アナログ派の愉しみ/映画◎ヒッチコック監督『間違えられた男』

これまで体験してきた恐怖が
わたしのこの顔をつくっているのか


『間違えられた男』(1956年)は、サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督のおびただしい作品のなかでも最も怖い。と言うのは他でもない、本編に先だってヒッチコック本人がスクリーンに登場して、観客に向かって話しかけ、これは事実にもとづく映画なので、いままで自分がつくってきたものよりも、こちらのほうがずっと怖い、と言明しているのだから。

ストーリーは至ってシンプルだ。ナイトクラブのバンドマンが、連続強盗事件の容疑者として逮捕される。当初はすぐに潔白が判明すると考えていたのに、目撃者の証言や筆跡鑑定などの証拠調べはことごとくかれに不利となり、逆に、アリバイを証明してくれるはずの人物は死亡していたことがわかって、こうした状況に妻は耐え切れず精神に異常をきたしていく。ついに裁判がはじまると、陪審員たちはハナからかれを犯人と決めつけて……。

そのバンドマンに扮するヘンリー・フォンダは、この映画の4か月後に公開されたシドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』にも出演して、こちらでは父親殺しで起訴された少年の無実を明かしていく陪審員に扮している。つまり、冤罪を晴らす男と、冤罪に陥った男の、正反対の役柄を前後して演じたのだ。

こうした観点で双方を見比べてみると、きわめて対照的なところに気づく。『十二人の怒れる男』では、終始表情を変えないフォンダを中心として、ほかの11人の陪審員は少年の無実を受け入れるとともに表情が和やかに変化していく。一方、『間違えられた男』でのフォンダは刑事たちの無表情をよそに、事態が八方ふさがりになるにつれて、暗い翳りが兆し、常軌を逸したような、いかにも犯罪者にふさわしい表情に変じていく。そして、唐突に真犯人が捕まって、かれの無実が白日のもとになるのだが、その表情は醜くこわばったままだ。

ヒッチコックはフランソワ・トリュフォーとの対話をまとめた『映画術』(1966年)のなかで、この映画について「駄作の部類」と断ったうえで、しかし、「わたしなりの思い、警察への恐怖が、かなり強くこめられている」と述べている。19世紀末のロンドンに生まれたヒッチコックは幼いころ、厳格な父親の差し金でしつけのために留置場へ入れられ、以来、終生にわたって警察に対し止みがたい恐怖が植えつけられたという。かくして、『間違えられた男』は1952年にニューヨークで起こった冤罪事件と、ヒッチコック自身の幼児期の留置場体験の、ふたつの事実と恐怖が交錯したところに生み出されたものだった。

ところで、わたしも還暦を過ぎたころから、写真に撮られた自分を目にして、そこにいかにも怪しい顔が映っているのを認める頻度が増えてきた。これじゃ、まるで犯罪者の手配写真じゃないか! と、そんな思いを抱いたことは、どなたにもあるのではないだろうか?(それからすると、毎朝、髭剃りで対面する鏡のなかの顔にそこまでの違和感を覚えないのは、動体視力が補正してくれているのかもしれない)

おそらく、たんに加齢にともなう顔面筋の衰えだけが原因ではあるまい。これまで体験してきた大小の恐怖がそこに刻み込まれ、積もり積もって、こうした表情になったのだろう。たとえ、のちに恐怖の念そのものは払拭できたとしても、いったん顔に沈殿した表情はもとに戻らない。ひとによっては何歳になっても天真爛漫な顔つきでいるのを見かけるけれど、わたしはと言えば、否応もなく、わが恐怖の記録をさらして最後の日まで生きていかざるをえないとしたら、それこそ何より怖いではないか――と、ヒッチコックの冒頭の弁を思い起こして、この映画のラストシーンに身震いしたのである。


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