アナログ派の愉しみ/本◎池田理代子 著『ベルサイユのばら』

女性が「永遠の芸術品」を
完成させるために


わたしに前後する世代には、かなりの頻度でフランス革命史について詳しい女性が存在する。そう、彼女たちはかつて池田理代子著『ベルサイユのばら』(1972~73年)に出会って以来、そのまばゆい歴史絵巻に絶えず関心を向け続けてきたものらしい。小中学生のときに手にしたマンガからはじまって今日まで至ったというのは、尋常なことではなかろう。一体、そこにはどんな魔力が秘められているのか。

 
あなたのためにアントワネットは生まれてきました この髪もこの胸も血の最後のひとしずくまで すべてすべてただあなただけのものです
 
フェルゼンが命を賭してかちとったその夜 ふたりははじめてむすばれた 瞳と瞳をあい交わし若い魂をうちふるわせたはじめての出会いの日から19年…… ふたりを裁く者はただ神のみ…!!

 
書き写しながら、指先がムズムズしてくる。ストーリーの説明はもはや不要だろう。男装の麗人オスカルと幼馴染みのアンドレの狂言回しのコンビが、バスティーユ監獄襲撃のさなかに命を散らしたのち、この大河ドラマはいよいよクライマックスに入る。革命軍の蜂起により、王妃マリー・アントワネットは夫のルイ16世とパリ脱出を図ったものの連れ戻され、そのもとへ恋人であるスウェーデン貴族フェルゼンが危険も顧みずに訪れて、上に引用した場面になるのだ。このあと、彼女は顔をまっすぐ上げ、王妃の威厳をもって裁判に臨み、やがて断頭台に堂々と足を運ぶのである。

 
それは、少女マンガが大人の性愛を真正面から描いたさきがけではなかったろうか。アントワネットとフェルゼンが抱擁するシーンに女の子たちが固唾を呑んでいた当時、男の子たちはと言えば、永井豪のマンガ『ハレンチ学園』などに煽られてスカートめくりの悪戯に興じていたことを思い出すと、いまさらながらその感性の「落差」に呆れないではいられない。

 
池田理代子がこの作品を構想したのは、高校生の夏休みに読んだシュテファン・ツヴァイク著『マリー・アントワネット』(1932年)がきっかけだったという。ツヴァイクは、その序文でアントワネットの生涯を概括して、「彼女は自分の枠を乗り越える。死すべき肉体が崩れる直前に、永遠の芸術品が完成する。最後の最後の瞬間に、平凡な人間だったマリー・アントワネットはついに悲劇にふさわしい大きさとなり、その運命と同じように偉大になる」(中野京子訳)と述べている。

 
女性が生涯において「永遠の芸術品」を完成させるためには、よって立つ舞台の大小はどうあれ、何としても性愛の場面が不可欠であり、それがみずからの人生に偉大さをもたらすことを、まだあどけない女の子たちさえ了解したのだろう。こうした性愛の魔力こそ『ベルばら』が秘めているものであり、宝塚歌劇団の絢爛豪華なステージも、ベルサイユ宮殿でフランス人俳優が演じた実写版の映画も、その表現においてとうてい原作に及ばなかった。そして作者自身もまた、以後のマンガ家人生を眺めるにつけ、この20代なかばの年齢のときにだけ表現できたのではないだろうか。
 

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