アナログ派の愉しみ/音楽◎バッハ作曲『二つのヴァイオリンのための協奏曲』

原子力潜水艦のソナー員が
バッハに聴き入るわけ


仮想軍事小説の大家、トム・クランシーのデビュー作となった『レッド・オクトーバーを追え』(1984年)は、アメリカとソ連という東西の覇権国による「冷戦」たけなわの時代、地上の人々の目には届かないところで、両国の原子力潜水艦同士が繰り広げる抗争劇を描いたものだ。そのなかに、ほんの小さいエピソードながら、強烈な印象を受けていまだに忘れられない場面がある。

 
深海の戦場にあって最前線の立場を占めるのは、四六時中敵艦の動きを探索するソナー員たちで、アメリカ海軍の「ダラス」では天才的な聴力に恵まれた若いジョーンズ二等兵曹も含まれていた。ヘッドフォンのかなたに耳を澄ませるという極度の緊張を強いられる仕事のかたわら、かれはいい耳にはいい音楽が必要と唱えて、休憩時間には私物のカセット・プレイヤーでバッハの音楽テープを聴くのが習慣だった。ある日、ソ連の超静音航行システムを備えた最新鋭艦「レッド・オクトーバー」のかすかなノイズを聞き取ると、すかさず手近にあったテープに記録して艦長のマンキューソに差しだした。そのときの会話を引用しよう。伊坂清訳。

 
 「うん」マンキューソはテープをはずし、驚いて顔をあげた。「こいつのためにバッハを犠牲にしたのか?」
 「いいテープではなかったんです。この曲なら、クリストファー・ホグウッドのもっとましなやつを持っていますから」

 
上司の艦長にとっても、ジョーンズがバッハの音楽よりソナーの記録のほうを優先したことが意外だったらしい。もっとも、わたしに言わせればいささか早とちりで、かれが口を滑らせたとおり、もしそれがホグウッドの録音だったら、幻の存在だった敵艦の発見との引き換えだとしても手元のテープを犠牲にしたかどうかは疑わしい。だからこそ、わたしはこの場面に出会ったときに思わず膝を打ち、ずっと記憶に留めてきたわけだが、そのへんの事情についてはもう少し説明が必要だろう。

 
小説が舞台としている1980年代初頭は、音楽の録音媒体においてもアナログのLPからデジタルのCDへの移行という劇的なタイミングだった。このメディア革命は、ミサイルや魚雷の誘導装置として使われるレーザー半導体の技術を応用することで成り立ち、これまでよりもずっとクリアな音質で音楽の録音・再生が可能となった。こうした新たな環境のもとで、長い歴史を持つクラシック音楽を作曲された当時の楽器や奏法にもとづいて再現しようとする古楽復興運動が台頭したのは、おもに小編成により繊細な響きの楽器を用いる古楽演奏がデジタル録音に適していたからだろう。そんな新世代の旗手のひとりがイギリスから登場したクリストファー・ホグウッドで、「音楽の父」バッハの音楽でもたったいま生まれたばかりのような清潔きわまりない演奏を聴かせたのだった。

 
こうして眺めると、原子力潜水艦、デジタル技術、ホグウッドのバッハ演奏……という突飛な三題噺は、ソナー員のジョーンズの存在によってひとつながりとなり、まさに当時の最先端の音楽シーンを象徴したと言えるだろう。たとえ、かれが敵艦発見の大殊勲よりこちらを優先したとしても……。

 
そして、そのかれが口にした「この曲なら」とは、わたしの睨むところ、バッハの『二つのヴァイオリンのための協奏曲』(1730年頃)を指している。と言うのも、ホグウッドが手兵のエンシェント室内管弦楽団を指揮し、コンサートマスターのヤーブ・シュレーダーとクリストファー・ハイロンズがソリストとして、1981年に録音された演奏は、この対位法とフーガを組み合わせたバロック協奏曲の魅力を解き明かし、とりわけ第二楽章でふたつのヴァイオリンが綾なすタペストリーは深海に降り注ぐマリンスノウを浮かびあがらせるかのようで、ジョーンズの聴覚にふさわしいと思うからだ。と同時に、そのかぎりなく静謐な美が、米ソ全面核戦争の引き金ともなりかねない原子力潜水艦のソナー・ルームで聴かれていることに、わたしは人類のアイロニーを見たのだった。

 
それから約半世紀が経過した現代の「冷戦」の最前線と言えば、コンピュータを武器として格闘するサイバー戦争のエリートたちだ。かれらはどんな音楽をBGMとしているのだろうか?
 

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