アナログ派の愉しみ/音楽◎秋吉敏子 演奏『孤軍』

歯をくいしばって生きてきた
ふたりが交錯して火花を散らした瞬間


小野田寛郎の自伝『たった一人の30年戦争』(1995年)のなかに忘れられない一節がある。

 
「ルバング島での三十年、私は一度も歯を悪くしたことはなかったが、帰還して十年の間に、歯槽膿漏のため十本の歯が抜けてしまった。帰還したとき五十二歳、多分に年齢のせいもあるだろうが、私は歯をくいしばって生きていれば、歯など抜けないものではないか、と実感として感じている」

 
ここに表明された見解は、一般的な考えとは逆ではないか。いつも歯をくいしばっているような生活は、口腔ケアのみならず心身全般の健康維持の面からも望ましくない、というのが常識だろう。この告白のすぐあとで、小野田は携行していた弾薬について、年に一回は必ず保存状態を厳重に点検して「当時、銃弾の寿命は十五年といわれていたが、私は三十年間、年に六十発以上の弾を使って不発だったことはほとんどない」と述べているから、かれにとってみずからの歯と弾薬を正常に保つのは同じ原理のものだったらしい。

 
1922年和歌山県生まれ。旧制中学を卒業して貿易商社に勤めているとき、太平洋戦争がはじまって徴兵され、陸軍中野学校で「大東亜戦争には百年戦争が必要だ」との方針のもとに秘密戦の訓練を受けたのち、1944年フィリピン戦線へ送られ、翌年の終戦のあともルバング島にとどまって、以降30年にわたり「残置諜者」としてゲリラ活動を続ける。この間、日本からの捜索隊や肉親がたびたび現地を訪れて帰国を呼びかけたものの頑として応じず、戦時中の上官だった元少佐の「任務解除」命令によってついに投降したのは1974年3月のことだった。

 
その翌月、ジャズ・ピアニストの秋吉敏子は、夫のルー・タバキンとともに結成したビッグバンドを率いてハリウッドで初のレコーディングに臨み、小野田の帰還をモチーフとして作曲した『孤軍』を吹き込んでアルバムのタイトルにしている。よほど創作意欲が刺激されたのだろう。

 
1929年満洲(現・中国東北部)生まれ。敗戦後に引き揚げて駐留軍のキャンプなどでジャズ・ピアノを弾くようになり、1956年単身渡米して日本人として初めてバークリー音楽院に学んだのち、チャールズ・ミンガスのバンドへの参加を皮切りに本格的な演奏活動を繰り広げる。そんな彼女の代表作のひとつとなった『孤軍』は、いきなり裂帛の気合で鼓が打ち鳴らされ、地の底から湧き上がってくる合奏のなか、タバキンのフルートが自在に飛翔する。あたかも能舞台にジャズ・バンドが登場したような前代未聞の楽曲は大きな反響を巻き起こした。

 
やはり東西の音楽を融合させた『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)で国際的な評価を得た作曲家・武満徹と1976年に行われた対談で、秋吉は自分とジャズのかかわり方をこんなふうに語っている。

 
「まず、いままで何千年も長い間男性の世界だったから、女性がいろいろなことをやるというのは非常にハンディキャップがあるということですね。でも、これは事実として認めているだけで、べつに自己憐憫に陥っているわけでも何でもないのですが、もう一つ今度は私の場合、アメリカの文化であるジャズに携わっている日本人であるということで、普通の状態よりも特殊な状態にあるということです。(中略)私みたいな特殊な状態にある人間にとっては、数が少なくても一つ一つが、ある一つのレヴェルから落っこちるということは許されないと思うのです。自分にとっても許されないけれど、他人の目から見ても許されないことだと思うのです」

 
まさしく秋吉もまた、歯をくいしばって生きてきたのだ。太平洋戦争という未曽有の災禍を経て、かたやフィリピンのジャングルにあって、かたやアメリカのジャズ・シーンにあって、ぎりぎりと歯をくいしばった7歳違いのふたりが交錯して火花を散らした瞬間を記録したのが『孤軍』だった。現在ではストレスこそ諸悪の根源とされて、その歯をくいしばるという表現自体もう久しく見聞きしていない気がするけれど、もはや死語になりかかっているのだろうか。


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