アナログ派の愉しみ/音楽◎小澤征爾 指揮『運命』

「世界のオザワ」は
こうして誕生した


小澤征爾には『ボクの音楽武者修行』(1961年)という著書がある。23歳のときにギターとスクーターとともに日本を飛び出し、ブザンソン国際指揮者コンクールで入賞したのち、25歳でニューヨーク・フィルの副指揮者となって凱旋帰国するまでの体験を綴ったものだ。そのあっけらかんとした筆致には、成功者の驕りが露ほども感じられず、だれに対してもハグしかけるような気さくな雰囲気に溢れているのが微笑ましい。

 
しかし、わたしがかねて疑問に思ってきたのは、ここに記述されているのが、ヨーロッパやアメリカの各地でどんな生活を送ったか、だれだれの世話になったか、といったふうのいわば楽屋落ちのエピソードばかりで、そもそもクラシック音楽の指揮者を志して、小澤がどんな作曲家のどの作品に入れ込み、それをどこでどう演奏したのか、といった重大な主題にまったく言及していない点だ。自分のことより周囲のほうに関心が向いていたのか、それともみずからの核心にかかわる話題はあえて避けたのだろうか?

 
その後、小澤はサンフランシスコ交響楽団やボストン交響楽団の音楽監督、ついにはウィーン国立歌劇場の音楽監督……と、めざましい勢いでキャリアの階段を駆け上がっていく。クラシック音楽の本場から遠く離れた島国の出身者が、世界じゅうの天才どもがしのぎを削るなかでこうした栄光のポストを次々と掴むありさまは、慶賀の至りどころではなく、もはや異常と言っていい事態だったろう。そこには、とうてい音楽的な才能だけでは乗り越えられないハードルがあったはずだ。

 
盟友の作曲家・武満徹との対談『音楽』(1978年)で、桐朋学園時代に恩師の斎藤秀雄から学んだことを問われて、小澤はこう答えている。

 
「ベートーヴェンの『五番』を指揮していたときに斎藤先生に言われたことがあるんです。タアタタ、タアタタ、タアタタ、タアタタ!!!とやっているときにね、結局、音楽は集中だということを教えられたんだ。自分の体を自在にコントロールする方法、いつ力を抜き、いつ力を入れるかを徹底的に叩き込まれた。その顔をいまでも思い出すものね、変な話だけれども。〔中略〕それは音楽だけじゃないんだって。パフォーマンサーというのは芝居とかバレエとかスポーツとかは全部ですって。ある決定的瞬間に集中のできない奴はだめだというんです」

 
そのベートーヴェンの『交響曲第5番〈運命〉』を、小澤は32歳のときに名門シカゴ交響楽団を指揮して初めて録音しているが、そこには確かに厳しく張りつめた集中力が漲っている。軽快な運びを身上としながら、若さに任せて流すようなことは一切ない。第3楽章から転調を重ねていって終楽章に達したとたん「勝利」の凱歌が炸裂する場面でも、みだりにエネルギーを放散させず、むしろ内に向けて凝縮させようとするかのような指揮ぶりは、通常の演奏に較べて奇異に感じられるほどだ。

 
つまりは、これが小澤の音楽づくりの原点なのだろう。だからこそ、現実の演奏から離れて解説するのは不可能で、著書にどれほど言葉を並べてみたところではじまらない、ただひとりオーケストラの指揮台の上でひたすら全神経を集中させて楽曲に立ち向かう姿をもって示すほかないのだ。

 
のみならず、その姿勢はもっと大所高所の行動においても一貫したろう。先に引用した発言のとおり、恩師が弟子の小澤に叩き込んだのは、すべての表現者にあって「ある決定的瞬間に集中のできない奴はだめ」とのドグマで、とりわけ指揮者とはみずからはひとつの音も出せない立場でどうしてもオーケストラを必要とする以上、ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場のポストを手中に収めるときにも、また、恩師の名を冠したサイトウ・キネン・オーケストラを組織するときにも、常人のおよびもつかぬ集中力が発揮されたのに違いない。かくして「世界のオザワ」が誕生していったのである。

 
その小澤征爾が88歳で死を迎えた。晩年は病魔との悪戦苦闘を繰り広げながら、最後の最後まで持ち前の集中力を弛ませることなく人生を駆け抜けた果てに……。謹んで哀悼の意を捧げたい。
 

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