アナログ派の愉しみ/音楽◎ジョン・コルトレーン演奏『私のお気に入り』

真剣に、自由に
このうえない愛をもっての戯れ


ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』(ロジャース作曲/ハマースタイン2世作詞、1959年)が世に送り出した歌のなかで、いちばん人気が高いのは『ドレミの歌』だろう。おそらく、世界の子どもたちに最も知られている歌ではないか。では、つぎは? 『エーデルワイス』や『ひとりぼっちの羊飼い』などと意見は分かれるにせよ、『私のお気に入り(My Favorite Things)』も有力候補だろう。

これはオリジナルの舞台では、トラップ大佐一家の家庭教師へと旅立つマリアと修道院長のあいだで歌われ、のちのジュリー・アンドリュース主演の映画(1965年)では、雷が轟く夜にベッドの上で7人きょうだいを励ますためにマリアが歌って聞かせる。私の好きなものは、として、バラの花びらの雨粒、子猫のひげ、ぴかぴかの銅のやかん……とあげていくうちに、だれもが縮こまっていた気持ちが膨らみ、自然と顔がほころんでくる歌だ。

この愛らしい歌をジャズのサックスの巨人、ジョン・コルトレーンもひときわ好んだ。舞台が開幕した翌年にいち早く自分のコンサートで取り上げ、1961年にはこの曲名を冠したアルバムを発表して大ヒットとなり、以後もことあるごとに演奏を繰り返した。こうしたケースは他に例を見ないだけに、わたしはこのミュージカルの誕生と前後して、かれが30歳を過ぎて初めて子ども(女児)を授かった喜びが反映しているのではないかと思うが、どうだろう。ついで1964年に長男、65年には次男も生まれて、トラップ大佐さながらに子宝に恵まれる。

コルトレーンは1966年7月に最初で最後の日本公演を行った。このときの記者会見で、音楽を通じて最も伝えたいものは? との質問に、「愛と努力の両方ですが、愛が中心になります。愛は宇宙を支えているので、この言葉が最も適当だと思います」と答え、また、「私は聖者になりたい」と笑った。そして、妻のアリス・マクロード(ピアノ)らと組んだクインテットのプログラムは、当初みずからの作曲による代表作『至上の愛』『スピリチュアル』などがアナウンスされていたものの、それらは1曲も演奏されず、メインに取り上げられたのが『私のお気に入り』だった。

これをどう表現したらいいのだろうか。7月22日に新宿厚生年金ホールで行われたステージのライヴ録音が残されているが、そこでの『私のお気に入り』は異形としか言いようがない。前記のアルバムではトータル14分弱で演奏していたこの曲が、ここでは冒頭のベースのソロだけで同じ時間を要し、そのあとコルトレーンのサックスがなだれ込んでくると阿鼻叫喚の喧騒が湧き起こる。子どもなら雷以上に恐れをなして泣き出すんじゃないかと心配になるほどだ。以後、耳に馴染んだ原曲の旋律はたまに思い出したように現れるだけで、凄まじい気迫の即興演奏がえんえんと続き、トータルの演奏時間は57分強に達している。ベートーヴェンの交響曲に比較するなら〈運命〉や〈英雄〉を凌ぎ、この1曲だけで〈第九〉の全4楽章に迫る長さなのだ。

当時の批評を見ると賛否両論で、なかには罵倒に近い意見もあったようだ。実際、タガが外れた演奏だったかもしれない。それは逆には、タガを外した演奏とも言えるだろう。子どもが「私のお気に入り」に出会うと時間がたつのも忘れて熱中するのと同じように、ここでコルトレーンは真剣に、自由に、このうえない愛をもって「私のお気に入り」と戯れたのではないかと想像すると楽しい。まさにそれは聖者の姿だったろう。

この演奏から1年後の1967年7月、ジョン・コルトレーンは肝臓がんのため40歳にして生涯を終えた。


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