アナログ派の愉しみ/バレエ◎ベジャール振付『くるみ割り人形』

それは失われた
母親への子宮回帰か


東京・神田駿河台にある仕事の関連先へ出向くたび、帰りがけにJR御茶ノ水駅前の「ディスクユニオン」クラシック館に立ち寄って中古ソフトを漁ってしまうのがつねだ。先日もまた道草すると、現在では廃盤のDVDコーナーにモーリス・ベジャールが振り付けたというバレエ『くるみ割り人形』のドキュメンタリーが千円少々の値段で出ているのを見つけ、即座に買い求めた。

 
チャイコフスキーの「三大バレエ」の掉尾を飾る『くるみ割り人形』(1892年)は、だれにも親しみやすい旋律の数々が、作曲家晩年の円熟をきわめた作曲技法のもとに成り立っている。その一方で、少女クララの夢を描いたストーリーと言ったら、お気に入りのクリスマス・プレゼントのくるみ割り人形がネズミの軍隊と戦ったり、ハンサムな王子さまに変身してお菓子の国を案内してくれたり……。そんな子どもだましのメルヘンと、まるで交響詩のごとく精妙巧緻な楽曲とのギャップにわたしは閉口したあまり、これまでバレエとは切り離してもっぱら音楽のみを楽しんできた。

 
それだけに、「バレエ界の革命児」ベジャールがこの作品を振り付けていたことを発見して、よもやお子さまランチのような演出ではあるまい、きっと大人の鑑賞に耐えるステージになっているだろうと考えたのだ。果たして、その予測は的中した。いや、的中どころか、ベジャール・バレエ団のパリ・シャトレ座公演(2000年)のライヴ映像には、こちらの想像をはるかに凌ぐ途方もない世界が繰り広げられていたのだ。

 
冒頭の「小序曲」のあと、ステージの背後に設けられたスクリーンにはベジャールそのひとが大写しされ、観客に向かってこう語りかける。

 
「私は母を思い出す。私は7歳だった。ある日、母が私の部屋にやってきてこう告げた。ママは長い旅に出るのよ、いい子になることを約束して、と――」

 
そう、このプロダクションは、かれが7歳のときに死別した母親へのオマージュとして制作された自叙伝だった。

 
だから、クリスマス・イヴの夜、ツリーの下でくるみの実を弄んでいるのは少女ではなく、ひとりの少年(ダマース・ティース)だ。周囲にはベジャールの師プティパと『ファウスト』の悪魔メフィストフェレスを兼ねた進行役(ジル・ロマン)や、お節介な猫のフェリックスに扮した狂言回し役(小林十市)がたむろしていると、そこへ生前そのままに若く美しい母親(エリザベット・ロス)が颯爽と登場する。以降、ベジャールが歩んできたバレエの道のりを、実人生ではありえなかった、少年と母親がいっしょになって辿り直すという趣向でストーリーが運んでいく。

 
もっとも、それは日本人がイメージしがちな「母恋い」とはずいぶん様相を異にする。いちばんの象徴が、ステージにどんと置かれた聖母の裸体像だ。それを母親に見立てた少年が這い上がろうとしては、丸みを帯びた乳房に手を滑らせてずり落ちる。すると像が180度回転して、背中の割れ目から母親が現われて少年を抱き締める。終盤のクライマックスでは、あの「花のワルツ」にのって、タキシードのダンサー集団やら、けばけばしい天使たちやら、特別ゲストのアコーディオン奏者イヴェット・オルネも加わって、神羅万象がステップを踏んで踊りだし、その中心で純白のドレスをまとった母親と少年が手に手を取る……。

 
バレエとは言葉や観念に拠らずに、徹頭徹尾、肉体の原理に立って生きてあることの意味を突きつめる芸術だろう。そう考えたときに、わたしの深読みでないとするなら、巨大な聖母像の背中の割れ目とは紛れもなく女陰のイメージであり、母親の手によって少年が向こう側へと導かれていくのは子宮回帰の願望を表しているはずだ。

 
終演後のカーテンコールでは、当時73歳だったベジャールも姿を見せる。出演者たちがみな晴れやかな笑みをこぼすなかで、ひとりだけ、青い瞳の両眼を開いてはるか遠くを眺めやっている様子が印象的だった。数年後に世を去ることになるかれは、このとき天上の母親とみずからの死の予感を重ねあわせていたのではないか。そんなふうに思えてならない。わたしも実の母親を失って久しく、ずっと目を逸らしながら、気がついてみればとうにその年齢を超える歳月を生きてきた。いまにして、ようやく母親とひとつになれる気がする。
 

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