アナログ派の愉しみ/本◎チェーホフ著『かもめ』

世間で名声をかちえた者の
とめどない空虚のありさまが


筒井康隆は、現在89歳にして旺盛な執筆活動を続け(最新作『カーテンコール』の帯で「最後の作品集」と謳っているが、これまでも「断筆宣言」のあとに幾多の作品を発表してきた)、先だって日本芸術院会員に選ばれた。まさにいまや文壇の大御所と呼ぶにふさわしい。

 
その筒井をテーマとした展覧会が東京・世田谷文学館で開かれたとき(2018年)、わたしもおっとり刀で駆けつけたことを思い出す。まるでおもちゃ箱を引っ繰り返したかのように、かれの多方面にわたる業績を展示したなかで、いちばんインパクトが大きかったのは、奥まった一室で上映されていたチェーホフの演劇『かもめ』の舞台映像だった。約20年前の公演で演出・蜷川幸雄の依頼により、当時60代半ばの筒井がトリゴーリンに扮した際のもの。つまり、19世紀ロシアの流行作家の役柄を、現代日本の流行作家が演じたという、その意味では貴重な記録だろう。わたしは興奮のあまり、結局、まるまる全篇を見通してしまった。

 
ときならぬ興奮に駆られたは他でもない、わたしにとって古今の芝居でトリゴーリンほど憎むべき登場人物はそうそう存在しないからだ。学生時代に初めてこの作品を知ったときの不穏な高ぶりが、ふたたび込み上げてきたのである。

 
こんなストーリーだ。大女優を母親にもつ作家志望の青年トレープレフは田舎の屋敷で、女優をめざす恋人ニーナと将来を夢見ている。そこに母親の愛人である流行作家トリゴーリンがやってきて、地元の医師やら教員やらも入り乱れるうち、ニーナはトリゴーリンの名声に惹かれ、その著書の一節「もしいつか、わたしの命がお入り用になったら、いらして、お取りになってね」(神西清訳)を指し示すロケットを手渡すと、あとを追ってモスクワへ向かう。そして2年後、新進作家となったトレープレフの前にニーナが現れて、トリゴーリンの子を産みながら捨てられ、女優の道も潰え去り、「わたしはかもめ(ヤ チャイカ)」とつぶやきながら、今後の人生に必要なのは忍耐力と告げて去っていく。それを見送ると、相変わらず母親とトリゴーリンたちがたむろしている屋敷で、トレープレフはピストル自殺を遂げる……。

 
そんな不埒きわまりないトリゴーリン役を、映像のなかの筒井は無造作に演じのけていた。が、その双眸はどこかとりとめなく宙をさまよっているように見受けられた。

 
1895年に35歳のチェーホフが「喜劇」と題して『かもめ』の執筆に取りかかったとき、ヒロインのニーナにはふたりの実在のモデルがあったらしい。ひとりはチェーホフの妹の友人で、妻子ある作家と駆け落ちしたあげくに捨てられている。もうひとりは人妻の女流作家で、チェーホフは彼女から「わたしの命がお入り用になったら」の下げ飾りを受け取ったのちに、「舞台からあなたに返事する」と告げて公演初日に招待したという。であれば、トリゴーリンに投影された人物像の少なくとも半分は作家自身だろう。

 
若い時分のわたしは、無垢な少女をもてあそんで破滅させるスケベオヤジにひたすら嫌悪感を抱いたが、いまこの年齢になってみると、そこにわだかまっているとめどない空虚のありさまのほうに呆然としないではいられなかった。世間で名声をかちえた者の無為――。最後にトレープレフの銃声が轟くときも、トリゴーリンは自己の過去の言動について、ただ首をかしげてこんな台詞を繰り返すばかりなのだ。

 
「覚えがない! 覚えがないなあ!」

 
そのラストシーンで筒井が体現してみせたデクノボウぶりは、流行作家の自画像だったのかもしれない。

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