アナログ派の愉しみ/音楽◎清瀬保二 作曲『日本祭礼舞曲』

豊葦原瑞穂国の
原風景を成り立たせたものは


日本的情緒とは? それを言葉で伝えあうのは難しいけれど、音楽で表されるとはっきりわかるような気がする。『日本祭礼舞曲』もその実例のひとつだろう。手元の山岡重信指揮/読売日本交響楽団によるCDをかけると、オーケストラの演奏とは思えないほど、あたり一面の稲穂を揺らす風の気配や、鎮守の杜が沸き立つ村祭りのさんざめきの、懐かしい響きの波に包まれて、自然と口元がほころび、心身のほぐれていく自分がいる。

 
しかし、それだけの話だろうか?

 
大分県生まれの清瀬保二が、この作品に取り込んだのは40歳のときだ。その1940年(昭和15年)は日本固有の暦では神武天皇の即位から2600年目にあたり、それを祝賀する行事のひとつ、「皇紀二千六百年記念芸能祭」のために『日本舞踊組曲』全5楽章が作曲されたのち、改めて前半3楽章だけを切り離し『日本祭礼舞曲』と銘打って、1942年(昭和17年)12月、年末恒例のベートーヴェン『第九』演奏会の際に山田和男指揮/新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の演奏で披露された。こうした経緯を辿ったことで、ヨーロッパ音楽の方法を使って、はるかな古代から受け継がれた豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)のイメージを描く意図が研ぎ澄まされていく。

 
いささか煩わしいぐらい作品の成立事情を述べたのは他でもない、先行する『日本舞踊組曲』と再編された『日本祭礼舞曲』の、それぞれの初演のあいだに1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の開戦がはさまれていることを明らかにしたかったからだ。であるなら、上記したように日本古来の精神風景をいっそう純化させようとしたのも、たんにノスタルジーに遊ぶものではなかったはずだ。

 
ここに一本の映画がある。山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』だ。太平洋戦争の口火を切ったアメリカ太平洋艦隊の真珠湾基地攻撃、イギリス東洋艦隊を壊滅させたマレー沖海戦を題材とするこの作品は、大本営海軍報道部の企画になる当時としては莫大な製作費を投じたもので、開戦一周年記念の1942年(昭和17年)12月、すなわち『日本祭礼舞曲』の初演と前後して公開されている。

 
ストーリーは、地方の農村に生まれ育ったふつうの少年が、憧れの海軍の飛行機乗りをめざして努力する姿を追っていく。霞ケ浦の予科練に入ってしごかれながら海軍魂を磨き、航空隊に配属されてからはさらに激しい訓練を積み重ねて、ついに念願のパイロットとして航空母艦に搭乗して真珠湾に向かう。なお、その歴史的な奇襲攻撃の新戦力となった零式艦上戦闘機(ゼロ戦)もまた、皇紀二千六百年を期して誕生したものだった。

 
見どころは、のちの「特撮の神様」円谷英二が手練手管を尽くして再現したリアルな戦闘シーンもさりながら、敗戦後につくられた映画とは異なって、あくまで日本の勝利を信じて疑わない若い兵士たちの人間模様がさながらドキュメンタリーのように映像に記録されていることだろう。かれらは猛特訓の合間にわずかな休暇を得ると、郷里の農村に帰って四季の田畑のたたずまいに迎えられ、制服から和服に着替えて両親や姉妹たちとくつろぎ、ふたたび軍隊へ戻るときには「お母さん、ぼくが手柄を立てるまで達者でいてくださいね」と告げ、母は「お前はもうウチの子じゃないのだから」と応じる……。

 
ここに描かれているのは、主人公のなかで、一方には国家の勝利のために生命を捨てて立ち向かう戦場があり、もう一方にはその勝利すべき国家の内実として家族の住まう郷里があって、双方が分かちがたくひとつながりになっている構図だ。こうした厳しく張りつめた時代状況のもとで清瀬保二の『日本祭礼舞曲』も生まれたのであり、だからこそ音楽で豊葦原瑞穂国の原風景を描きながら、たんなるノスタルジーを超えて、強靭な日本的情緒の表現として成り立っているのに違いない。

 
そのうえで、もう一度、冒頭の問いに立ち返るとしよう。では、現代を生きるわれわれにとって、日本的情緒とは何だろうか?
 

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