アナログ派の愉しみ/本◎チャペック著『園芸家の一年』

何をわたしは踏んでいるのか?
その問いが投げかけるものとは


わたしは物心ついてから、4年ほどアパートで過ごしたほかは、ずっと東京郊外の戸建て住宅を転々としてきた。もちろん、いずれもつましい陋屋に過ぎなかったけれど、猫の額ほどであれ自前の庭がある暮らしをして現在に至っている。特別なこだわりを持っているつもりはないが、じゃあ、この先、マンション・ライフをはじめるかと訊かれてもとうていイメージできない。なぜなのか? しょせんは長年の習い性だろうと受け止めていたところ、思いがけず明快な答えに出くわした。カレル・チャペックが『園芸家の一年』(1929年)に記したエピソードだ。

チャペックは、生前の母親がしばしばひとり占いをして、カードの山に向かって「何をわたしは踏んでいるのか」と囁いていた遠い記憶があり、自分も年を取ってからやっと、その問いかけに興味が湧いたというのだ。こう続く。(飯島周訳)

 すなわち、わたしは、土を踏んでいる、ということを発見したのだ。
 人間は実際に、何を踏んでいるかを気にしていない。まるで狂ったように右往左往して、せいぜい、この頭上の美しい雲とか、あちらの背後にある美しい地平線や美しい青い山が、どんな様子なのか、眺める程度だ。自分の足の下を見て、これは美しい土だ、と言ってほめるようなことはしない。
 手のひらほどの大きさでも、庭を持つべきだ。何を踏んでいるか認識するように、少なくとも、花壇を一つ持てるといいのだが。そうすれば、きみ、どんな雲も、きみの両足の下にある土ほど多種多様ではなく、美しくも恐ろしくもないことがわかるだろう。

この「土」と題されたチャプターの文章に接して、わたしは身震いするほど感動した。生まれてこのかた、自分の生活の根っこにあったものがはっきりとわかった。そう、わたしも土を踏んできたのだった……。

1890年ボヘミアに生まれたカレル・チャペックは、チェコの作家・ジャーナリストとして旺盛な執筆活動を繰り広げる一方で、こよなく園芸の仕事を愛した。そして、『リドヴェー・ノヴィニ(人民新聞)』に1927年から兄ヨゼフのイラストを添えて連載されたこのエッセイは、だれより本人が心ゆくまで楽しんでいることが伝わってきて微笑ましい。代表作の戯曲『ロボット(R.U.R)』(1920年)や小説『山椒魚戦争』(1936年)では、人間のエゴイズムの愚かさを容赦なく暴いたチャペックが、ここでは園芸家のエゴイズムをのびのびと肯定してみせるのは、やはり相手が植物だからか。

チャペックは後年、プラハ近くの別荘で冬期の極寒のさなかの庭いじりがたたって急性肺炎にかかり、48歳で早世した。その意味では、本人にとって園芸はただの趣味や娯楽ではなく、文字どおり命がけの営みだったと言えるかもしれない。のみならず、『園芸家の一年』においても、ときには時代へ厳しい視線が向けられている。このエッセイが綴られたころ、隣国ドイツではゲルマン民族至上主義の野心を隠そうとしないヒットラーの率いるナチス党がいよいよ台頭して、その魔手がやがて祖国に伸びてくることをチャペックは予感していたろう、上に先に引用した「土」のチャプターは栄養豊富な土壌の条件をあげたあとで、こう結ばれているのだ。

 それに対し、醜悪で役立たずなのは、ねっとりとした、固まりやすい、じめじめした、頑固な、冷たい、不毛な土のすべてであり、それは、救われない物質を呪わんがために、天が人間に与えたものである。そのすべては、人間の心にひそむ冷酷さ、頑迷さ、意地の悪さと同じように醜悪なのだ。

この激烈な問いかけが、21世紀の現代世界に対しても向けられていることは言うまでもない。何をわたしは踏んでいるのか?
 

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