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東京メトロ丸の内線の歴史と車両たち

今回は東京で2番目、全国では4番目に開通した
丸の内線についての現在の路線に至るまでの経緯とか車両とかを解説していきます。
いつも乗る人も、知ってるよって人も良かったら読んでみてください。
 

置き換え進む新型2000系(右)と
2000系登場前の主力02系(左)

丸ノ内線(まるのうちせん)は、東京都豊島区池袋駅から杉並区荻窪駅までを結ぶ本線と、中野区中野坂上駅から杉並区の方南町駅までを結ぶ分岐線(通称:方南町支線)から構成される東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は4号線丸ノ内線および4号線丸ノ内線分岐線。なお、新宿 - 荻窪間と中野坂上 - 方南町間は1972年昭和47年)まで荻窪線(おぎくぼせん)あるいは荻窪線分岐線と呼ばれていた。路線名の由来は、東京駅付近の地名である丸の内より。1970年(昭和45年)の住居表示制度実施より千代田区の「丸ノ内」は「丸の内」へと表記が変更されたが、地下鉄線の表記はそれ以降も「丸ノ内線」のまま変更されていない。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカーレット」となっています。

此方は地下鉄博物館所有の300形
奥は銀座線旧1000形

丸の内線といえば、上の写真のカラーリングを
覚えている方々は多いのではないかと思います。
ほかの路線の営団時代の車両は単色かステンレス製の車体にそれぞれの路線カラーの帯が付くだけだったので、一度見たら忘れられない鮮烈なカラーリングだったのを私をはじめあの旧車両を一度でも利用したり見たりした方は頭の片隅に記憶として残ってる人、多い筈です。
実はこの丸の内線は、計画自体はなんと大正時代に始まっていたのです。これからそれをご案内していきます。今や知らない世代も居るであろう
営団時代の話も出てきます。どうかお楽しみくださいませ。
丸の内線本線は池袋駅から東京駅を経て新宿駅まで山手線の内側を「コ」の字形に走行し、新宿駅からはそのまま直線的に荻窪駅まで走るルートをとる。分岐線は、本線の中野坂上駅から分岐し、方南町駅まで至る。分岐線の途中に中野車両基地があり、入出庫を兼ねた運用も存在する。使用車両は2000系6両編成と02系6両編成である。
東京地下鉄の路線では銀座線とこの丸ノ内線のみ標準軌で、第三軌条集電方式を採用している。このため、駅や分岐器の前後にデッドセクションが存在するが、丸ノ内線では02系以前から、銀座線より分岐線用に転用された2000形(2000系とは別)をのぞいて車両に電動発電機 (MG) を搭載することで室内灯の消灯を防止していた。
なお、丸ノ内線の建設以降は郊外各線との直通を行う方針に沿う形で架空線式にて建設されたため、東京の地下鉄としては最後の第三軌条方式の路線となった。
規格の違いにより他路線との営業車両による直通運転は行われていないが、赤坂見附駅の国会議事堂前駅側に銀座線との渡り線があり、同線車両の点検整備や留置のために中野工場や中野検車区小石川分室へ回送される列車が通る。過去には同線車両による隅田川花火大会(「花火ライナー」荻窪発浅草行や「新春浅草・荻窪号」)などのイベント臨時列車運行時に利用されることがあった。ただし、銀座線のトンネルは丸ノ内線のトンネルより小さいため、物理的な理由で丸ノ内線の車両が銀座線に入線することはない。

数年前迄はこの光景だった中野車両基地
2000系に代わり、徐々に数が減っている
02系(写真の車両)

また、都心部の地形の起伏の関係で茗荷谷 - 後楽園間、御茶ノ水 - 淡路町間の神田川橋梁、四ツ谷駅付近と、地上走行区間がこまめに存在することも特徴の一つである。また、地下鉄は用地買収の都合から公道の地下を通す場合が多いが、当路線は私有地の地下を通過している部分が多い。

1995年3月20日霞ケ関駅などで発生した無差別テロ事件「地下鉄サリン事件」の現場となった路線の一つであり、多数の死傷者を出している。

戦前

1925年大正14年)3月30日、当時の内務省が告示した「東京都市計画高速度交通機関路線網」の5路線にはのうち、第4号線新宿駅 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地 - 蛎殻町 - 御徒町 - 本郷三丁目 - 竹早町(文京区小日向付近) - 大塚駅間20.0 kmに位置付けられたルートを前身とする路線である。

東京23区の前身にあたる東京市は前述の「内務省告示第56号」に基づいて、同年5月16日に第4号線新宿 - 大塚間の路線免許を取得する。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。

東京市は1932年(昭和7年)10月に都市計画第3号線渋谷駅 - 桜田本郷(現・西新橋付近) - 東京駅前間(8.4 km)および都市計画第4号線新宿 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地間の(7.3 km)路線免許(全区間ではなく一部の区間)を、東京横浜電鉄東急電鉄の前身)系列の総帥、五島慶太が率いる東京高速鉄道に譲渡した。このうち第3号線渋谷 - 新橋間は東京高速鉄道線(現在の銀座線)として開業している。 さらに東京高速鉄道は1937年(昭和12年)2月、第3号線と第4号線を結ぶ連絡線を計画し、四谷見附 - 赤坂見附間(1.4 km)の路線免許を取得する。この計画に合わせて1938年昭和13年)に開業した赤坂見附駅は、当初から二層構造となっている。

営団地下鉄の設立

帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、1941年(昭和16年)9月1日に東京市・東京高速鉄道が所有していたすべての路線免許は営団地下鉄へ有償譲渡された。

営団設立後の1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が始まったが、営団地下鉄は設立の使命である地下鉄新路線の建設計画を進めた。緊急施工路線として第4号線新宿 - 東京間を建設することとし、四谷見附 - 赤坂見附間を1942年度(昭和17年度)着工、1945年度(昭和20年度)完成、新宿 - 四谷見附間および赤坂見附 - 東京間を1943年度(昭和18年度)着工、1946年度(昭和21年度)完成予定とした。車両120両および新宿車庫計画を含めた建設費用は1億4050万円を計画した。

続いて第4号線東京 - 池袋間(車両162両を含めた建設費用は1億5,506万8,000円)、「五反田線」築地 - 五反田間(車両118両を含めた建設費用は1億1544万6000円)を1942年度(昭和17年度)より順次着工、1947年(昭和22年)以降の完成を目途に建設することを計画した。

そして、1942年(昭和17年)6月5日に四谷見附 - 赤坂見附間の起工式を行い、弁慶濠付近の建設に着手したが、太平洋戦争の戦局悪化により資金、資材、労働力が不足したことから、1944年(昭和19年)6月に建設工事は中止した。

戦後

戦後の1946年(昭和21年)12月7日、戦前の「東京都市計画高速度交通機関路線網」(内務省告示第56号)を改訂した戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」が告示され、戦後の第4号線は「中野区富士見町 - 新宿駅 - 四ツ谷駅- 赤坂見附 - 永田町 - 日比谷 - 東京駅 - 神田駅 - 御茶ノ水駅 - 本郷三丁目 - 富坂町 - 池袋駅 - 豊島区向原町」22.1 kmとされた。

この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に第4号線新宿 - 大塚間(大正14年5月16日取得)の起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に新宿 - 池袋間(16.86 km)の路線免許として変更認可を受けた。同年12月12日、営団地下鉄は第4号線のうち池袋 - 神田間7.7 kmの建設を決定し[33]1951年(昭和26年)3月30日、池袋駅東口で起工式が開催された[35]

1953年(昭和28年)11月4日には、国鉄神田駅付近を経由することが予算的、工期的、技術的に困難なことが明らかとなり、大手町を経由するルートへの変更を告示する。

このうち、最初に開業した池袋 - 御茶ノ水間は営団地下鉄(現・東京地下鉄)銀座線大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro御堂筋線四つ橋線に次ぐ日本4番目の地下鉄として開業。その後、丸の内経由で新宿方面へ順次延伸され、1959年までに池袋 - 新宿間が全通した。

車両の塗色(1970年以降はラインカラー)として採用された赤色(スカーレット)は、当時の鈴木清秀営団総裁と東義胤運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、飛行機の中で購入したイギリスタバコの「ベンソン&ヘッジス」の缶の色に魅せられて決めたものである。

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