アナログ派の愉しみ/音楽◎アーノルド作曲『大々的序曲』

家庭用の電気掃除機が
オーケストラとわたりあって


このあいだ愛犬を連れて近くの緑地を散歩していたら、向かいの住宅からピアノの演奏が流れてきて、それが『クワイ河マーチ』だったものだから足を止めて聴き入ってしまった。頭のなかでは、あのデヴィッド・リーン監督の映画『戦場にかける橋』(1957年)のシーンが盛んに渦巻きながら。正確を期して説明しておけば、もとはイギリスの軍楽隊作曲家ケネス・アルフォードがつくった『ボギー大佐』(1914年)を、映画の音楽担当のマルコム・アーノルドが作中に取り入れて新たにアレンジしたのが『クワイ河マーチ』だ。

 
太平洋戦争中の1943年、ビルマ(現・ミャンマー)とタイの国境近くにあった日本軍の第十六俘虜収容所。そこへニコルソン大佐(アレック・ギネス)以下のイギリス軍捕虜の部隊が配置されて、粗末な身なりのかれらは胸を張って『クワイ河マーチ』を口笛で吹きながら行進してくるのだ。斉藤大佐(早川雪洲)が管理する収容所ではこの地のクワイ河に鉄道橋を架けるのが至上命令で、次第に期日が迫るなか、その労務のあり方をめぐって日本の武士道とイギリスの騎士道が激しくぶつかりあって火花を散らす一方、ここから脱走したアメリカ軍のシアーズ(ウィリアム・ホールデン)はイギリス工作隊に加わって鉄道橋を爆破するために舞い戻ってくるという、ジャングルを舞台にした三つ巴の波瀾万丈のドラマが……。

 
わたしも10代のころに映画館で初めて観たときには、息をするのも忘れ、両手に汗を握って2時間半以上を過ごしたことを思いだす。だが、以来何度か見返す機会を経るうちに、とくに愛国心が旺盛というわけでもない自分でさえ、そこに描かれた日本軍の戯画ぶりに鼻白むようになった。何より納得いかないのは、歴史上の事実としてビルマ・タイ両国を結んだ総延長約415キロの泰緬(たいめん)鉄道はすべて日本の指揮のもとで建設し、もちろんクワイ河の橋もその手によって架けられたにもかかわらず、映画では日本軍の無能をイギリス軍が救ってやったとされている点だ。

 
なぜ、こんな転倒が生じたのか? おもな原因は、映画の原作小説を書いたフランスの作家ピエール・ブールにあるだろう。かれは第二次世界大戦中、実際にインドシナ半島で日本軍の捕虜となって過酷な収容所生活を送り、その経験を踏まえて執筆された物語に尋常ならざるバイアスが作用したのだ。それだけではない。さらに後年にはSF小説『猿の惑星』で日本人を猿の支配者に擬したディストピアまで打ちだし、その映画もふたたび大ヒットさせているから、よほどの恨みつらみがわだかまっていたものと思われる。そうして捏造された虚構の筋立てが、あたかも実話のごときリアリティをまとったのには、アーノルドが提供した音楽の力によるところもきわめて大きかったろう。

 
そんなふうに理解してきたのだが、最近になって多少考えをあらためた。アーノルドが『戦場にかける橋』の仕事に取り組んだころ、ほぼ並行して「冗談音楽」のイベントとして名高いホフナング音楽祭の依頼により、『大々的序曲(A Grand, Grand Overture)』(1956年)なる作品もつくっていたことを知ったからだ。ひと言で要約するなら「電気掃除機協奏曲」。大音響を轟かせるオーケストラとオルガンを向こうにまわして、一般家庭用の電気掃除機3台&床磨き機1台(オリジナルの楽譜には、それぞれメーカー・型番も指定されているとか)が唸りをあげてわたりあい、フィナーレではベートーヴェンの『運命』とチャイコフスキーの『1812年』をミックスしたコーダがえんえんと鳴りわたる……。

 
作曲家の自作自演の記録も残っているそうだけれど、いまわたしの手元にあるのはヴァーノン・ハンドリーがロイヤル・フィルを指揮したアーノルド作品集のCDで、この演奏時間7分強のパロディ楽曲がオーソドックスな交響曲第2番などと堂々と肩を並べている。まさに真面目さも不真面目さもいっしょくたになった、めくるめく誇大妄想の世界が繰り広げられているのだ。

 
こうしてみると、アーノルドが『戦場にかける橋』を飾ってみせた壮大な音楽だって、ハナからホラ話にふさわしく設計されたものだったような気がしてくる。それを真に受けて目くじらを立てるのはおとなげない、とうに第二次世界大戦は過去のものとなって敵も味方もないのだから、イギリス、日本、アメリカの芸達者なスターたちが織りなすスペクタクル映画を思う存分楽しんだらいい。それが大英帝国式のユーモア感覚なのだ、とこの奇想天外な『大々的序曲』は教えてくれているのだろう。
 

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