹本は金的を噛まし不良が延々と悶絶する。
 或いは、みかん爺とのチェイスシーン。みかん泥棒というガチ犯罪を犯した二人に対し、爺は「お仕置きだべ~」と笑みを浮かべる。山をバックにコミカルな悲鳴が響き渡り…といった具合。ノーダメージなんですよ。心胆震え上がり、価値観が塗り替わるような重大事ではない。

 勿論、笑い要素を無しにしろとは言っていない。寧ろ、久田家の「ザ・昭和家族」なドタバタ風景はあるべき。
 でもだからこそ、家や学校といった生活空間から離れた外部では、対比的にシリアスさを見せるべきなんですよ。むき出しの世界には、悪意や無関心があるのだと。「昔は人情味があってなあ…」だけでは、懐古ジジイの繰り言に堕してしまう。

現実の受容、友情の終わり

『スタンドバイミー』宜しく、久田と竹本の友情は終わりを迎えます。でもそれは、「外的な理由」であって、「内的な理由」ではない。価値観の変容=成長によって「離ればなれになる選択をする」ワケではないのです。は~分かってねえわ~。

『スタンドバイミー』の別れが、何故これほど哀切なのか。それは少年らが、現実を受け入れたからです。これまではごっこ遊びやバカ話で楽しんできた。でも家庭環境も、才能も違う。だから進学クラスと職業準備クラスに分かれる中学以降は、もうつるんではいられない。それを無垢で居られた最後の夏、この旅で悟ってしまった。
 ゆえに「相手の幸せを願うからこそ」別れる選択をしたクリスに、観る者は男泣きするワケです。

 さて、本作。竹本の母親が事故死し、遺児らが親戚に引き取られるために別れが訪れます。にべもないですが、これは仕方ないですよね。選び取った別れではないから、痛切さはない。よくある「人が死んで悲しい」って類の泣き要素です。
 せめて、久田が交流を続けようと食い下がる展開は欲しかったですね。引き取り先の親戚を、3駅先とかの「子供でもギリ行けなくはない」距離に設定するとする。そうすれば「毎週末チャリ漕いで会いに行くよ!」と空元気が出せる。「あの旅が出来たんだから余裕だよ!」とも言える。
 でもそれを、竹本は制するんですよ。「そんなことをするな、その時間を創作に費やせ」と。「仮令離ればなれになっても、お前の本を読める日を待ち続ける」と告げられ、了承する…とかさ。自分の幼さに気づいて現実を受け入れてこそ、成長なのでは?

 ラストで現代パートに戻るんですが、長崎の地を再び訪れるんですよ。「ああ…離ればなれになったのか…」としみじみしてたのに、実はメールの遣り取りをするほどの仲が続いていたと判明する。果ては、「僕らは今でも友達だ」のモノローグと共に再会…。
 残念エンドで、余韻がゼロになりました!


 ジャンルのお勧め作品を紹介して〆るのが通例ですが、今回は映画ではなく漫画を紹介します。阿部共実先生の、『月曜日の友達』です。

 ふとしたことで中学男女が「月曜深夜の校庭でだけ友達になる」約束を結ぶ。はぐれ者同士で交流を深めるが、やがては別れが…という話。
 このマンガも『スタンドバイミー』と同じく、才能のある主人公・思慮深い親友のコンビなんですが、別れを告げる台詞がもう泣けに泣ける。

 君がいつか大人になった時にふと、時々でももし、この町で働いている俺のことを思い出してくれたなら、それはどれだけ大きな幸いだろうと思う。   
 けれどもし君が、道を歩いている自分の傍に君がいてくれたなら、それがどれだけ美しいことだろう。

『月曜日の友達』下巻

Amazarashiの素晴らしい楽曲(MV)で雰囲気は掴めると思うので、ぜひご覧になってください。
 少年時代のざわめきと幻滅と昂揚を活写した、青春マンガの傑作です。


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