アナログ派の愉しみ/映画◎松林宗恵 監督『人間魚雷回天』

決戦に向かう男へ
大和撫子が贈るはなむけとは


閉所恐怖症のきらいがあるわたしには、背筋が硬直する映画だ。太平洋戦争末期に海軍が開発した回天とは、酸素魚雷をひとり乗りに改造した「海の特攻兵器」で、大型潜水艦によって作戦海域まで運ばれたのち、目標に向けて発進してからは人間の手が操縦して激突させるというもの。当然ながら、搭乗者の生還はありえない。器械の故障のせいで戻ってきてさえ周囲から白い眼で見られる。そんな棺桶のような兵器をめぐって、学徒出身の予備士官たちの姿を追う群像劇が『人間魚雷回天』(1955年)だ。

――残された記録によると、敗戦までに回天操縦の訓練を受けた予備士官・予科練習生等は1,375名で、このうち出撃戦死87名、訓練中の殉職15名。確実な戦果は、敵軍艦4隻撃沈という。

映画では、「こんなふうに死ぬのはいやだ」と煩悶する主役の少尉に木村功、その恋人には津島恵子が扮している。ピンとくる方も多いのではないか? そう、この作品の前年に公開された黒澤明監督の代表作『七人の侍』でもカップルになったコンビだ。

『七人の侍』においては、元服前の少年侍と農村の少女という10代同士の幼い恋愛を、すでに30歳前後だった両者が演じた。率直に言って、この年齢上のギャップに不自然さを覚えたのはわたしだけではあるまい。いよいよ野武士たちとの決戦の前夜、ふたりは納屋に忍び込んでもつれあうものの、それが露見するとなす術もなく、すべてが終わって生き延びたあとにはおとなしく別れるしかなかった。その可憐な成り行きを、木村と津島はさすがに安定した演技力で表現して、造型のしっかりした映像になるとともに、小中学生にも安心して見せられる健全な作品に仕上がっている。このへんが黒澤作品の優れた点である反面、つねにつきまとう物足りなさの要因でもあると思う。

では、『人間魚雷回天』のほうはどんな展開を見せるのか? こちらの少尉と恋人はおそらく20代前半に設定されていて、やはり実年齢と若干の差があるものの違和感はまったくない。明朝が出撃と決まった前夜、男は外泊を許されて仲間たちと旅館に出かけるが、相変わらずいじいじと女郎相手にもグチをこぼしているところへ、突如、女が強引に押しかけてきた。ふたりは初めて情を交わしたのち、砂浜へ出かけ、女は裸足でバレエを踊りまくる。やがて男が基地へ戻ってからも、女は海岸にとどまり、朝日に照らされて回天と男を収容した大型潜水艦が出港すると、そのあとを追ってみずから海中へと入っていく。後日、男は南洋でみごと敵の空母に体当たりして撃沈させた……。

まさか、とわたしは硬直した背筋で首をかしげたくなる。いくらなんでも劇化が過ぎるのでは? しかし、いまだ敗戦後10年にして、元海軍少尉の松林宗恵監督がメガホンを取った作品であれば絵空事のはずもない。現実どおりではなくとも、当時、祖国のために若い生命を散らせた男と女の心象風景を反映したものと受け止めるべきなのだろう。ここで、木村功と津島恵子は狂気すら孕んだ眼差しで迫真の演技を繰り広げてみせた。

意気地なしの童貞を導いて、女は交わったうえ、みずからの生命を捨てることでたがいの存在をひとつにし、その手に背中を押されて男はやっと足を踏み出す。倭建命(やまとたけるのみこと)の前途のために、妃の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が浦賀水道に入水したとされる古代以来の、それは決戦に向かう日本男児へ大和撫子たちが贈ってきたはなむけのアレゴリーなのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?