アナログ派の愉しみ/音楽◎プッチーニ作曲『ラ・ボエーム』

愛の虚構を
真実に変えてみせる音楽の魔法


オペラは第1幕がキモである、とはわたしの持論だ。それはそうだろう。数時間におよぶことも珍しくない長丁場の舞台にあって、はじまりの第1幕で観客の心をつかめなければさっさと見放されてしまい、以後の幕がどれほど上出来であっても成功は覚束ないだろう。だから、モーツァルト、ワーグナー、ビゼー、ヴェルディ、R・シュトラウス……といったオペラ史上の巨人たちは作風こそ異なりながら、第1幕に力点を置いているところは共通のように思う。それらのなかでも、わたしをひときわ惹きつけるのがプッチーニ作曲『ラ・ボエーム』(1896年初演)だ。

クリスマス・イヴの晩、パリの下町の屋根裏部屋に若い芸術家仲間(ボヘミアン)が貧しくとも陽気に暮らしている。第1幕の後半ではそのひとり、詩人ロドルフォが請負仕事をしていると、ロウソクの火をもらいに隣室のお針子ミミがやってくる。その初対面から、おたがいにアリアを交わし、ふたりの思いがひとつになる幕切れまでほんの20分足らずなのに、いかにもオペラの醍醐味と言うほかない。運命の邂逅がもたらす昂ぶりにわたしも絡め取られて、気がつくと涙と鼻水で顔じゅうがぐしゃぐしゃになっているのだ(さらに最終の第4幕では声まで挙げてしまうのがつねで、そのため、いまだに実演を観に出向く勇気が持てない)。

ミミのアリアはこのようにうたい出される。

 
「みんなは私をミミと呼びます。けれど、私のちゃんとした名前はルチアなんです。私のお話は短いんですの……私は家やよそで麻や絹のきれに刺しゅうをしています……私は無事で幸福で、百合やバラの花を作ることは私に慰めなのです。これらの物は楽しい魔法を持っていて私を喜ばせてくれます。それは愛や青春について話してくれます。これらの物は詩という名を持つ……夢や空想について話してくれますわ。おわかりになる?」(増井敬二訳)

ここに描かれるのは、無邪気な男女がひと目惚れで恋に落ちたのとはわけが違う。その程度ならわたしにもかつて覚えがあるくらいの月並みなドラマで、必ずしも音楽の助けを借りなくたってまかなえるだろう。まだ自作を持たないロドルフォは相手に人生の詩を見出し、実は娼婦をなりわいとするミミは汚辱からの浄化を相手に求めて、つまりは双方の夢想の上に成り立った愛の虚構がプッチーニの音楽の力によって真実に変えられるという、ミミのアリアの台詞を借りれば魔法の瞬間が現出しているのだ。当然ながら、その愛の虚構はすぐさま脆くも崩れていくことが第2幕以降の展開となる……。

 
『ラ・ボエーム』のレコードでわたしが愛聴するのは、トスカニーニがNBC交響楽団を指揮して、ロドルフォをピアース、ミミをアルバネーゼがうたった録音(1946年)だ。トスカニーニは初演をになった指揮者であり、その28歳の当時からこの録音の78歳まで半世紀にわたって作品への共感をたぎらせてきたことがわかる演奏だ。タクトが振り下ろされるなり音楽はうねりにうねり、いよいよロドルフォとミミのアリアに突入すると、トスカニーニも感極まって声高にうたいはじめる。これぞカンタービレ! しかつめらしい芸術表現などではなく、歌手も指揮者も観客も燃え上がってともにオペラを生きる姿がここに記録されているのだ。


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