アナログ派の愉しみ/映画◎ジョージ・ロイ・ヒル監督『スティング』

詐欺から身を守る
教訓がここに


アメリカン・ニューシネマの旗手、ジョージ・ロイ・ヒル監督が青春西部劇『明日に向って撃て!』(1969年)に続き、ふたたびポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビを起用してつくったのが『スティング』(1973年)だ。前作が「強盗」をモチーフにしたのに対して、こちらは「詐欺」で、一見似たような犯罪モノと受け止められかねないけれど、両者のアプローチには大きな相違がある。

 
なぜなら、そもそも映画自体がフィクションのストーリーを、俳優たちが登場人物に扮して演じ、映像を編集してスクリーンに映しだすという、すでに詐欺めいた仕掛けのうえに成り立っている以上、観客にとってはいまさら詐欺をめぐるドタバタ劇が描かれたところで面白くも可笑しくもないだろうから。実際、映画が発明されて以降、強盗を扱った作品はおびただしくあるのに、詐欺のそれはほとんど見当たらないのもこうした事情ゆえだろう。かくして、この『スティング』が大ヒットしたのは、ドラマのなかの登場人物同士の騙しあいの妙などではなく、ひとえに観客とのあいだの騙しあいに成功したことが理由なのだ。

 
こうした観点に立つとき、つぎからつぎへと新たな手口を生みながら詐欺が跳梁跋扈する現在の日本社会において、この半世紀前の映画はあらためてアクチュアルな意義を持ち、それを丹念に読み解くことによって、われわれが被害を免れるための教訓も見出せるのではないか。

 
舞台は、大恐慌時代のシカゴ界隈。チンピラの詐欺師フッカー(レッドフォード)は、裏社会の黒幕ロネガン(ロバート・ショウ)の差し金で仲間を殺され、その復讐を果たすべく引退した名うての詐欺師ゴンドーフ(ニューマン)の助力を求める。ここに破天荒なペテンの戦略が幕を開けるのだが、その手はじめにゴンドーフは偶然を装ってロネガンとのポーカーの勝負に臨む。もちろん、相手がイカサマを使うことは承知のうえだ。あくまで紳士然としたロネガンと、ジンの壜を手にしたゴンドーフ。ギャングは相手を見下してさっそく罠にかけようとするが、だらしない酔っ払いがふらふらすり抜けていくのに業を煮やし、ついに奥の手のイカサマのカードを用いて大勝負に出る。最初に配られた5枚の札のうち、ゴンドーフは3が3枚、ロネガンは9が2枚。掛け金を吊り上げてカード交換を行うと、ゴンドーフが3のフォーカード、ロネガンが9のフォーカードとなり、双方の有り金すべてが賭場に積み上げられる。

 
さて、この場面を観客の側から眺めるとこうなる。ゴンドーフの持ち札が3のフォーカードだとわかり、これは6のフォーカードを手にしているロネガンの罠だとわかり、つまり観客だけが特権的な立場にあることによって全体像を掴む。ところが、いざカードが開かれてみると、ゴンドーフの持ち札はジャックのフォーカードにすり替わっていて、ロネガンばかりでなく観客もまた欺かれて大笑いしてしまうのだ。

 
こうした観客とのあいだの騙しあいは、映画の大団円に向かっていっそうスケールアップしていく。それがどのような仕組みなのかはもはや明白だろう。われわれは自分が特権的な立場にあることを受け入れ、いつの間にか登場人物のひとりのようにストーリーに参加しているというわけ。眼前にあるのはしょせん絵空事に過ぎず、人気俳優のポール・ニューマンが役を演じているだけのことで、持ち札がすり替わったのだって映像のトリックと思い至れば何も動じるいわれはない。まあ、そんな見方をして映画を楽しめるかどうかはともかく、現実の詐欺犯罪に対処するヒントにはなりそうである。

 
どうやら詐欺のきっかけは、特権的な立場にあるという意識らしい。濡れ手に粟の儲け口や降って湧いた還付金ばかりでなく、もはや古典的なオレオレ詐欺のたぐいだって、ただちに息子やら孫やらのピンチを救えるのは自分だけ、という特権的な立場の意識と責任が目の前を曇らせてあらぬストーリーのなかに取り込まれてしまうのだろう。他人事ではない、わたしもこの年齢となったいま、今後の身の処し方を重々律しなければなるまい。

 
教訓。自分は特権的な立場と一切無縁と肝に銘じるべし!
 

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