アナログ派の愉しみ/映画◎キャスリン・ビグロー監督『ハート・ロッカー』

戦争にまとわりつく「物語」を
女性監督が剥ぎ取ってしまった衝撃


世界的なベストセラーとなったユヴァル・ノア・ハラリの著作『サピエンス全史』(2011年)は、現生人類が地球上を支配するに至った要因として、われわれは認知革命と農業革命によって、宗教、国家、貨幣といった本来はなんら実態をともなわない虚構のもとに力を合わせることができたことを挙げている。「(物事の展開を数千年の単位で見渡せる視点に立てば)歴史は統一に向かって執拗に進み続けていることが歴然とする」とハラリは強調するけれど、同時に、そのプロセスにおいては宗教、国家、貨幣といった虚構をめぐり、人類同士が生物学的な生存競争とは異なる次元で際限なく戦いを繰り広げてきたことも意味するだろう。

「戦争は麻薬である」

キャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』(2008年)の冒頭に映し出されるこのエピグラムは、そうした人類にとっての戦争の非合理性を示すものだ。映画はイランのバグダッドで、爆弾処理を担当するアメリカ軍の中隊の人間模様を描いていく。どこに敵がひそんでいるかわからない市街地で、炎暑にあぶられながら、かれらは40キロの重さがある防護服を着込んで、建造物や道路・車両に仕掛けられた爆発装置をひとつひとつ始末する。ほんの少しでも手元が狂ったら命を落としかねない細心の作業が求められるうえ、子どもや老人まで利用した自爆テロが襲ってくる恐れもあるなか――。

それにしても、131分の上映時間のあいだ全身が引き攣りっぱなしの、この緊張の強度はどうだろう? 確かにスリリングな場面の連続だけについ息を殺してしまうのだが、それだけの事情ではないことに気づく。ここには正義、勇気、友情、あるいは懐疑、狂気……といった戦争につきものの「物語」が一切ないのだ。ただむきだしの戦場だけが存在している。前述のとおり人類が覇権への道のりを辿りながら、たがいに虚構を旗印として血で血を洗う争いを繰り広げてきたことにより、神話・伝説や芸術で戦争が語られるたびつねに「物語」がまとわりついてきた。それは19世紀末に発祥した映画メディアでも同様で、当初から戦争は主要なモチーフであるとともに、戦意高揚映画であれ、非戦反戦映画であれ、必ず「物語」に立脚することでは共通していた。それをキャスリン・ビグロー監督は剥ぎ取ってしまったのだ。

この作品によって女性として初のアカデミー監督賞を受賞したビグローは、インタビューで自分と戦争との関係を問われて、「フィルムメーカーとして自分にできることは、判断を下すことで、自分の意見を押し付けることではなく、無数の人間の命を犠牲にしている終わりの見えない戦争の一部を見る人に体感してもらうということなの」(映画.com)と答えている。ごく当たり前のコメントのようだが、実のところ、これまで戦争映画の制作者のだれひとり思い至らなかったのではないだろうか。戦場の主役たる男たちがデッチ上げてきた正義、勇気、友情、懐疑、狂気の「物語」もまた虚構だったことに……。さらにつけ加えれば、日本のテレビなどで戦争に際して女たちはひたすら被害者とする「物語」も虚構でしかなく、それを剥ぎ取った女性の戦闘ぶりを、ビグローは次作『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012年)で活写している。

ハート・ロッカーとは棺桶を意味するらしい。の主人公の爆弾処理班長はようやく任期をまっとうしたのち、帰国して妻と幼い娘との生活に戻るが、その平穏な日常に耐え切れずにふたたび志願して戦場へと舞い戻っていく。日焼けした顔にこぼれる笑み。かれにとっては家庭が棺桶であり、妻子より爆弾のほうが生き甲斐をともにできるパートナーだったのだ。その痛烈な視線も、女性監督ならではのものではないだろうか。
 

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