アナログ派の愉しみ/音楽◎ケージ作曲『4分33秒』

音のない音楽が
訴えかけてくるもの


かつて「現代音楽」とは評判が悪いものだった。たんに評判が悪いだけではない、そこにはあたかも蛇蝎のごとく、ゴキブリのごとく生理的な嫌悪感をもって受け止める向きさえあったと記憶している。しかも、こうした風潮はクラシック音楽のファンだけでなく、プロの作曲家や評論家のあいだにも見られたし、なかにはあえて「ゲンダイオンガク」と表記して違和感を強調する者もいた。

 
なお、その矛先は20世紀に出現した音楽全般に向けられたわけではないことを急いで言い添えておこう。前世紀来のクラシック音楽の伝統に馴染んできた耳にはおよそ奇矯としか受け取れぬ、ごくひと握りの音楽を対象とするものだった。

 
そんな「ゲンダイオンガク」の領域で最も悪名の高かったひとりは、1912年生まれのアメリカの作曲家ジョン・ケージだったろう。偶然性の音楽と称して、バスタブに水をぶちまけたり、空き缶や灰皿をひっぱたいたり、また、わざわざピアノの弦にボルトや消しゴムをはさみ調律を崩して弾いたり……と、つぎからつぎへと挑発してみせたのだが、なかでもわれわれをとりわけ唖然とさせたのは『4分33秒』だった。

 
1952年8月29日にニューヨーク州の森林にあるマーベリック・コンサートホールで披露されたこの作品は、ピアノを弾かないピアノ曲だ。まさか。だれだってそう思い、正真正銘の事実だと知ったら、ばかばかしい、と受け止めるのが当たり前だろう。

 
ケージの没後にアラン・ミラー監督が制作したドキュメンタリー映画『ジョン・ケージ 音の旅』(2012年)のDVDには、特典映像として、初演時のピアニスト、デイヴィッド・チューダーが聴衆を前に『4分33秒』を演奏する様子が収録されている。それにもとづいて再現してみよう。チューダーはグランドピアノに向かうと譜面を開くが、そこには第一楽章と記されているだけで音符はひとつもない。そして、鍵盤の蓋を閉じてストップウォッチで33秒を測る。以下、同様に蓋を開け閉めしながら、第二楽章は2分40秒、第三楽章は1分20秒を計測するだけで終わるのだ。

 
それはおおむね想像していたとおりの光景だったのだが、実見におよぶと、ばかばかしいという気分にならなかったのはどうしたことだろう。むしろ、ピアノを前にしながらじっとストップウォッチを眺めるだけのチューダーの姿に、いつしか粛然として感動すら覚えてしまったのだ。このトータル4分33秒という時間はタロットカードによって偶然に算出されたそうだが、いまあらためて振り返ってみれば、この作品が生まれた20世紀中葉とは、二度の世界大戦を経ても地球上ではとどまることなく軍拡競争が繰り広げられるという、恐怖の喧騒のただなかにあったわけで、そんな時代にほんの5分足らずであれ、すべての音を抹消した沈黙の時間はひとつの奇跡だったかもしれない。前後して、アメリカが人類初の水爆実験を断行したのと際立った対比をなしているようにも映るのである。

 
先に紹介したドキュメンタリー映画のなかで、ありし日のケージはこんな言葉を残している。

 
「私は偶然の要素を、私がやることのすべてに取り入れています。偶然性によって審美的な先入観を超えたものを作品にもたらすことができます。我々の行為は、ほぼすべてその時代の我々の審美的な先入観が関わっています。私はそれを避けて、別の方向が開けるようにしているのです」

 
それにしても、とわたしは首を傾げずにはいられない。21世紀の今日、かつての「現代音楽」ないし「ゲンダイオンガク」といった罵倒の声がすっかり鳴りをひそめたように感じられるのはなぜか? われわれの耳が音楽の新たな試みに柔軟性を持つようになったのか。それとも、いまや地球上の恐怖の喧騒が極点に達し、核戦争の危機に対しても鈍感となったわれわれの耳は、もはや束の間の沈黙すら聴き取れなくなったのだろうか。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?